連載・コラム

2.ロック雑誌『Easy On』と振り返る仙台の13年

宮城の雑誌クロニクル

前回1970年代後半にタウン誌創刊ブームが起き、全国に300以上のタウン誌が存在したと書いた。特に1978年の仙台は、1月に『グラフ寒つばき』、4月『けやきの街』、6月『月刊エミネント』、7月『街の灯り』、8月『Easy On』、9月『月刊YES or NO』と6誌が創刊され、雑誌文化が花開いた年だった。本稿では、その中でもROCK MAGAZINEを謳い、仙台から音楽文化を発信し続けた『Easy On(イージーオン、のちにEazy Onと改名。以下EO)』を取り上げたい。

1978年8月の創刊から1991年4月号の休刊に至るまで、実に13年、通巻106号にわたって発行を続け、多くの有名ミュージシャンが表紙を飾った。全国的にも珍しい地方のロック専門誌が、なぜ仙台で生まれ、どう維持され、どんなムーブメントを生み出したのか。創刊編集長・岩渕純一さんが記した言葉や、発行人兼編集人として長きにわたり雑誌を支えた2代目編集長三浦マサヨシさんのコメントを交えながら、EOが駆け抜けた“仙台とロックの13年”について記したい。

川元茂(株式会社プレスアート 取締役)

仙台にロック雑誌があった頃

 ハウンド・ドッグ、ARB、RCサクセション、シーナ&ザ・ロケッツ、BOØWY、ザ・ブルーハーツ、JUN SKY WALKER(S)、泉谷しげる、矢沢永吉といった名だたるロッカーたち。チープ・トリックやDEVO、ラリー・カールトン、フリートウッド・マックなどの外国人ミュージシャン。彼らの写真が表紙を飾り、インタビューが誌面を躍る。 1970年代後半から1990年代初頭にかけて、仙台・宮城・東北の音楽シーンと並走した雑誌EO。ハウンド・ドッグのデビューを見つめ、村田町のスポーツランドSUGOで開催されていた伝説の野外ロックフェス「ロックンロールオリンピック(以下R&Rオリンピック)」を扇動し、ロックが若者文化のメインストリームだった時代を支えたEOはどうやって生まれたのだろうか。

左上のシルバーの表紙が創刊号。創刊から5号はB5サイズだった。

それは河合楽器のスタッフからはじまった

 1978年8月、ROCK MAGAZINE『Easy On』が創刊された。第1号の目次を見ると「対談 ロックにとってPOPとは何か」「仙台ロックマップ」「仙台ロックバンドリポート」「連載 ブラックミュージック」などの特集が組まれている。創刊したのは、河合楽器仙台店に勤め、自らバンド活動をしていた岩渕さん。本業の傍ら、第4号まで編集長を務めた。創刊号はロックバンド・フリーやオールマン・ブラザーズ・バンドのディスコグラフィを取り上げるなど、編集長の個人的志向が垣間見える雑誌だった。『Easy On』のタイトルは、前述したフリーのアルバム「HEARTBREAKER」に収められた「Easy on My Soul」という一曲から。「簡単に、気楽に」といった意味だろうか。編集後記に創刊の経緯が書かれているので少し引用したい。

 「最初は、僕ひとりの気まぐれから始めたんだけど、ここまでくると気まぐれでは済まされない。話が大きくなるにつれて、いろいろな人から『意義は?』とか『主旨は?』とか聞かれて困ってしまった。実は、僕自身動機が漠然としていたし、ただ雑誌を作る以上は、買って損のないものを、読みやすいものをという常識的な考えがある程度だった。それに主旨だとか意義なんてものは、そんなに重要だとは思わない。それよりも何かを始めようとする事、そして実際に行動する事だと思う。EASY ONの特徴は、他のミニコミ誌のようにマニアックなものでなく、メジャーを指向していることである。そして仙台のロックをもっといいものにという考えが原点である」

