インタビュー

膝を突き合わせて話をする、つながりを生む映画祭

前編|山形国際ドキュメンタリー映画祭の歩み

はじめに、山形国際ドキュメンタリー映画祭の概要を教えてください。

山形国際ドキュメンタリー映画祭は(以下、「山形映画祭」)、1989年に山形市制施行100周年記念事業の一つとして始まり、2年おきに開催しています。映画祭の運営を初回から担ってきた山形市役所内の実行委員会が2006年に市から独立、2007年にNPO法人化し以降はこの法人が主催するようになり、現在に至っています。

山形市は、これまで映画祭が30年以上継続してきた実績と世界的評価も踏まえ、ユネスコの創造都市ネットワークに加盟申請し、2017年に日本で初めて映画分野で認定を受けました。

当法人では、映画祭の実施・運営以外に、市内にあるフィルムライブラリーの管理と、そのライブラリーや市内の公共ホール等で定期的に上映会を開催しています。

山形国際ドキュメンタリー映画祭の会場開催の様子(2017年)
提供:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭

山形映画祭の事務局のお仕事について教えてください。

事務局は山形と東京にあり、映画祭はこの二つの事務局スタッフが両輪となって、運営しています。

NPO法人である山形事務局は当映画祭の運営母体ですが、主に映画祭を開催するための下準備を整える役割を担っています。映画祭のメインプログラムである「インターナショナル・コンペティション」と「アジア千波万波」の2部門の作品募集も行っています。2021年の映画祭では応募があった1,972作品から35作品を選出・上映しました。東京事務局は初回から都内の映画配給会社に委託しているのですが、随時世界の映画制作事情等の情報収集を行い、映画祭では、ある監督のレトロスペクティブ(回顧上映)や特定の国やテーマの特集プログラムを企画・運営する役割を担っています。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2023 作品募集ポスター(東北芸術工科大学と連携して作成している)
提供:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭

畑さんはどのような役割をされているか教えてください。

私は、2001年の映画祭からボランティアとして山形に通っていたのですが、2011年から職員として今の法人に入り、2020年4月から事務局長になりました。事務局長になったのが、コロナ禍が始まった時期とちょうど重なり、前任者がこれまで担ってきた仕事に加え、コロナ禍で生じるさまざまな未知の課題に対し、手探りで判断を重ねていくというなかなか難しい任に当たっています。

事務局長としての私の役割は、基本的に映画祭の現地運営全般の統括と、通年での法人運営実務の二つが主軸です。映画祭は2年に1回ですが、それ以外にも県内各地での上映会の企画・運営などいろいろ活動しています。法人運営に関しては、基本的には十数人いる法人理事が最終意思決定者ですので、理事会に対し定期的に活動報告をしています。

山形映画祭はどのような経緯で始まったのですか?

山形映画祭は、山形市の関係者のアイディアとドキュメンタリー映画監督の故小川紳介氏の協力で始まりました。小川監督率いる小川プロダクション(以下、「小川プロ」)は、1970年代後半から山形市の隣の上山市に拠点を置いて、上山市や山形市でいくつか作品を制作していました。その後それらの作品の一つがベルリン国際映画祭で国際映画批評家賞を受賞しました。映画に詳しくない市職員でも、その受賞のことは知っており、著名な監督が上山市に在住していることを認識していたようです。

そんな時期に、山形市が市制施行100周年記念事業をいくつか検討するなかで、一過性のイベントで終わらずその後も継続可能な記録映画祭を開催してはどうかという案がでてきて、小川監督に相談する流れになり、実現に至ったというのが最初の経緯だったようです。

市主催による映画祭の実施にあたり、実行委員会の事務局も市役所の中に置かれましたが、映画評論家や映画にまつわる各種専門家の協力を得、さらに実際の運営や広報等の面で、小川プロのネットワークを生かし全国の有志から協力を得て、開催されました。この時に集まった県内外の有志ボランティア・グループの中から「YIDFFネットワーク」が発足し、その地元の主要メンバーが、その後も映画祭運営の中枢を担っていくようになります。

1989年に開催された第1回映画祭の様子(写真右:ドキュメンタリー映画監督の故小川紳介氏)
提供:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭

小川監督とともに立ち上げた山形映画祭ですが、映画祭のミッションは何でしょうか?

小川監督は、残念ながら、第2回映画祭後の1992年に亡くなり、小川プロも解散します。しかし、小川監督をはじめとした当時の中心メンバーが映画祭を立ち上げるときに志した「アジアのドキュメンタリー作家を育てる」という使命がこの映画祭にはあり、現在でもその志を受け継ぎ、アジア各地で制作を行う作家を世に出す役割を担っています*。

当時、ドキュメンタリー映画に対する関心が高まりつつあり、大規模なドキュメンタリー映画祭がヨーロッパや北米に増え始めていました。けれどアジアにはそれがなく、国際的なドキュメンタリー映画祭をアジアでも、ということで始まったという背景もあります。

1980年代末頃は、アジアでは政治的な抑圧のもと自由に映画を制作できない国も多くあり、そのような環境の中で制作に取り組む作家たちを支援し、山形を通して世界に紹介していくべきだと考えたのです。

これまでに、例えば、中国のワン・ビン監督など世界的な評価を受けている作家が出てきていますが、彼の作品は、中国国内ではほぼ上映できない状況が続いています。

*第2回の1991年からアジア・プログラムを設置。その後、アジアの新進ドキュメンタリー作家の作品を紹介するコンペティション部門「アジア千波万波」へと引き継がれた。小川監督の名を冠した「小川紳介賞」は、そのプログラムの中で最も可能性のある作家に授与される賞となっている。

映画祭期間中に発行される日刊紙「デイリー・ニュース」2019年
提供:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭

※「デイリー・ニュース」の中のインタビューはウェブサイトでも読むことができる。
https://www.yidff.jp/interviews/interviews.html

映画祭は、ボランティアの方たちの力で立ち上ったと伺いました。今、ボランティアの方々との関わりはどうでしょうか? ボランティアの方々との関係性、役割というのは変化しているのでしょうか?

