まちを語る

その3 渡邊 慎也(地域文化・出版文化研究家)

その3 渡邊 慎也(地域文化・出版文化研究家)

広瀬川に沿って —川内・片平界隈—
仙台ゆかりの文化人が、街に出かけてその場所にまつわるエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。
今回は、地域の文化と歴史の継承をライフワークとして研究し続けている渡邊慎也さんにご登場いただきます。幼少時の思い出がたくさん詰まった広瀬川沿いのエリアで、“仙台人が知らない仙台の話”が次々に飛び出しました。
『季刊 まちりょく』vol.3掲載記事(2011年6月15日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

川内

戦後すぐに住んだ川内追廻の自宅跡に立つ。家からは文人墨客が愛した景勝地「仙台七崎」のひとつ「青葉ヶ崎」を眺めることができ、渡邊さんは「追廻の特等地でした」と懐かしむ。
▲戦後すぐに住んだ川内追廻の自宅跡に立つ。家からは文人墨客が愛した景勝地「仙台七崎」のひとつ「青葉ヶ崎」を眺めることができ、渡邊さんは「追廻の特等地でした」と懐かしむ。
 うっすらと雪が残る1月のある日、渡邊慎也さんの案内で街に出た。渡邊さんは仙台の文化に関する資料を長年にわたり収集・研究し、その蓄積を積極的に提供している先達である。郷土が育んだ豊かな文化を次代に引き継ぐため、渡邊さんが中心となり2005年に創刊した雑誌「仙臺文化」は、昨年惜しまれながら休刊したが、ふるさとへの愛と探究心はますます熱くなっているようだ。寒さの中、渡邊さんの足取りは軽い。
仙台城址から“Sendai Cliff”を一望できるポイント。この場所に観光客の姿はほとんどない。
▲仙台城址から“Sendai Cliff”を一望できるポイント。この場所に観光客の姿はほとんどない。
 最初に訪れたのは仙台城天守台南端、政宗公の騎馬像とは逆方向のところ。眼下に花壇の自動車学校、広瀬川の向うには「経ヶ峰」をかかえる霊屋下が見える場所に出た。渡邊さんは対岸の断崖を指し、「あの崖は、戦後仙台に駐留した米兵たちが“Sendai Cliff”と呼んでいたんですよ」と教えてくれた。恥ずかしながら初耳である。戦前戦中、仙台城址には第二師団が置かれていたが、敗戦後は1957年まで駐留米軍の管轄となっていた。将兵たちはジープを飛ばしやって来て、断崖を望むこの場所で記念撮影をしていたという。
鯉をつかんで遊んだ大手門脇の池。この近辺には戦後、進駐軍の将校用ハウスが建てられ、のちに東北大学の官舎として使用された。建物は現存しないが、渡邊さんが足元の石段や小道を指差し、「ハウスのアプローチの跡です」と教えてくれた。
▲鯉をつかんで遊んだ大手門脇の池。この近辺には戦後、進駐軍の将校用ハウスが建てられ、のちに東北大学の官舎として使用された。建物は現存しないが、渡邊さんが足元の石段や小道を指差し、「ハウスのアプローチの跡です」と教えてくれた。
 天守台を下り、大手門跡へ。かつてこの場所には国宝に指定された荘厳な二階建ての大手門と脇櫓がそびえていた(1945年7月10日の仙台空襲で焼失。1965年に脇櫓だけが復元された)。道路脇の林の中へ入って行くと、枯葉に埋もれるように小さな池があった。小学生の頃、米ヶ袋に住んでいた渡邊さんの思い出の場所だ。夏休みのある日、「ここまで来てみたら、大手門にいつも立っている歩哨がいなかった。ふと見ると、門を上り下りするための梯子がかかったまま。これは千載一遇のチャンスだ!と、友達と梯子を伝い二階に上がった。そのときの眺めは忘れられないですね。まさに政宗公の気分でしたよ」。見つかったらただでは済まないが、冒険を無事敢行した後、この池で鯉つかみをして遊んだのだそうだ。当時、池は今より大きくて水もたっぷりあった。鯉はもしかすると軍が飼育していたものかもしれない。「よく電車に釘を轢かせたりもしたし、今だったらPTAが肝を冷やすようなことばっかりしていたねえ」と、渡邊さんは腕白時代に返り笑顔を見せる。
広瀬川の河原で石投げをする渡邊さん。さすがの腕前。
▲広瀬川の河原で石投げをする渡邊さん。さすがの腕前。
 池を後にして、渡邊さんが戦後間もなく転居した川内追廻へ。現在では家もまばらな一帯だが、「当時は660世帯ぐらいあったかなあ。私の家は“361号”でした。その頃は海外の人たちと文通をしていたのですが、宛先が“Shinya Watanabe, Sendai, JAPAN”だけでちゃんと届いたんですよ。そんな時代でした」。追廻から広瀬川の河原へ。「やはり流れの音はいいですね」。この川も少年時代の絶好の遊び場だった。「家にランドセルを放り出して遊びに来ていましたよ。カジカを取って友達と見せあったり、冬は霊屋橋の下で下駄スケートをしたり」。渡邊さん曰く「広瀬川は遊びと学びの庭」。今の子どもたちの「遊びと学びの庭」はどこにあるのだろうか。