 創刊2号では「パンク」を特集。当時セックス・ピストルズやザ・クラッシュなどのパンクロックが盛り上がりを見せた時期だった。そして第2号で早くもCHARが登場。秋田ライブ密着取材はいま見ても読ませる記事だ。創刊3号ではチープ・トリック仙台公演実現までの経緯を特集するなど、創刊号の編集後記での“メジャー志向”という言葉を裏付ける記事が続く。

 「まずは行動を」という岩渕さんの衝動。「気楽に」という誌名。アマチュアバンドがブームだった時代背景。「仙台をもっと面白くしたい」というそれぞれの思い。岩渕氏と仲間たちは原稿を書き、誌面をデザインし、一冊のミニコミ誌が生まれた。若者たちの熱を感じる雑誌だった。それがアマチュアバンドやメディアから注目されるようになり、その熱さは仙台のみならず、東北や東京にも広がっていった。

東京のライブハウスで創刊号と出会いました

 その熱を東京で受け取ったのが前述した2代目編集長で宮城県美里町出身の三浦マサヨシさんである。のちに発行人兼編集人兼ライターとして雑誌を支えることになる三浦さんだが、EO創生期は「いつか仙台で雑誌を作りたい」という夢を抱きながら、昼は音楽雑誌の編集助手、夜はライブハウスで働く日々を送っていた。そんな時にライブハウスに銀色の表紙のEOが届いた。三浦さんは当時の気持ちをこう振り返る。

 「仙台の音楽シーンに真っ向から向き合う姿勢に共感を覚えました。先を越された気持ちもありましたが、編集スタッフの情熱を感じ、舐めるように創刊号を読みました。やっと仲間に出会えた気がしたんです」

 編集部には他の楽器店のスタッフやアマチュアバンドのメンバーなど、面白い書き手がたくさんおり、時にはハウンド・ドッグのメンバーが遊びに来たりした。そして創刊翌年の1979年にはEO主催で仙台初のオールナイト年越しライブ「ホットロック’79」が開催される。場所は仙台駅前の大黒天(筆者注:花京院にあったディスコではないだろうか)。11バンドが出演し、約350名を動員したライブだった。三浦さんはこの時はじめてハウンド・ドッグのライブを聴き、衝撃を受ける。のちにデビューを飾る大宮京子さん(バンド「Orange」のボーカル)やジャズフェスの生みの親の一人として知られる榊原光裕さん(バンド「コンビネーションサラダ」のキーボード)もこのライブに出演していた。当時の仙台の音楽シーンの凄さを感じ、三浦さんは宮城に戻ることを決意する。三浦さんの参加とともに本業の傍ら雑誌編集を行っていた創刊スタッフは少しずつ手を引きはじめ、第5号から三浦さんが編集長に就任し、EOの中心となっていく。

 ちなみに創刊3号には、「ホットロック’79」のレポートが掲載されており、ハウンド・ドッグ・オールスターズのステージは「一時間以上に及ぶ演奏で、その間場内総立ちに近い大ノリ大会という信じられない光景になった。<中略>どうやら、今度は大友康平というスターが誕生するかも知れない」と、その後の躍進を予言している。

創刊3号の「ホットロック’79」ライブレポート

第1回ロックンロールオリンピック開幕!

 EOは創成期のB5サイズ時代、タブロイド紙時代、A5サイズ時代の3期に分けられるのではないだろうか。形が変わり、発行元も変わった。その変遷には苦労が伺える。改めて思うが、雑誌を発行し続けるのは簡単なことではないのだ。「特に苦労したのは営業面だった」と三浦さんは言う。いくら情熱があっても資金繰りに困れば発行は止まってしまう。1980年に入り、三浦さんはレコード会社の仙台支店のプロモーターたちから助言を受け、発行部数を増やし、レコード店などへの配布を中心としたタブロイド紙に変えることを決意する。EO第2期のはじまりである。EOはCBSソニーを通じて、トラックで東北6県に一斉配布された。

