まちを語る

その50 鳴海 幸一郎(鳴海屋紙商事)

その50 鳴海 幸一郎(鳴海屋紙商事)

青葉区一番町
仙台ゆかりの文化人が、その地にまつわるエピソードを紹介するシリーズ「まちを語る」。今回ご登場いただくのは、創業以来「仙台七夕まつり」を陰で支え続けてきた「鳴海屋紙商事」の鳴海幸一郎さん。七夕まつりのメイン会場である青葉区一番町を歩き、幼少時代のエピソードや「仙台七夕まつり」への思いを語っていただきました。
 さらさらと揺れる和紙の吹き流しや、色とりどりの華やかなくす玉、たくさんの願いが込められた七つ飾り。今年ももうすぐ、仙台の夏を彩る「仙台七夕まつり」が始まる。アーケード街を埋めつくすほどに吊るされる圧巻の七夕飾りは、仙台の伝統であり、夏の仙台を代表する風景だ。毎年、その様子を陰ながら見守っているのが、「鳴海屋紙商事」の課長、鳴海幸一郎さん。昨年、創業140年を迎えた同社は、七夕飾りの素材販売から制作までを行う老舗の紙卸商社。本社は若林区卸町だが、七夕イベント事業の拠点は一番町にあり、鳴海さんは幼少期をここで過ごした。「当時、ここで露天商のおじいさんが、針金とペンチだけでおもちゃの鉄砲を作っていたんですよ」と教えてくれた場所は、一番町にある同社の目の前。鳴海さんが10歳頃まではここに自宅兼倉庫があり、この一帯が商店街に暮らす子どもたちの遊び場だった。鳴海少年は、鉄砲を作るおじいさんの見事な手つきを見るのが日課。この時間がとても楽しかった。

