インタビュー

マンガで、仲間になる。

元東北高校漫画部顧問・山下秀秋

仙台のマンガを語るうえで外せない存在が、約50年前に東北高校漫画部を創設した元教諭の山下秀秋さん。同漫画部の出身者には、プロとして活躍する卒業生も多数います。当時、山下さんは部員にどう向き合い、生徒は漫画部を通して何を学んだのか。マンガと共に歩んだご自身の人生と併せて振り返っていただきました。

マンガとの出会い、そして部活ができるまで

山下さんとマンガとの出会いを教えてください。

私は、昭和27年に秋田県湯沢市で生まれたのですが、4歳のときに心臓弁膜症で入院したんです。暗い病院の木製ベッドで、母親にマンガを読んでもらった記憶があり、それが原点だと思います。税務職員だった父は、2年に1度のペースで転勤があったので、私も山形、福島、岩手…と転校しました。何度引っ越しても常に友達として近くにいたのがマンガ。テレビ局は地域によって違いますが、マンガの連載はどこに居ても同じです。そのため、ずっと欠かさず読んでいました。でも、父親はマンガにいい印象がなく買ってくれない。だから、転校のたびにどのマンガを買っているかで友達を選んで、家に遊びに行って読むという、そんな毎日でした。その中で、マンガへの思いが強くなったんです。

山下先生の“マンガ小屋”。6畳ほどの広さにマンガがぎっしり積まれている。

中学生のとき、永島慎二先生の『漫画家残酷物語』を読んで、さらにのめり込んだとか。

その存在は大きかったですね。私の心に入ってきたというか、マンガの可能性を感じました。いろんな漫画家が登場する短編集なのですが、どの人も悩んでいる。売れるマンガを描くべきか、自分が描きたいマンガを貫くべきか。その葛藤が伝わってくるんです。
ある日、永島先生のサイン会があると聞いた私は、持っていた永島先生の単行本の表紙を撮影して作品の傾向別に少女漫画、ラブストーリー、少年漫画、というふうに並べ、小さな写真集を作ってサイン会で先生に手渡しました。それをきっかけに、先生との交流が始まって、何度も家に泊まりに来る関係になったんです。先生が来ると、2人で映画を見て分析するのが定番。マンガ脚本の話もたくさんしました。先生の人間性も含めて、出会いに感謝しています。

マンガを介した共通体験

東北高校で漫画部を立ち上げた経緯を教えてください。

東北高校の教員に採用された年、部活の顧問をしてほしいと言われたんです。それで文化部を2つ受け持ったのですが、せっかくなら自分がやりたいことをしたいと思って、漫画部を提案しました。

山下さんは漫画部の生徒とどう向き合っていたのですか。

マンガで教育するなんて考えたことはないんです。損得なしで生徒と付き合いたかったので、一緒に描いて、マンガを通して仲間になろうとしていました。描き方も手取り足取り指導したことはなく、話づくりについても起承転結を教えたくらい。具体的なストーリーは自分で考えさせました。できた作品は部誌にして発行しましたが、作品批評はしません。もちろん、アドバイスを求められれば本気で悩んで答えました。自分ならこうすると言いながら、それが正しいとも限らないよ、とも話しましたね。だから、答えたものと違う仕上がりになることもあって、そこに生徒の進歩を感じました。
それから、東北高校の文化祭では、漫画部がポスターを描いて大きな布絵にするんです。とてつもない作業量なので、合宿でチームワークを築いたこともありましたよ。

写真右が部誌『marm』。山下先生が定年退職する際に部員が特別編集した特別号。写真左は、東北高校創立100周年の際に、漫画部の部員が歴史を漫画にしてまとめた『東北高校探険隊』。

マンガは個人作業のイメージですが、チームワークも必要だと。

生徒には共通体験を持ってほしいと思っていました。マンガは基本的に個人作業なので、みんなで同じ思い出を作ってほしかったんです。共通体験をどうやって演出するか、それが私自身のテーマだったのかもしれません。仙台フォーラスでは生徒たちの原画展もやりましたね。昭和50年頃、まだコミケ(コミックマーケット)もない時代、マンガの原画を見たことがない人が面白がって結構見に来てくれました。

