まちを語る

その1 いがらしみきお(漫画家)(シリーズ「まちを語る」)

その1 いがらしみきお(漫画家)(シリーズ「まちを語る」)

榴ヶ岡(つつじがおか)界隈
仙台ゆかりの文化人が、街に出かけてその場所にまつわるエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。記念すべき第1回目にご登場いただくのは、漫画家のいがらしみきおさんです。幅広い層に人気の漫画「ぼのぼの」や、テレビ局のキャラクターの生みの親として知られるいがらしさんが、榴岡公園周辺を訪ねました。
『季刊 まちりょく』vol.1掲載記事(2010年9月15日発行)※掲載情報は発行当時のものです。
 榴岡公園を散策しながら、いがらしさんは語り出した。
 「仙台に出てきてすぐ、小田原のアパートに住んだんです。ここから歩いて3分ぐらいのところ。よくこの公園に来て、芝生のまわりをぐるぐるジョギングしていました」

 1979年24歳でデビューしたいがらしさんは、売れっ子となった後も故郷の中新田町(現・加美町中新田)で執筆を続けていたが、実家の長兄が所帯を構えたのを機に仙台へ移ってきた。84年、20代の終わりを迎え、あまりの多忙さに休筆していた頃のことだ。
 「休業中は、締切のない趣味のような作品を描いてました。締切がないと漫画を描くってホントに楽しいんですよ(笑)。それから、ゲートボール。公園の中に、花見の季節になると露店が出るところがあるでしょ。あそこで、若い友達5、6人で練習してました。すると近所のお年寄りがスティックを持ってまぜてほしそうにやって来るんです。ベンチに座ってスティック抱えたまま、こっちをじーっと見てたりしてね。それで、声をかけようとすると、その前にわれわれのボールを勝手に打ち返すんですよ(笑)」
実はいがらしさんは10代の頃も、1年だけ仙台で暮らしたことがある。そのときの思い出もあり、東京、故郷・中新田を経て、ふたたび仙台に住むように。「こういう公園に来て、草の上に寝転ぶというのも一種のあこがれでした」。榴岡公園にて。
▲実はいがらしさんは10代の頃も、1年だけ仙台で暮らしたことがある。そのときの思い出もあり、東京、故郷・中新田を経て、ふたたび仙台に住むように。「こういう公園に来て、草の上に寝転ぶというのも一種のあこがれでした」。榴岡公園にて。
 映画鑑賞も仙台に来た目的のひとつだった。当時はまだ街なかに多くの映画館があり、毎晩のように出かけては、帰り足でその当時ハシリだったレンタルビデオ屋に寄って好きな映画を借りてくる。一年間で520本もの映画を観たことも。
 「毎日楽しくてね。辛いことは何もなかった。家のことも“洗濯って楽しいな〜”なんて思いながら、ベランダで自分のパンツ干したりしてね(笑)。甘美な思い出ばっかり」
 そんな生活は3年ほど続いた。だが蓄えが尽き、仕事を再開せざるをえなくなる。売れるものを描かなければ、という決意でペンを執(と)ったのが、「ぼのぼの」だったというわけだ。
榴ヶ岡天満宮の数あるおみくじの中から、「恋みくじ」を選んだいがらしさん。「中吉。消極的になってはだめです。決してあきらめないで、心を強くもってぶつかりなさい、だそうです」
▲榴ヶ岡天満宮の数あるおみくじの中から、「恋みくじ」を選んだいがらしさん。「中吉。消極的になってはだめです。決してあきらめないで、心を強くもってぶつかりなさい、だそうです」
 その頃のいがらしさんは、榴岡公園の高台から眺める、仙石線の青い車両が走る街の風景が好きだったという。
 現在は地下化されてしまった仙石線だが、その線路沿いの道を榴ヶ岡天満宮の方に向かって歩いてみた。
 「ここに駅があって、毎日スポーツ新聞を買いに来てたんですよ。時々パジャマ姿で(笑)。ほしい新聞がなかったことがあって、しょうがないから仙台駅まで行こうと、パジャマのまま仙石線に乗ったら、逆方向に乗っちゃって。そのまま東塩釜まで、なんてこともありました(笑)」
 甘美な思い出だなあ、と繰り返すいがらしさん。
この道の先に、1週間に2・3度は訪れていたという“かっぱ食堂”があった。
▲この道の先に、1週間に2・3度は訪れていたという“かっぱ食堂”があった。
 「信心深くなかったから、近所に住んでても1回ぐらいしか来たことがなかった」という天満宮の境内を通り抜け、二十人町界隈へ。
 「その整形外科の横、もう更地になってますけど、よく通っていた“かっぱ食堂”っていう定食屋があったんです。女将さんが美人で、私と同い年だった。その娘さんも幼稚園ぐらいのかわいい子で、行くとわざわざ顔を見に出てきてくれたりしてね。あの子も今たぶん30近い年ですかねえ」
 再開発が進むこの地区には、いま、現在と近未来と昭和が入り混じったような不思議な景観が広がっている。“かっぱ食堂”は跡形もない。女将さん母娘(おやこ)の消息も、いがらしさんにはもはやわからない。「けど、そういうのもありですかね。それもまた人生です」。
原町の商店街にて。取材一行はこの素敵なお店であずきアイスを購入。
▲原町の商店街にて。取材一行はこの素敵なお店であずきアイスを購入。
 二十人町を後にして、45号線を横断して小田原方面へ。いがらしさんが仙台に来て初めて住んだアパートはすでに取り壊され、病院の敷地の一部となっていた。