 1981年、大友康平がプロデュースし、当時の所属事務所だったフライングハウスが主催する第1回R&Rオリンピックの計画が発表される。1981年8月号では、R&Rオリンピックの直前情報が掲載され、大友康平が「“楽しかった”で終わるんじゃなくて、“凄かった”で終わるコンサートにしたい」と抱負を述べている。RCサクセションやARBを迎えての第1回R&Rオリンピックは6500名を動員し、伝説になった。以降、日本を代表する野外ロックフェスとして1994年の第14回で幕を閉じるまで、子供ばんど、ルースターズ、ハートビーツ、本田恭章、THE GOOD-BYE、VOW WOW、ピンククラウド、BOØWY 、ECHOES、THE STREET SLIDERS、シーナ&ザ・ロケッツ、爆風スランプ、浜田麻里、遠藤みちろう、バブルガム・ブラザーズ、RED WARRIORS、竹田和夫、JUN SKY WALKER(S)、エレファントカシマシ、筋肉少女帯など、錚々たるミュージシャンが出演している。それと連動する形で、誌面でのライブレポートや参加バンドの発表がEOの定番となっていく。ちなみに1985年からR&Rオリンピックの主催社であるフライングハウスがEOの発行を引き受けた(休刊まで)。

タブロイド時代のEO。
第1回R&Rオリンピックのレポート記事。

 EO創刊からの4年間、仙台の音楽シーンは大きく動いた。外国人アーティストが数多く来仙し、ハウンド・ドッグがプロデビューし、R&Rオリンピックが開催された4年間だった。年表形式で振り返ってみたい。

<1978年>
8月 『Easy On』創刊
10月 ラリー・カールトン仙台公演(花壇ミュージックセンター)
12月 「ホットロック’79」開催(大黒天)
<1979年>
3月 チープ・トリック仙台公演(宮城県民会館)
7月 ハウンド・ドッグ東北ツアー(アマチュアで東北を回ったのは彼らがはじめて)
8月 サマーロック・イン・化女沼(主催:Easy On)
8月 第1回CBSソニー・オーディション(ハウンド・ドッグが合格)
10月 オレンジ、デビュー(11月には多喜子、翌1月には中條真一がデビューし、仙台のミュージシャンがデビューラッシュ)
12月 ハウンド・ドッグ、内田裕也プロデュースの「ロックンロールBAKA」に出演
<1980年>
1月 ラリー・カールトン仙台公演(宮城県民会館)
1月 KNACK仙台公演(宮城県民会館)
1月 ライブハウスJAMが文化横丁にオープン
3月 ハウンド・ドッグ「嵐の金曜日」でデビュー
4月 ブームタウン・ラッツ仙台公演(宮城県民会館)
5月 DEVO仙台公演(宮城県民会館)
8月 ハウンド・ドッグワンマン(宮城県民会館)
12月 ジェフ・ベック仙台公演(宮城県民会館)
<1981年>
2月 ポリス仙台公演(電力ホール)
2月 カーラ・ポノフ仙台公演(宮城県民会館)
2月 JAPAN仙台公演(宮城県民会館)
5月 ノーランズ仙台公演(宮城県民会館)
5月 ジョン・デンバー仙台公演(県スポーツセンター)
8月 第1回R&Rオリンピック(スポーツランドSUGO、動員数6500名)
9月 ジェイムス・テイラー仙台公演(宮城県民会館)
※1989年12月号「仙台ロック10年史」より抜粋

