連載・コラム

3.読者とともに雑誌を作った『せんだいタウン情報』

宮城の雑誌クロニクル

川元茂(株式会社プレスアート 取締役)

▲1977年の『せんだいタウン情報』

現存する仙台最古の情報系タウン誌『せんだいタウン情報』

 1975年3月に創刊された『せんだいタウン情報』は『せんだいタウン情報 S-style』と誌名を変えながらも48年間続く仙台最古のタウン誌である。月刊→隔週刊→月刊と号を積み重ね、2023年4月号で実に通巻700号を迎える。EPC系列の情報系タウン誌(※1)でもっとも古い時期に創刊されたのが『ながのタウン情報』(1973年2月創刊)で、仙台は2番目。その後、松山、札幌、新潟、高松、福岡(※2)と創刊が続いた。残念ながら『ながのタウン情報』は2004年11月に有料版を休刊してしまい、現存する情報系タウン誌の中では仙台は盛岡に次ぐ2番目で、松山、新潟、高松、福岡がそれに続く。1970年代の『せんだいタウン情報』(以下せんだいTJ)を振り返りながら、せんだいTJがいかに読者に受け入れられていったのか、バックナンバーと当時出版されたタウン誌関連の書籍を読み込み、内部からの「近い眼」と外部からの「遠い眼」で分析してみたい。

※1 筆者は情報系タウン誌と銀座百点系タウン誌は別個のものと考えている。詳細はまた別の機会にどこかで書きたいと思う。EPC=全国の中堅印刷企業によるネットワーク。
※2 号数で言えば2023年4月号で855号となる『シティ情報ふくおか』のほうが多いが、創刊年は1976年と仙台より1年遅い。これは発行サイクルによる違い。

▲古書店で探してなんとか入手したタウン情報関連の書籍

179誌あったタウン誌が16誌に激減

 1981年に発行された書籍『タウン誌全国カタログ』(コミュニティ・マガジン研究会編/毎日新聞社)には、北海道12誌、東北23誌、関東(東京除く)32誌、東京31誌、中部29誌、関西20誌、中四国14誌、九州沖縄18誌の計179誌のタウン誌が紹介されている。あとがきには「タウン誌はその街の心をつたえるメッセージに溢れています。その町のタウン誌をガイドにすれば、きっと新しい発見があるという経験から、このカタログの企画が立てられました」とある。全国各地にたくさんのタウン誌が誕生し、土地の魅力を発信してきた当時のタウン誌の勢いが垣間見える。

 東北では青森の『北の街』『月刊弘前』、岩手の『みやこわが町』『月刊アキュート』、山形の『うぃずy』、福島の『街こおりやま』『月刊タウン情報いわき』などが掲載され、宮城では『せんだいタウン情報』『映画情報紙きーの』『月刊かんつばき』の3誌が紹介されていた。ちなみに上記179誌のうち、現存するタウン誌は16誌のみ(筆者調べ)。実に現存率8.9%。東京の情報誌の2大勢力だった『ぴあ』も『シティロード』も休刊した。 1970年代後半から80年代にかけて雨後の筍の如く誕生したタウン誌のほとんどはすでに休刊廃刊している事実に凍り付く。

駅弁のごとくブームになったタウン誌

 タウン誌に関する書籍をもう1冊紹介したい。ルポライターである岩田薫氏が記した『タウン誌の論理:創る・読む・旅する』 (潮出版社/1977年発行)である。本稿を執筆するにあたり、当時のタウン誌の空気を知る貴重な資料となった。岩田氏は北から南まで全国のタウン誌編集部を訪ね歩き、「若きタウン誌の現場からの燃えたぎる情熱を伝達せねば」という思いとともに本書を記した。少し長いが、まえがきから引用したい。

