まちを語る

その5 斎藤 晴彦 (俳優・劇団黒テント)

その5 斎藤 晴彦 (俳優・劇団黒テント)

西公園(青葉区)
仙台ゆかりの文化人が、街を歩きながらその場所にまつわるエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。今回は、劇団黒テントの座付き役者として40年にわたり現代演劇の中心で活躍している斎藤晴彦さんが、かつて何度もテント芝居をしたという西公園を久しぶりに訪ねました。秋晴れの空の下、テント時代のことや仙台で出会ったすばらしき人びと、そして斎藤さんが信じる演劇の力について、語っていただきました。
『季刊 まちりょく』vol.5掲載記事(2011年12月15日発行)※掲載情報は発行当時のものです。
斎藤さんに強烈な印象を残した「こけし塔」は健在。西公園のシンボル的存在として、公園に憩う市民を見守っている。
▲斎藤さんに強烈な印象を残した「こけし塔」は健在。西公園のシンボル的存在として、公園に憩う市民を見守っている。
 斎藤さんは旅公演で日本全国を回っているから、その土地土地で思い出の場所がある。仙台では? というと迷うことなく「西公園」。黒テントでは1970年から20年間、文字通りテント芝居(野外に巨大テントを設営し、その中で芝居を上演する)を各地で上演し、仙台での拠点が西公園だったのだ。

 その思い出深い地を訪ねたのは、黒テント3年ぶりの旅公演『窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ』の仙台公演を終えた翌日。敷地に足を踏み入れたとたん、「懐かしいなあー」と斎藤さん。公園のシンボル・こけし塔を指さして、「芝居は夜なんだけど、このこけし塔に照明がぱっと当たったりするとちょっとすごい光景になったんだよね(笑)」。
「テントやってて何が一番良かったかというと、昔お世話になった人が今でも公演に来てくれること。そういう人たちとともに年をとって、今じゃ旅公演は芝居やるのが目的なのか、その人たちに会いにいくのが目的なのかわからなくなっちゃうときがある(笑)」
▲「テントやってて何が一番良かったかというと、昔お世話になった人が今でも公演に来てくれること。そういう人たちとともに年をとって、今じゃ旅公演は芝居やるのが目的なのか、その人たちに会いにいくのが目的なのかわからなくなっちゃうときがある(笑)」
 当時、仙台公演は春か秋の2日間。団員たちはトラックに分乗して、寝袋持参の旅回りだった。黒テントには「わたしたちが勝手にオルグと呼んでいた協力者が都市都市にいて、時にはその人たちの家に泊めてもらったりとかね(笑)」。今では到底考えられないが、他人の家で大人数で飯は食うわ風呂には入るわ、果ては「お金貸してください」なんてこともあったそうだ。