1983年の再創刊号(左上、vol24)から、タブロイドサイズから再びA5サイズの雑誌スタイルに。

ROCK MAGAZINEから東北音楽情報へ

 タブロイドで18回発行したのち、1983年EOは再び本の体裁に戻る。サブタイトルを「東北音楽情報」に変更し、再出発を図った。10月号の編集後記には「本になったEASY・ONの最大の売りものは“東北音楽情報”の充実だ。今まで新聞の一ページに十把一絡に載せてきた情報を六県各々独立させ、更にコンサート情報等の未来情報は“今月の東北地図”で一望できるようにした。何にもないなんていわれる東北が、バクテリアのように強靭に動いていることがお分かりでしょう」とある。一方「営業的な欲が出てきた」とも書かれている。以前は発行が遅れることもあったが、リニューアルは成功を収め、1985年6月号から月刊化に。ライブ情報もアマチュアバンドの情報も東北6県を視野に入れた編集がなされ、この方針は終刊となる1991年まで貫かれることになる。東北ロッカーズ名鑑などの人気企画も生まれ、徐々に部数が伸びていった時期でもあった。

1984年から1985年にかけてのEO。1984年10月号から誌名を『Easy On』から『Eazy On』に変更。
1986年のEO

こんな特集や出来事もあった。

1985年12月号 「博多ロック」特集
1986年1月号 東北出身ミュージシャンによる指南「こうすればプロになれる!」特集
1986年9月号 R&Rオリンピック公式認定プログラムとして発売
1987年1月号 「ARB魂の軌跡」特集
1987年4月号 「博多見聞録」特集
1987年8月号 「R&Rオリンピック シークレットバンド発表!」
1987年10月号 「R&Rオリンピック ARBとBOØWYのレポート」
1987年12月号 「JUN SKY WALKER(S) 東北ツアー同行記」
1988年6月号 ザ・ブルーハーツが表紙を飾る
1988年8月号 「R&RオリンピックQ&A」
1989年1月号 「誌上再現ロックンロールフォーラム」渋谷陽一ほか
1989年12月号 「仙台ロック10年史」
1989年8月号 矢沢永吉が表紙を飾る
1991年4月号 EO通巻106号で休刊(56頁)。総合タウン誌『N-datcha!』に移行する

1987年のEO
1988年のEO
1989年のEO
1990年のEO
1991年のEO。4月号で休刊となった。(ここまで三浦さんの私物をお借りして撮影しています。一部欠落もあります)

 一読者として、あるいは同じ仙台で雑誌を創刊し発行し続けることの苦労を知る者として「なぜこんなに苦労してまで雑誌の発行を続けて来たのでしょうか」を問いたかった。三浦さんは「10年続けないとシーンは語れないという思いがありました。意地だったのかもしれません」と教えてくれた。そしてEOのことを「青春だったけど、いま読み返すと、おしょすい(宮城弁で恥ずかしい)」と振り返る。仙台の音楽シーンにどういう影響を与えたのかという問いには「正直よく分かりません。それぞれの心の中に答えはあるのではないでしょうか」とも。

 改めて創刊号から106号までを読み、筆者はその熱量に圧倒されている。仙台にロック文化を根づかせる試みは、13年間疾走し、バンドブームの終焉とともについえたが、数多くの伝説を生み出した。EOの13年間の物語が再評価され、その魂が次の世代の誰かに受け継がれていくことを願ってやまない(バックナンバーは宮城県図書館のみやぎ資料室で閲覧可能です)。

三浦マサヨシさん。現在は美里町の「玄松院」で住職を務める。
EOの後は、Datefmでラジオ番組のパーソナリティなどを務めた。

掲載:2022年11月24日

川元茂 かわもと・しげる
1967年生まれ。株式会社プレスアート取締役。海外旅行情報誌『AB・ROAD』編集部で、世界20カ国を取材。仙台に戻り、株式会社プレスアート入社。『ファッション&ピープルマガジン COLOR』『せんだいタウン情報 S-style』『大人のためのプレミアムマガジン Kappo 仙台闊歩』編集長を経て、現職。2006年からDatefmで8年間「Radio Kappo」のパーソナリティ。仙台短編文学賞実行委員会事務局長。タウン情報全国ネットワーク理事。