片平

石垣の境目。「魯迅が下宿していた監獄前の仕出し屋は有名なのに、この石垣の違いや歩道の下が四谷用水の跡ということは、見過ごされていますね」と語る。
▲石垣の境目。「魯迅が下宿していた監獄前の仕出し屋は有名なのに、この石垣の違いや歩道の下が四谷用水の跡ということは、見過ごされていますね」と語る。
 街歩きの締めくくりは片平界隈へ。東北大学の正門に向かうと、歩道沿いに古い石垣が続く。「いいですか、よく見ていてください。途中から石組みが変わりますよ」。渡邊さんの言う通り、ある地点を境に石の大きさが全く違う。「藩政時代、片平丁は重臣たちの屋敷町で、この石垣はその名残りです。明治初年、この一角に宮城県監獄署が造られ、石垣も一部造り直されました。獄舎には後の外務大臣陸奥宗光も収監されていたんですよ……」。
米ヶ袋1丁目(元鍛冶屋前丁)の「アルブマロカフェTLY」は、渡邊さんのお気に入り。この通りには、かつて未決囚収監所、馬の蹄鉄を打つ鍛冶屋、自転車屋、笹かまぼこをつくる魚屋などがあった。
▲米ヶ袋1丁目(元鍛冶屋前丁)の「アルブマロカフェTLY」は、渡邊さんのお気に入り。この通りには、かつて未決囚収監所、馬の蹄鉄を打つ鍛冶屋、自転車屋、笹かまぼこをつくる魚屋などがあった。
 目を啓(ひら)かれるとはこのようなことを言うのだろうか。今回訪ねたのは、仙台城址に広瀬川といった仙台人にはおなじみの場所だ。しかし、その場所について知っていることがあまりに少なく愕然とする。渡邊さんは言う。「文化についても同じで、仙台には多くの文化の種が蒔かれてきたのに、市民はそれを知らない場合が多いのです。それらを発見し広げていこうというのが、私の願いです」。

 片平の川沿いの高台に立つと、霊屋橋の全景が目に飛び込んできた。薄暮の中の仙台の街がこんなにも美しいとは。最後の最後まで発見の連続だった。

掲載:2011年6月15日

写真/佐々木隆二

渡邊 慎也 わたなべ・しんや
1931年仙台市元鍛冶丁生まれ。米ヶ袋で育ち、戦災後は追廻へ転居。その後太白区へ移る。1986年、出版史研究の念止み難く、54歳でNTTを早期退職。1988年から2000年までは野村證券仙台支店の非常勤嘱託。出版史研究では、1989年から2年間、宮城県教育委員会刊行『教育宮城』に、“シリーズ宮城の教科書”を連載。この間1990年3月、日本出版学会紀要『出版研究』20号に、“文部省蔵版教科書の地方における翻刻実態~宮城県を例として”を発表。翌91年5月、同作品で日本出版学会努力奨励賞を受賞。以後、“シリーズ宮城の雑誌”(1994~99『仙臺郷土研究』)、“仙臺書林・伊勢屋半右衛門の出版実態”(2002年『日本出版史料』7号)などを発表。2005年5月、20世紀前半の郷土史料を引き継ぐ“杜の都の都市文化継承誌”『仙臺文化』を、同人12人と発刊。2010年11月、11号をもって終止符を打つ。ライフワークの“地域情報の共有化とその継承”に、引き続き取り組むという。