まちを語る

その45 菅野 正道(郷土研究家)

その45 菅野 正道(郷土研究家)

連坊・荒町
仙台ゆかりの文化人が、その地にまつわるエピソードを紹介するシリーズ「まちを語る」。今回は郷土研究家の菅野正道さんを迎え、幼少期からなじみ深い連坊・荒町へ。思い出の場所を巡りながら、仙台の歴史もたどります。
 長きにわたり、仙台市博物館にて仙台市史の編さんに従事していた菅野正道さん。「歴史を仕事にする中で伊達政宗のことなども調べますが、そういうものに関心があると同時に、昔の庶民の生活にもとても興味があるんです」。その歴史を見る目に影響を与えたまちが、仙台市若林区の連坊・荒町界隈。「昭和50年代までの連坊や荒町は、高度経済成長期以前の雰囲気をたくさん残したノスタルジックなまちでした。そこで庶民的な温かさや親しみやすさを感じながら育った経験は、今の自分の在り方にもつながっている気がします」。菅野さんとこのまちの縁は、幼い頃から現在まで続いている。記憶の始まりは、連坊で遊んでいた少年時代だ。
連坊一丁目にある栽松院は、伊達政宗の祖母・久保姫の菩提寺。菅野さんが住んでいた長屋から数十歩の距離に位置し、栽松院の境内は遊び場の一つであった。
▲連坊一丁目にある栽松院は、伊達政宗の祖母・久保姫の菩提寺。菅野さんが住んでいた長屋から数十歩の距離に位置し、栽松院の境内は遊び場の一つであった。
栽松院の門前南側に建っていた長屋に住んだのは3歳まで。それ以降も祖母はこの長屋で暮らし、菅野さんも「ばっぱのうちさ、泊まりさ行ぐ!」とよく訪れていた。
▲栽松院の門前南側に建っていた長屋に住んだのは3歳まで。それ以降も祖母はこの長屋で暮らし、菅野さんも「ばっぱのうちさ、泊まりさ行ぐ!」とよく訪れていた。
 今や長屋跡地はコンクリート舗装の駐車場に様変わりしているが、菅野さんが子どもの頃にセミ捕りをした木は、現在も栽松院(さいしょういん)の境内に立っている。「ばあちゃんから『なんだべ、お寺でセミ捕りなんかするもんでない』と怒られた記憶があります」と笑う菅野さんだが、実はこの木が由緒あるものだということを、大人になってから知った。「これはシラカシの木で、推定樹齢1000年。伊達政宗は仙台城から見えたこの木を気に入り、久保姫(栽松院)の菩提寺をここに作ろうと決めたそうです」。
 おばあちゃん子だった政宗と同じように、菅野さんも祖母が大好きだった。小学校が長い休みに入るたび長屋へ泊まりに来ては、幾日も帰らなかったという。「祖母に連れられて連坊や荒町に買い物へ出たり、汽車を見たりと、楽しい時間を過ごせる場所でした。当時は大の鉄道好きで、私の姿が見えなくなると、たいてい踏切の近くで汽車を見ていたそうです」。そう振り返る菅野さんが「連坊で汽車を見る第一のスポット」と案内してくれたのは、鉄道を見下ろせる跨線橋。「昔はこの橋の上から泉ケ岳も見えたんですよ」と、昭和40年代の写真を見せてくれた。
残雪の泉ヶ岳を背景に上野へ向かって走るディーゼル特急『はつかり』 柏木璋一撮影 1964年3月8日(東北福祉大学・鉄道交流ステーション所蔵)
▲残雪の泉ヶ岳を背景に上野へ向かって走るディーゼル特急『はつかり』 柏木璋一撮影 1964年3月8日(東北福祉大学・鉄道交流ステーション所蔵)
写真上が昭和40年代、下が令和5年1月取材時に、連坊小路の跨線橋上から仙台駅方面へ向けて撮影されたもの。列車がスピードを緩めるこの場所は、撮影スポットとしても人気だったそう。
▲写真上が昭和40年代、下が令和5年1月取材時に、連坊小路の跨線橋上から仙台駅方面へ向けて撮影されたもの。列車がスピードを緩めるこの場所は、撮影スポットとしても人気だったそう。
 菅野さんの住まいは連坊から長町(太白区)、さらには大和町(若林区)へと移ったが、宮城県仙台第一高等学校(以下、仙台一高)に進学したことで、また連坊・荒町界隈に通う日々が訪れた。高校入学後すぐ、仙台一高の近くで長年の願いを叶えたエピソードも。「連坊小路と長泉寺横丁が交わる北西角に、和菓子屋の『モリヤ』が以前はここにあったんです。中学生の頃にここの団子が大好きで、腹いっぱい食べるのが夢でした。高校の入学祝いでお小遣いが少し貯まった頃、モリヤの団子を10本くらい買って。一人で全部食べた時は、嬉しかったですね」。そのモリヤ跡地から長泉寺横丁を北へ歩くと、もう一つのお気に入りの団子屋『萩乃屋』が現在も営業を続けている。菅野さんはお花見の時期になると、萩乃屋の団子を買ってから、斜め向かいの松音寺(しょうおんじ)へ。そこで桜を愛でるのが、昔も今も春の楽しみだ。