この映画祭は、昔も今も、ボランティアの力で成り立っている映画祭です。奇数年の10月の1週間、映画祭というお祭りを、山形の町で作り上げるため、常連の方から初めての方まで、地元だけでなく全国から多くの有志が集まり、運営に力を貸していただいています。ほとんどの方が映画好きで、かつ山形という町の雰囲気が大好きな方々です。これらの方々が、映画祭ボランティアとして過ごす特別な1週間を心から楽しんでくださる、ということが、この映画祭の大きな特徴であり財産だと思います。

映画祭期間中は、「香味庵クラブ」*という映画祭公認の交流の場を毎回設置してきました。地元の漬物店「丸八やたら漬」さんが、お店の土蔵レストランを深夜2時まで開放してくださっていました。映画祭の運営に関わったボランティアスタッフ、観客、ゲストの映画監督、映画関係者など、大勢で座り込み、お酒や山形の郷土料理を食べながら膝を突き合わせて観た映画やイベントについて垣根なくおしゃべりするという、山形映画祭を象徴する魅力的な場でした。ボランティアに来てくださる多くの方々の楽しみの一つが、この香味庵クラブでボランティア仲間と連日映画祭と映画について語り合う、という時間にあるだろうと思います。

一方で、実際には2010年代以降、徐々にボランティアとして活動してくださる人を集めることの難しさが出てきたように思います。映画祭の初期のころと比較すると、社会全体が経済的に余裕がなくなっていることに加え、これまで大勢参加してくれていた地元の大学生も、授業日程が年々タイトになり、以前のように映画祭の期間中1週間続けて時間を取ることや、夜遅くまで手伝ってもらうということが難しくなっています。

*「香味庵クラブ」は、活気あるまちづくりを目指す市民団体「山形ビューティフルコミッション」の有志が運営していた。その会場を提供していた老舗漬物店「丸八やたら漬」は、2020年5月31日に惜しまれながらも閉店した。

香味庵クラブの様子(2015年)
提供:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭

畑さんがボランティアで関わっていた時期には、山形映画祭は、どのようなところが評価されていましたか?

山形映画祭は、2000年代にはすでに国内外の映画人から高く評価されていました。それは、上映する作品のセレクション自体が素晴らしいものであったことが第一にありました。

また、当時、日本のドキュメンタリー映画やその歴史が世界にあまり知られておらず、加えて国内の映画館でも、ドキュメンタリー映画が劇場公開されることは、ほとんどありませんでした。そのような時代でしたので、映画祭には、隠れた歴史的な記録映画の名作をその制作当時の背景とともに世界に紹介する、という非常に重要な役割があり、そこが評価された点だったと思います。

映画祭以外の貴法人の活動を教えてください。

山形映画祭はこの30年、毎回160本から200本ほどの作品を上映してきました。その中で、主にコンペティション2部門の上映作品と、映画祭への応募作品の一部をフィルムライブラリーで保管しています。
今世の中は、映画といえばデジタルシネマ一辺倒ですが、私たちは、デジタルデータだけでなく、できるだけクオリティの高い状態でフィルムを保存し、機会があれば映画祭や地域イベント等で上映することも、映画文化の豊かさを守るため、大事にしています。

コンペティション2部門の作品は、日本語字幕を付けて上映しますが、映画祭が終了した後に作品権利者と契約を結び、国内の上映希望者に貸し出せるようにしています。また、貸出作品リストを作成して地域の各上映団体や、全国の大学の先生方に情報をお送りし、自主上映をしませんかとご案内もしています。

現在SDGsへの関心が高まっていますが、1989年からライブラリーに蓄積してきた、歴史的な、あるいは同時代の社会問題を描いたドキュメンタリー映画の存在とその価値に新たに注目いただき、全国のより多くの上映者や各種団体に利用いただきたいと考えています。

掲載:2023年1月20日

取材:2022年1月

聞き手・構成:菅野 幸子(アーツ・プランナー/リサーチャー)

このインタビューは、文化施設運営や事業のあり方や考え方、コロナ禍における影響や対応方法などについて、東北の文化施設・団体にお話を伺いました。

※記事内容(施設の事業や考え方、コロナ対策含む)や個人の肩書等は、インタビュー当時のものです。

畑 あゆみ はた あゆみ
認定NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭 事務局長
記録映画史を研究していた大学院時代の2001年から、ボランティアとして山形国際ドキュメンタリー映画祭に関わる。2011年に職員として、映画祭の運営母体である認定NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭山形事務局に勤務し、インターナショナル・コンペティション部門などを担当。2014年には「311ドキュメンタリーフィルム・アーカイブ」を立ち上げた。2020年に事務局長に就任。次回、山形国際ドキュメンタリー映画祭2023は、2023年10月5日から12日に開催予定。