 そんなふうに黒テントに丸め込まれた(?)仙台人のひとりに、現在、民俗・農業研究家として知られる結城登美雄さんがいる。テント旅公演初期の頃、ツテを頼って協力を頼んだものの、当の結城さんは芝居なんてさっぱりわからなかった。それが『阿部定の犬』(1975年初演、作・演出/佐藤信)を観て、斎藤さん曰く「電撃に打たれちゃった」結城さんは、以後黒テントを信用し、やがては惚れ込み、満場の観客を動員するほど情熱を傾けることとなったという。「そういう関係は、芝居だから、っていうのもある。他のことでその土地の人と話すとなると面倒なことがたくさんあるけど、芝居の話だとだいたい興味をもって聞いてくれるんだよね。たとえば政治とか経済の話ではそうはいかないと思う」と斎藤さん。
「テントを張る場所は、その年によってこけし塔と図書館(公園内にあった旧・市民図書館)の間を行ったり来たり。植木市と重なったりしたこともあったなあ」
▲「テントを張る場所は、その年によってこけし塔と図書館(公園内にあった旧・市民図書館)の間を行ったり来たり。植木市と重なったりしたこともあったなあ」
 自分たちのテントがなくなってから20年たつのに、むかしを知らない若い劇団員たちは無性にテントに憧れを持つのだという。今の世の中では絶えてしまった人と人との濃い関わりあいがそこにはあり、それに「テントだと街から芝居が影響を受けるというか、相互作用っていうのかな。車の音が聞こえてきたり、風吹いてたり雨降ってたりすると、細かい芝居が通じない。そうするとあえて荒けずりな芝居にしちゃうとか、同じ作品でもどんどん変わっていくんだよね」という斎藤さんの話を聞いていると、テントという劇場には不思議な力があるような気がしてくる。
テントでは自炊が基本。トイレの水道の蛇口にホースをつないで水を引き、劇団の「炊事班」がひたすら料理を作っていた。
▲テントでは自炊が基本。トイレの水道の蛇口にホースをつないで水を引き、劇団の「炊事班」がひたすら料理を作っていた。
 『窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ』の作者で、劇団創設以来の仲間だった山元清多(やまもときよかず)さんが2010年秋に闘病の末亡くなり、準備中には東日本大震災が発生……と、今回の旅公演は斎藤さんと黒テントにとってさまざまな思いを背負ったものになった。「被災地では『がんばろう』なんておこがましくて言えない。できることをしている今の自分を見てもらうことしかできない」と舞台に立つ。
市民会館向かいの和菓子店「賣茶翁」にて。「テントやってると1人になりたい時があって、休憩時間になるとよくここに来てお茶を飲んでました」。当時と変わらないという店内で、季節のお菓子とお抹茶をいただく。
▲市民会館向かいの和菓子店「賣茶翁」にて。「テントやってると1人になりたい時があって、休憩時間になるとよくここに来てお茶を飲んでました」。当時と変わらないという店内で、季節のお菓子とお抹茶をいただく。
 震災後、「復興」という言葉がよく使われる。しかし演劇にできることは「復興」ではなく、人の心や記憶に存在するものや街を「再現する」ことだ、と斎藤さんは言う。観客は芝居を観るうちに笑ったり泣いたりして記憶を呼び起こし、想像力を醸成して、自分自身で芝居をもっとおもしろいものにしていくのだ、とも。斎藤さんの「芝居は捨てたもんじゃないですよ」というつぶやきが、じんわりと沁みてくる。
テントのばらし(撤収作業)の後は必ず磁石で釘を拾っていったそうだ。「子どもが遊ぶ公園だから、釘が落ちてて怪我したら大変だ、って」
▲テントのばらし(撤収作業)の後は必ず磁石で釘を拾っていったそうだ。「子どもが遊ぶ公園だから、釘が落ちてて怪我したら大変だ、って」
「西公園にテントが張られて、芝居が終わって、テントが撤去されて跡形もなくなる。でも芝居を観たお客さんは覚えてるんだよね。記憶の中に幻のテントがちゃんと存在してるんです」。そう語る斎藤さんの背後、少し色づいた西公園の木々に囲まれて、幻のテントが見えたような気がした。

掲載:2011年12月15日

写真/佐々木隆二

斎藤 晴彦 さいとう・はるひこ
1940年東京都生まれ。早稲田大学文学部演劇科卒業。「劇団青俳」「発見の会」を経て、1969年、「演劇センター68/69」に参加。1971年には「68/71黒色テント」(1990年に「劇団黒テント」と改称)の創立に加わり、各地でテント芝居を上演。『レ・ミゼラブル』『放浪記』『ウーマン・イン・ブラック』などの舞台やテレビでも活躍するほか、クラシック音楽に造詣が深く、メロディに歌詞を付けて歌うことで知られる。Eテレで放送中の『クインテット』の声の出演(スコア役)でもおなじみ。著書に『斎藤晴彦[音楽術]・モーツァルトの冗談』『クラシック音楽自由自在』『歌う演劇旅行』(いずれも晶文社)。2012年1月には黒テント第73回公演「青べか物語」に出演予定(1/18〜29、東京・iwato劇場)。