春には、境内に桜が咲き誇る松音寺。写真奥に見える山門は、伊達政宗が晩年住んだ若林城の大手門を移築したもの。山門をくぐれば、枯山水の美しい庭園も鑑賞できる。(写真提供:菅野正道)
▲春には、境内に桜が咲き誇る松音寺。写真奥に見える山門は、伊達政宗が晩年住んだ若林城の大手門を移築したもの。山門をくぐれば、枯山水の美しい庭園も鑑賞できる。(写真提供:菅野正道)
松音寺境内にある「須賀神社」は、連坊の守護神で「河童神さん」と呼ばれている。かつては連坊小路の東の突き当たり付近に祀られており、それが宅地開発で取り払われてしまったが、「連坊商興会や町内会の尽力によって」現在地に再建された。「連坊で生まれ育った母から聞いた話によると、6月の河童神さんのお祭りを迎えるまでは、連坊の子どもたちは水遊びをしてはいけなかったし、キュウリも食べなかったそうです」。
▲松音寺境内にある「須賀神社」は、連坊の守護神で「河童神さん」と呼ばれている。かつては連坊小路の東の突き当たり付近に祀られており、それが宅地開発で取り払われてしまったが、「連坊商興会や町内会の尽力によって」現在地に再建された。「連坊で生まれ育った母から聞いた話によると、6月の河童神さんのお祭りを迎えるまでは、連坊の子どもたちは水遊びをしてはいけなかったし、キュウリも食べなかったそうです」。
 連坊小路と長泉寺横丁の交差点を南へ進めば、街区表示板に「元茶畑」の文字が見えてくる。「この一帯は、伊達政宗がお茶の試験農場を作った場所です。ここ、坂になっていますよね」と菅野さんが指差したのは、長町–利府断層に沿って生じた坂道。「この緩やかな斜面を利用して、茶畑が作られました。意外と知られていませんが、仙台は日本の県庁所在地の中でも、霧のかかる日数が一番多いんですよ。特に長町–利府断層の斜面は海からの上昇気流によって、霧がかかりやすい。その霧と水はけの良い土地が、お茶の栽培に適していたんでしょうね」。
茶の湯を好んだ伊達政宗は、自分の目が届くところに茶畑を作った。江戸時代の絵図には、現在の仙台一高を含む一帯に「御茶畑」と書かれている。1670年頃に茶畑は廃され、下級藩士の屋敷が建ち並んだ。
▲茶の湯を好んだ伊達政宗は、自分の目が届くところに茶畑を作った。江戸時代の絵図には、現在の仙台一高を含む一帯に「御茶畑」と書かれている。1670年頃に茶畑は廃され、下級藩士の屋敷が建ち並んだ。
 元茶畑から南へ向かい、三宝荒神社の角を西へ曲がると、荒町商店街につながる。連坊方面から荒町に抜ける道はいくつかあるが、幼い頃の菅野さんは裏道を通ることが多かった。「祖母と荒町へ買い物に来る時は、保寿寺(ほじゅじ)と毘沙門さん(毘沙門堂がある満福寺)の墓地を突っ切るのが便利でしたね」。今は閑静な毘沙門堂だが、当時は参道に幾つもの露店が並び、いつ来ても野菜や菓子、雑貨などが売られていたという。多くの人が集まる場所だったことを伝えてくれるのが、鳥居の西脇に立つ「奇縁二天石」だ。「これは情報交換をする掲示板のようなもので、全国的に見ても珍しいものだと思います。仙台でも、ここだけです」と菅野さん。四角柱の右側には「をしゆる方」、左側には「たつぬる方」と刻まれている。
毘沙門堂の奇縁二天石に刻まれた
▲毘沙門堂の奇縁二天石に刻まれた"たつぬる方"とは、尋ねる方。「人や仕事を探していたり、欲しいものがあったりすれば、紙に書いてここへ貼ります。そうすると"をしゆる方"、教える方が返事を書くんです」。
江戸時代の毘沙門堂は、相撲興行で有名な場所だった。境内には、9代横綱秀の山(気仙沼出身)の供養碑や6代目式守伊之助(仙台出身)の墓が立つ。
▲江戸時代の毘沙門堂は、相撲興行で有名な場所だった。境内には、9代横綱秀の山(気仙沼出身)の供養碑や6代目式守伊之助(仙台出身)の墓が立つ。
 毘沙門堂のある荒町は御譜代町(ごふだいまち※)の一つで、江戸時代に仙台藩から麹の専売特許を与えられて発展。かつて麹屋が軒を連ねた通りには、今も創業400余年の「佐藤麹味噌醤油店」が残るほか、まちを歩けばあちこちに江戸時代の名残を感じる。「荒町はもともと町人の町。仙台城下の町人町は、基本的に間口が狭くて奥行きがある細長い敷地の屋敷が並んでいました。そのため荒町にある寺院は、屋敷の間に細長い参道があって、奥のほうにお寺が建っています」。