 「短銃型と拳銃型が、だいたい300~500円くらいだったかな。さらにその上に、連射できるマシンガンのような拳銃があって、それが1,000円を超える高級商品。小さい方はお小遣いで買えたけど、やっぱり大きい方が欲しくて、家でお手伝いをしたり肩たたきをしたりして、少しずつお金を貯めたんです。それで、ようやく買いに行ったら、おじいさんがお見えにならずそれっきり。引退されたのか、体調を崩されたのか。結局その拳銃は手に入らなかったなあ」。
 鳴海さんは、今でもおじいさんの手つきを覚えている。七夕飾りに使う曲げ輪など、針金とペンチを扱う作業の際、頭の中にふっと蘇るのだ。「無意識ながら、当時見た光景が針金細工のベースになっているのかもしれません」。
東北絆まつりの賑やかしで、特別に七夕飾りが飾られたぶらんどーむ一番町商店街
▲東北絆まつりの賑やかしで、特別に七夕飾りが飾られたぶらんどーむ一番町商店街
現在の「鳴海屋商事」があるビルの前は、自宅兼倉庫の入り口だった。いつもそこにゴザを敷き、おじいさんが座って針金鉄砲を作っていたという。特に会話はなかったが、鳴海さんは、この写真のように横でただ眺めているだけでワクワクしていたそう。
▲現在の「鳴海屋商事」があるビルの前は、自宅兼倉庫の入り口だった。いつもそこにゴザを敷き、おじいさんが座って針金鉄砲を作っていたという。特に会話はなかったが、鳴海さんは、この写真のように横でただ眺めているだけでワクワクしていたそう。
露天商のおじいさんは、針金拳銃を作り終えると、針金製の玉と輪ゴムを仕掛け、アーケードの屋根に向けて試し打ちをしたことを覚えている。「大人になり七夕まつりに関わるようになって、設営のためアーケードの屋根に上がったら、当時の針金玉を見つけたんです。屋根に届くほど飛ぶんだから、すごいよね」。
▲露天商のおじいさんは、針金拳銃を作り終えると、針金製の玉と輪ゴムを仕掛け、アーケードの屋根に向けて試し打ちをしたことを覚えている。「大人になり七夕まつりに関わるようになって、設営のためアーケードの屋根に上がったら、当時の針金玉を見つけたんです。屋根に届くほど飛ぶんだから、すごいよね」。
 七夕飾りの制作は春の彼岸に始まり、秋の彼岸頃に片付けを終える。毎年12月には翌年の七夕まつりに向けた染和紙の打ち合わせがスタートするため、紙の卸業や七夕飾りの制作、制作指導を行う「鳴海屋商事」では、ほぼ一年中、七夕まつりに関わっているという。「私たちは七夕まつりの黒子役なので、観光客として表から七夕まつりを見たことがないんです」と鳴海さん。小さい頃の七夕まつりの思い出と言えば、アーケードで行われていた七夕パレード。現在は歩行者天国になっているアーケード街だが、当時は車が通行でき、パレードになるとオープンカーが走って、ミス七夕が手を振りながら通った。「以前は今よりも七夕飾りの位置が低かったけど、うまい具合に車が走ってくるんだよね。道路いっぱいの見物客も、車が来るとサーッと道を空けて」と鳴海さん。小学生の鳴海さんにとって、家の前から見るパレードが七夕まつりの特別な楽しみだった。
七夕まつりの期間中、鳴海さんは毎日朝9時までに七夕飾りを出し、21時以降に養生する。紐と器具を見事に扱い、掲出も養生もあっという間。
▲七夕まつりの期間中、鳴海さんは毎日朝9時までに七夕飾りを出し、21時以降に養生する。紐と器具を見事に扱い、掲出も養生もあっという間。
 もう一つ、当時の七夕まつりで子どもたちを夢中にしていたイベントが、アーケード街のいくつかの店で行われていた仕掛け人形。店の軒先に桟敷を作って、操り人形を動かしたり、ロケットを飛ばしたりと、演出を交えながら展開する人形劇だ。お茶屋さんの軒先で行われることが多く、少年時代の鳴海さんも人だかりに混ざって鑑賞していた。
閉店し、今はビルになった一番町のお茶店「永楽園」も、七夕まつりの時期に仕掛け人形を行っていた店の一つ。店ごとに趣向を凝らした人形劇が披露され、多くの見物客を喜ばせていた。
▲閉店し、今はビルになった一番町のお茶店「永楽園」も、七夕まつりの時期に仕掛け人形を行っていた店の一つ。店ごとに趣向を凝らした人形劇が披露され、多くの見物客を喜ばせていた。
 「イメージとしてはこんな感じでしょうか」と見せてくれたのは、昭和9年の写真。若林区荒町にあった本社の前には、赤ちゃんだった鳴海さんの父親の姿もある。よく見ると、店の軒先には人形が。「こんな感じで、店の庇を利用して人形を飾っていたんです。これはおそらく、弁慶と牛若丸の戦いを表現したものだと思います」。