 「世はまさにタウン誌ブームである。地方のちょっとした書店へ行けば、そこには必ずその地域の“地元発地元行”のタウン誌が並んでいるし、また東京でもめぼしい幾つかの書店が“ふるさとコーナー”ならぬタウン誌の特設スタンドを設け、主要何誌かを毎月定期販売している状況である。しかもブームはそれだけに留まることを欲しない。マス・メディアの側がその紙面を通してこの状況に火をつけたのである。<中略>そもそも、タウン誌なるものが、全国各地で創刊され、やがて“駅弁雑誌”のごとく二十万都市に必ず一誌(多いところは数誌)が定期刊行されるような事態となったのは、いまから二年ぐらい前のことである」と書かれている。1977年当時、駅弁雑誌という比喩が使われるほどタウン誌が定着していたことが伺える。

▲1978年のせんだいTJ

牽引するのは若者。彼らは作り手であり、読み手であった。

 同書にはせんだいTJも取り上げられている。岩田氏は当時の仙台のタウン誌事情について「東北最大の都市とはいえ、それまでの仙台というところは、保守的というか新しいものをあまり好まない土地であった。タウン誌の類にしてもそれまで各種出ていたが、なかなか市民の間に浸透せず皆つぶれてしまったという。そんな厳しい状況の中で『せんだいタウン情報』が生きのびてこられたのは、彼ら若い編集スタッフのアイディア戦略が大ヒットしたからだろう。そのアイディアとは何か。仙台という地名にちなみ、その名も“何駄平屋仙太郎”というネームのついたネコを、同誌のシンボルとして誌上に登場させたことである」と記している。インタビューを受けたのは編集長の鴇田(ときた)和彦氏(当時24歳)。平均年齢22歳の編集室を率い、「雑誌で遊べることを若者に教える」を編集方針に掲げた2代目編集長だ。バックナンバーを読んでいると、この頃から誌面の雰囲気が変わってきていることがわかる。「雑誌で遊ぶ」とはどういうことなのだろうか。

▲読者はがき。真ん中にいるのが仙太郎

 鴇田編集長は「折り込みの読者カードの中に“仙太郎”と話を読者がしているように文を書けるスペースを作り、編集部に送ってきてくれたものをどんどん本誌の“読者コーナー(言いたい放題)”のページに入れるようにしたら、発行部数が毎月500ぐらいのペースで伸びるようになり、40,000部の大台に達するに至ったんです」と語っていた。雑誌という場を使って、読者とコミュニケーションをはかることが「雑誌で遊ぶ」ということなのだろう。ちなみに仙太郎はvol.12から登場したせんだいTJのキャラクター。“何駄平屋” の“駄”は下駄の駄であり、“平”は助平の平であることが命名の理由で、表紙にも誌面にも登場するとぼけた毒舌ネコだ。読者からのコメントに突っ込みを入れるキャラでもある。

▲BF・GF募集や文通募集には個人名や住所が載っていた。いまでは考えられない。

 加えて読者コーナーには、「BF・GF(ボーイフレンド・ガールフレンド)募集」「文通希望」「ゆずってください/ゆずります」「求む仲間/求むアルバイト」等のテーマがあり、年齢を見ると、ハガキを送ってくるのは10代後半から20代前半に集中していた。携帯電話やメール、SNSがない時代、仙台の若者たちはタウン誌を通して、恋人や仲間と繋がった。単に音楽や映画などのイベント情報を得るだけでなく、積極的に読者同士が繋がっていたことがわかる。読者との関係の近さを示す記述を誌面から拾ってみる。

 「タウン情報は今月号で20号目、読者の皆さんからいただいたお便りが15,972通です(筆者注:平均すると月800通に及ぶ。これはすごい数字だ)」(1976年11月号vol.20「編集後記」より)

 「読者の皆さん!どうぞ編集部に遊びに来てください。タウン情報のこと、仙台のこと、恋の悩みのこと、面白い企画のこと、広告のこと、とにかく何かやりたいと思っている人、気軽に訪ねてきてください。前の日に電話もらえればどなたでも結構です。お待ちしてまーす!!(筆者注:恋愛相談を編集部にする時代だったのか!?)」(1976年12月号 vol.21「編集室引っ越しのお知らせ」より)

