卒寿を過ぎても、背筋が伸びた人だった。1926(大正15)年生まれの大叔母は、夫の祖母の妹にあたる。小柄な体型を生かす着こなしで、立ち姿もすっきりとしていた。
盛岡に暮らす大叔母と会うのは、年に数回。ゆっくり語らったことは数えるほどしかないけれど、生活を通して布や物への感じ方を示してくれたのが大叔母だった。
向かい合って話していると、ふと私の服に目に留め「いいですね」と言うことがあった。それは、繰り返し洗われて色がさえてきた藍染めの服であったり、くるみボタンの付いた、少し袖のある手編みのニットであったりした。
直観で物を見るのは、大叔母の父親の影響もあったのだろう。家計に余裕がない中でも、娘たちの制服を素材のよい生地で仕立て直し、着こなしの助言もしていたらしい。
そしてもう一人、大叔母が影響を受けたのが、染色家の芹沢銈介氏であった。父親とやり取りがあり、次姉の染色の師でもあった。
「芹沢先生に庭先でお目にかかったとき、『あなたが着ているの、とてもいいですね』とおっしゃられて」
芹沢先生が目に留めたのは、藍の反物から仕立てた立ち襟の服だった。繰り返し洗って藍がさえてきたころだったらしい。
色や形などの調和はもとより、長く使い続けることで生まれる風合いの良さは、大叔母をはじめ、親族の間で共有されている。その時々に似合うであろう親族に渡り、譲り受けて3代目ということも少なくない。
大叔母は晩年まで、仙台に来る機会があれば、東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館を訪ねるのが常であった。亡くなったのは2018年。みとった叔母から、着物を着るならと届けられた中に、うこん色の衣装包みがあった。
「鯛泳ぐ菱紋」と朱色で筆書きされた包みを広げると、鯛が泳ぐ木綿地の帯があった。かすかにほほ笑むような鯛の表情に、心が晴れる思いだった。帯は程よく柔らかく、織り糸の風合いからも折々に使われてきたことがうかがえた。手元に届いてから、ときどき泳ぐ鯛を眺めては、そっと触れた。
いつだったか大叔母が語っていた。「どうしても、これを着たいと思ったときが、一番その人に似合う」のだと。
昨年、友人が数年ぶりに開いた朗読の会に、祝意を込めて鯛泳ぐ帯を締めた。自分の中に、うれしさと感慨が湧いてきた。
譲られた帯は、ずっと手元に置いておきたい一本となった。折々に使い、よりふっくらと手触りのよい風合いになるように。次に渡すまで、共に時を過ごしたく思っている。