仙台には野外彫刻が設置されている。外国や日本の彫刻家など各所に展示されている。町と彫刻が共存している場合もあれば、そうでないものもある。問題は、設置された彫刻をどのように思い、共有するかであろう。
昨年(2022年)11月私は札幌の大通公園を訪れた。目的はイサム・ノグチの制作した彫刻『ブラック・スライド・マントラ』に再び会うためである。2023年2月4日より宮城県美術館で生誕110周年展が開催される、佐藤忠良の若き日の作品『開拓母の像』の量感と空間の迫力に感動しながら歩みを進めると、磨き上げられた巨大な黒い螺旋形の花崗岩の抽象彫刻が北海道の青空を背景に見えてくる。「子供たちの歓声がマントラとなり、子供たちのお尻が私の彫刻を作る」とノグチは語った。目を輝かせ彫刻を見つめる家族。子供はためらいがちに内部の階段を上る。頂上に立つ子供、撮影する親。歓声を上げながら滑り降りるのは、大人も同じだ。夜見かけた光景である。「彫刻は未来への贈り物である」とノグチは語ったそうである。同じ札幌市内にあり、ノグチが基本設計を行った公園自体が彫刻として機能する「モエレ沼公園」は「何か不思議な幸福感」に包まれる広大な環境彫刻である。よくこのような「真の芸術」を建設、設置したものと北海道民の民度の高さに感服する。開拓民として入植し牧場を営んだ母方の祖先を思いうれしくなる。
昨年10月に村田町のアートスペース無可有の郷で個展を開催した。触れてもよい展示である。人間は「自然に触れる」という表現をする。この場合触れるということは「真実」を体験するような意味合いが感じられる。美術作品、特に彫刻は作家の情熱を注いだ手作業の末に完成し、展示される場所や空間と密接な関係を持ち影響を与えるものである。彫刻空間という森の中に入ってゆくような感覚であろうか。
作品の表面は、作家の情熱が溶結保存されているマグマの堆積層である。作家の生きた時間、制作した時間をすべて含んでいる。それに「触れる」ということは作家の「情熱」に触れるということである。作家という一人の人間の「真実」が「贈り物」として展示されている。「触れて」、それが無理なら「触れているつもり」で様々な野外彫刻を鑑賞してほしい。