 「アパートの建物は、少し前までは残っていたんです。取り壊しの最中にこの前の道をタクシーで通ったことがあって、『あっ、壊してる!』と思って、携帯電話で写真をとりたかったんだけどできなかった・・・・・・」と後悔をにじませつつ、45号線から一本入った原町の商店街へ足を伸ばす。昔ながらの石屋さん、駄菓子屋さん、銭湯などが風景にとけこんでいる。「この銭湯には、アパートの風呂が壊れたときに入りに来たことがありますよ」「この郵便局から出版社に原稿を送りました」と、いがらしさんの記憶が次々に呼び起こされる。
小田原のアパートに3年いた後、五輪に現存するマンションに引っ越して2年ほど過ごした。「私が住んだのは8階だったかな。向こう側の角部屋だったんですよ。窓から仙台港のフェリーが大きく見えてね……」
▲小田原のアパートに3年いた後、五輪に現存するマンションに引っ越して2年ほど過ごした。「私が住んだのは8階だったかな。向こう側の角部屋だったんですよ。窓から仙台港のフェリーが大きく見えてね……」
 昭和の残像のような商店街から再び45号線の喧騒に戻り、いがらしさんが小田原のアパートの次に住んだ五輪のマンションの前で、この日の散策は終了となった。

 「“かっぱ食堂”とかアパートとか、甘美な思い出がいっぱいあったところがあっという間になくなっちゃってね。でも今日、このあたりに来て本当に良かったです」。いがらしさんはつぶやき、笑顔で仙台駅方面に向かって行った。

掲載:2010年9月15日

写真/佐々⽊隆⼆

いがらしみきお いがらし・みきお
1955年、宮城県中新田町(現・加美町中新田)出身。会社勤務を経て、79年にデビュー。同年に発表した「ネ暗トピア」で一躍人気漫画家となるが、84年に一時休筆、仙台市に移住。86年、「ぼのぼの」の連載を開始。個性的な動物のキャラクターとシュールで哲学的な笑いの世界が大人気となり、88年、同作品で講談社漫画賞受賞。現在、単行本が34巻まで刊行されている。その他の作品に「忍ペンまん丸」(小学館漫画賞)「Sink」「かむろば村へ」など。2009年度宮城県芸術選奨受賞。東日本放送の「ぐりり」、仙台フィルハーモニー管弦楽団の「フルー、ヴァオロ、セルリ」など、マスコットキャラクターのデザインも手がけている。仙台市在住。

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