 「多い時には1日100通を超える葉書が届く。それを読むのが編集室の朝の日課です(筆者注:1日100通もすごい数字です)」(1977年2月号vol.23「編集後記」より)

▲1979年のせんだいTJ
▲第1回仙台人人気投票の結果(1979年4月号 vol.49)

 こうした読者との距離の近さと遊び心は、せんだいTJの伝説の人気企画「仙台人人気投票」に結実する。仙台に住んでいる人ならだれでも対象になり、組織票も自薦もOKというゆるいルール。ただし、読者はがきが投票用紙なので、投票したければ雑誌を買うしかないわけで、読者参加&実売部数につながる賢いやり方だ(のちに某アイドルグループも似たようなことをやっているが……)。1979年から1993年まで、実に15回開催され、中間発表含め、皆が注目し、盛り上がった企画だった(かくいう筆者も高校生の頃、自薦で1票投票したことがあった。当時は2票から掲載されることになっていたので、誰かからもう1票入ることを期待したが、そんなことが起こるわけもなく、スルーされた。こういう少年はほかにもいたのではないだろうか……)。

 ちなみに第1回人気投票は、男性部門が今でもご活躍されている歌手のさとう宗幸さん。女性部門はTBCのアナウンサーだった高荒葵さん。第2回は喫茶店のマスターとマン研の女性会長。15回のランキングには、高校生、大学生、予備校の先生、ミュージシャン、アナウンサー、店員さん等々、多種多様な方々がランクインしており、このあたりの振り幅がせんだいTJの人気投票らしいし、投票の結果は今見ても面白い。

 プレスアートの今野嵩之会長(当時社長)は「創刊から3年ぐらい、2代目の編集長の時代に部数が爆発的に伸びた。友の会やTJクラブとか、読者と積極的にコミュニケーションを取った時代だった」と振り返る。友の会とは読者組織のこと。せんだいTJが主催し、運動会や野球大会などのイベントを行っていたのだが、今ではなかなか考えられないことである。編集するのも、投稿するのも、情報を寄せるのも、行動するのも、表紙を飾るのも若者だった。1970年代から1980年代にかけて、タウン誌は若者が欲し、若者がつくる、若者のためのメディアだった。

▲春の大運動会のお知らせ(1979年4月号 vol.49)

 この連載で、戦後から1970年代に創刊された雑誌を振り返ったが、正直まだまだ語り切れていない。読者とともに作ったという視点で言えば、読者投稿がコンテンツの中心だった『月刊けやきの街』(1978年創刊)が挙げられるだろうし、仙台以外の都市で花開いた気仙沼の『寒つばき』(1974年創刊)、石巻の『ひたかみ』(1974年創刊)についても深掘りしたい。1980年にも創刊ブームがあり、1月に『Express』、4月に『せんだいタウン情報スーパーセッション』、7月に『レディスタウン』、9月に『Joyふるかわ』、12月に『展』と5誌も誕生している。1970年代から80年代にかけて、自分たちが暮らす街の情報は自分たちで発信すべきという若者たちの思いは全国に広がり、宮城にも多くの雑誌が誕生した。そのほとんどはすでに失われてしまったが、当時の若者たちが求めた文化と情熱がタウン誌とともにあったことを記しておきたい。

▲1980年のせんだいTJ

掲載:2023年2月3日

川元茂 かわもと・しげる
1967年生まれ。株式会社プレスアート取締役。海外旅行情報誌『AB・ROAD』編集部で、世界20カ国を取材。仙台に戻り、株式会社プレスアート入社。『ファッション&ピープルマガジン COLOR』『せんだいタウン情報 S-style』『大人のためのプレミアムマガジン Kappo 仙台闊歩』編集長を経て、現職。2006年からDatefmで8年間「Radio Kappo」のパーソナリティ。仙台短編文学賞実行委員会事務局長。タウン情報全国ネットワーク理事。