部誌の発行だけでなく、外に向けた活動もしていたのですね。

はい。そんな活動をしているうちに、もっと変わったことをやりたいと思って、「集団原稿持ち込みツアー」をしたんです。生徒と出版社に行って、一人一人の原稿を編集者に見てもらってね。「あなたの原稿、うちで預かります」なんて言われた生徒もいましたよ。逆にダメ出しされた生徒はすごく落ち込んじゃうから、アフターフォローも大変でした。

部活動とは思えない内容ですね。

面白いでしょう。もう一つ、大きな活動は「まんが甲子園(全国高等学校漫画選手権大会)」ですね。もともと私自身、作品に順位をつけることに抵抗があって、参加するつもりはなかったんです。でもある年、内緒で申し込んだ生徒がいて「落ちて悔しい」と言うんです。そう聞いたら私も悔しくなってね。それをきっかけに何度か参加して、優勝と準優勝を取りました。あとは、「石ノ森漫画館」の「マンガッタンイラストギャラリー」と「石ノ森章太郎ふるさと記念館」の「石ノ森ふるさとマンガ作品展」には定期的に応募していて、いろんな賞を取りましたね。目標を持つことでやる気を出す生徒もいますから。

東北高校漫画部の初代メンバーと。中央が山下先生。

個性豊かな部員との出会い

漫画部にはどのような生徒がいましたか。

みんな個性的です。「漫画部があるから東北高校に入学しました」と言ってくれる生徒も多くいました。以前、シンガーソングライターのあんべ光俊さんのラジオ番組で、漫画部の話をしたことがあったんです。それを偶然聞いていた生徒が、別の高校に願書を出すつもりで母親の車に乗っていたのに、そのままUターンして東北高校に変えたということもありましたね。その生徒は、今でも漫画部の飲み会に来ますよ。

飲み会をするほど卒業後も交流が続いているのですね。

定年退職のときは卒業生が大勢集まってお祝いをしてくれました。その中に、今連載を持っている卒業生がいたので、「連載の作品を楽しんで読んでるよ」と伝えたんです。後日聞いた話によると、私に認められる作品を描くまで私に会いに行かないと決めてたらしくて。だから、作品を褒められたことがすごくうれしかったようなんですね。卒業生と話していると、生徒とも出会いだなと思います。

「生徒とは、“マンガ好きの友達”として一緒に遊びたい。それだけでした」と山下さん。“仲間”として交流を続けており、卒業生とのエピソードは山のようにある。

生徒同士はどのような雰囲気でしたか。

先輩も後輩も関係なく、マンガという共通点ですぐに仲良くなります。と同時に、ライバル心もあって、先輩のテクニックを後輩が盗むんですね。そうやって、お互いに切磋琢磨していました。それでも、私がよく言っていたのは、「自分の描線は人から教わるのではなく自分で探すんだよ」ということ。「俺を見てみろ。未だに迷ってるからヘタだろう」なんてね(笑)。

一人一人の個性を大切にしていたのですね。

卒業生がみんな個性的で凝り固まったものがないのは、私が何もしなかったからだと思います。漫画家としてデビューした生徒の中には、私と組んで作品を作りたいという子もいて、何度か脚本を担当しました。そういう依頼があれば応えることもありましたが、基本的には何も教えていないんです。

プロの漫画家を育てたいという思いもなかったのですか。

ありません。それは怖い。おこがましいことだし、責任も持てません。私と出会ったことで、本来彼らが知らない世代の漫画家を知ってしまうんです。部室に私自身が感動した漫画をどんどん置いていたら、ある漫画家の作品を好きになった生徒がいて。たまたまその漫画家と私が仲良くなって、彼に会わせたら、気に入っちゃって自分のアシスタントにしたんです。そのとき、「この子の将来はこれで良かったのか」と考えました。もともとこの生徒はとても器用でいい絵を描くんです。私と出会わなければ、素直にこの世界に入ってヒット作を描いたんじゃないかと。本人に直接聞くと感謝されますが、今も心苦しさはありますね。漫画家という仕事は相当キツイ。描きたいときに描きたいものを描く幸せをわかってくれれば、それだけで良いような気がします。