※御譜代町:江戸時代に仙台城下町で尊重された6つの町の総称。大町、肴町、南町、立町、柳町、荒町で、仙台の町人町の中で上位に置かれた。
仙台城下で曹洞宗四大寺に数えられる「昌傳庵」は、東北福祉大学発祥の地でもある。菅野さんは一昨年、昌傳庵の歴史を本にまとめる仕事に携わった。(写真提供:菅野正道)
▲仙台城下で曹洞宗四大寺に数えられる「昌傳庵」は、東北福祉大学発祥の地でもある。菅野さんは一昨年、昌傳庵の歴史を本にまとめる仕事に携わった。(写真提供:菅野正道)
 昌傳庵の参道の東隣には、江戸末期創業の「森民酒造本家」。仙台市街で酒造りを行っている唯一の酒蔵である。この敷地の奥には、2022年6月に甘酒カフェ「森民茶房」がオープンした。「酒粕を使ったケーキや汁物もおいしいですよ」と話しながら、カフェへ向かう菅野さん。1月のどんと祭前だったこの日、森民茶房の入り口には「仙台門松」が飾られていた。
かつて仙台藩領に飾られていた「仙台門松」は、竹が目立つ一般的な門松とは異なり、松を主役にした鳥居のような作り。菅野さんらの研究によって現代によみがえり、2020年度から「仙台門松を市内に飾ろう」プロジェクトも始動。
▲かつて仙台藩領に飾られていた「仙台門松」は、竹が目立つ一般的な門松とは異なり、松を主役にした鳥居のような作り。菅野さんらの研究によって現代によみがえり、2020年度から「仙台門松を市内に飾ろう」プロジェクトも始動。
 荒町は歴史が薫る一方で、新しい店やチャレンジも生まれやすいまち。新旧が入り交じる懐の深さも、荒町の魅力だ。「昔と比べてまちの様子はずいぶん変わりましたが、庶民的な温かさは今も残っている感じがするんです。近くに東北学院大学五橋キャンパスができるので、また大きく変わると思いますが、これまでの歴史も生かしながら、人が歩いて楽しめるまちになったらいいですね」。歴史研究を通して昔と今をつなぐ菅野さんは、この先の未来も見つめている。

掲載:2023年3月31日

取材:2023年1月

取材・原稿/野原 巳香 写真/寺尾 佳修

菅野 正道 かんの・まさみち
仙台市出身、郷土研究家。小さい頃から歴史が好きで、宮城県仙台第一高等学校を卒業後に東北大学文学部へ進み、日本史を専攻。東北大学大学院修士課程を経て、仙台市博物館学芸員、仙台市史編さん室長を歴任。2018年に退職してからは、フリーで仙台の歴史や文化を研究し、その継承・発信に尽力している。主な著書として、『せんだい歴史の窓』(河北選書)、『イグネのある村へ 仙台平野における近世村落の成立』(蕃山房)、『伊達の国の物語 政宗から始まる仙台藩二七〇年』(プレスアート)、『海辺のふるさと―仙台市東部沿岸地域の歴史と記憶』(せんだい3.11メモリアル交流館)など。