昭和9年の本社前を写した貴重な1枚。鳴海さんにとっては、赤ちゃんの頃の亡き父親が写るお守りのような写真だ。
▲昭和9年の本社前を写した貴重な1枚。鳴海さんにとっては、赤ちゃんの頃の亡き父親が写るお守りのような写真だ。
 幼少期から今日まで、「仙台七夕まつり」を間近で見続け、「これまで仕事で大変なこともたくさんあったけど、涙一つ流したことはなかった」という鳴海さんが、唯一涙を堪え切れなかったのが、2011年の七夕まつり。東日本大震災で傷を負った宮城・東北の復興を願い、当時の仙台市内にある小・中学校185校の児童生徒約8万8千人が鶴を折って、未来への思いとともにつないだ。その七夕飾りを見た瞬間、自然と涙があふれたという。「我々はあくまで黒子なので、柱の陰からそっと見ていたのですが、どの飾りよりも壮大なんです。今でも当時の光景を思い出すとぐっとくるし、現在も続くこの故郷復興プロジェクトは、七夕まつりの名物。1人1羽ずつ折った鶴をつなぐだけのシンプルな七夕飾りですが、これぞ、仙台七夕の“ザ・七夕”だなと思います」。
2011年の仙台七夕まつりで飾られた、仙台市内の「児童生徒による故郷復興プロジェクト」の七夕飾り(鳴海屋紙商事提供)
▲2011年の仙台七夕まつりで飾られた、仙台市内の「児童生徒による故郷復興プロジェクト」の七夕飾り(鳴海屋紙商事提供)
七夕まつりでは、毎年「七夕飾りコンテスト」を行っており、商店街ごとに金賞1本、銀賞2本、銅賞3本を選出する。2011年の「児童生徒による故郷復興プロジェクト」の七夕飾りは、異例の3つの商店街が連名で特別賞として評した。(鳴海屋紙商事提供)
▲七夕まつりでは、毎年「七夕飾りコンテスト」を行っており、商店街ごとに金賞1本、銀賞2本、銅賞3本を選出する。2011年の「児童生徒による故郷復興プロジェクト」の七夕飾りは、異例の3つの商店街が連名で特別賞として評した。(鳴海屋紙商事提供)
2011年、仙台市民が改めて「仙台七夕まつり」の大切さを感じるきっかけとなった「児童生徒による故郷復興プロジェクト」。「藤崎」の前に掲げられたそれを、鳴海さんは「伝説の七夕飾り」と表現する。まるで折り鶴が降り注ぐかのような圧倒的なスケール感で、行き交う観光客、地元の見物客を魅了した。
▲2011年、仙台市民が改めて「仙台七夕まつり」の大切さを感じるきっかけとなった「児童生徒による故郷復興プロジェクト」。「藤崎」の前に掲げられたそれを、鳴海さんは「伝説の七夕飾り」と表現する。まるで折り鶴が降り注ぐかのような圧倒的なスケール感で、行き交う観光客、地元の見物客を魅了した。
 昔は各店ごとに趣向を凝らした手作りの七夕飾りを掲げていたが、現在は時間がかかることや作り手がいないこともあり、その多くが外部発注だ。「鳴海屋紙商事」では、全体の約3分の2を手掛けている。鳴海さんには七夕にまつわる夢がいくつかあるが、「原点回帰して、七夕飾りの作り手をそれぞれのお店に戻したい。鶴を折るだけ、短冊を書くだけ、紙を選ぶだけでもいい、そのお店の人たちが関わって、そのお店の個性がみえてくるような七夕飾りでアーケードを彩るのが理想ですね。ほんの少し関わるだけで、七夕飾りへの思いがさらに増すはずだと思うんです。」
 最後にもう一つの夢を伺うと、「いつか、全国各地の七夕まつりを見て回りたいね」と、うれしそうに笑った。
アーケードを歩いていると、鳴海さんに気付いた商店街の人が次々と声を掛ける。そのたびに冗談を返して、みんなを笑顔にしていく鳴海さん。「商店街の人は幼少時の自分を育て、今の自分を支えてくれている。僕は一人っ子だから、大きな家族がいる感覚かな。これからは商店街に恩返しをするつもり」。
▲アーケードを歩いていると、鳴海さんに気付いた商店街の人が次々と声を掛ける。そのたびに冗談を返して、みんなを笑顔にしていく鳴海さん。「商店街の人は幼少時の自分を育て、今の自分を支えてくれている。僕は一人っ子だから、大きな家族がいる感覚かな。これからは商店街に恩返しをするつもり」。

掲載:2024年7月31日

取材:2024年6月

取材・原稿/関東 博子 写真/坂上 清楓

鳴海 幸一郎 なるみ・こういちろう
1968年生まれ。宮城県仙台市出身。仙台大学を卒業し、東京の紙の代理店で社会人経験を積んだのち、家業を継ぐためUターン。現在は「鳴海屋紙商事」の課長として、七夕飾りの制作に携わるほか、祭り期間中は設営も行う。伝統の継承だけでなく、各地の講演会で自らの経験を交えながら「仙台七夕まつり」の魅力も発信している。