キツくてもマンガを描く魅力とは何ですか。

書き終わったときの楽しさ、充実感は、マンガ以外では味わえないものがあると思います。私の場合は、苦しさも楽しんでいる部分がありますね。例えば、以前描いた『おかえり!揚子江』という作品は、東日本大震災などで苦労しながら復活を遂げた石巻市の中華料理店の話なのですが、石巻に何度も取材に行ったけれどなかなか答えに辿り着かない。学校の仕事との関係で結局時間がなくなり、早朝に起きてペン入れをするなどして、1週間で描き上げたんです。久しぶりに長いマンガを描いたのですが、限られた時間の中で工夫しながら走り切ったときのうれしさは大きなものがありました。

東日本大震災をはじめ、多くの苦労を乗り越えた石巻市の中華料理店の復活劇に興味を持ち、店主にお願いして描いた『おかえり!揚子江』。

先生もご自身で東日本大震災をテーマに『生きる』『しあわせ』『いのち』の三部作を描いていますね。

東日本大震災の経験を描いてほしいと言ってくれる方が何人かいて、背中を押されました。そう言ってくれた方の代弁者として、亡くなった方、被災した方への哀悼や励ましの思いを込めて描いた作品です。10年かかりました。描いているうちに使命感のようなものも出てきましたね。この作品は、マンガの文法を壊して描きました。ストーリーが起承転結にならないし、定規もスクリーントーンも使わずフリーハンドです。

『生きる』『しあわせ』『いのち』の三部作は、「東日本大震災を描かなければ」という思いのもと、自身の経験も交え10年以上かけて完成させた。

仙台が育むマンガの創造性

仙台から漫画家が多く輩出されています。その背景に何があると思いますか。

どうでしょうね。以前、テレビ番組で石ノ森章太郎さんが「石ノ森さんのインスピレーションの原点はなんですか」と質問されていて、「ふるさとの闇が私を育てた」と言ったことがあったんです。本当かなあ、なんて思ったのですが、「ふるさと記念館」の隣にある生家の2階から外を見ると、確かにそんな感じがあるんですよね。時代もあったと思いますが、イメージが掻き立てられる環境で。仙台が漫画家に与えたものは一人一人違うと思うので、答えは出せませんが、都会でもあるし、すぐそばに田舎もあるという環境もあるかもしれません。

先ほど、永島先生が山下さんの家に何度も泊まられたとおっしゃっていましたが、山下さんに会いに来るだけでなく、仙台というまちにも魅力を感じていたのでしょうか。

それもあったと思います。多い年は、1年間で30日くらい来ていましたし、「将来は仙台に住みたいな」なんて話したこともありましたから。先生が来ると漫画部の面々もたくさん集まって、毎晩がお祭りのようでしたよ。

山下さんのもとに人が集まるのは今も変わりませんね。

お盆の時期なんかは、東京からも卒業生たちが次々と来てくれて、休む暇もなかったくらい(笑)。彼らにとって仙台は、「“マンガ仲間”と集まる場所」にもなっているのだと思います。

取材に同行したマンガ家・スズキスズヒロさんと。取材時の移動途中もマンガの話が尽きない。

掲載:2024年12月2日

取材:2024年7月

写真/寺尾佳修 取材/岩本理恵((株)ユーメディア) 原稿/関東博子
企画協力/スズキスズヒロ

山下 秀秋 やました・ひであき
1952年秋田県湯沢市生まれ、仙台市宮城野区在住。元東北高教諭で漫画部顧問。教え子にはプロとして活躍する漫画家も多数。漫画愛好家で、蔵書は数万冊に及ぶ。その漫画愛と情熱で、数々の著名漫画家と親交が深い。