インタビュー

演出家として芝居をつくる

後編|一般社団法人東北えびす
演出家 髙橋菜穂子インタビュー

2020年から始まったコロナ禍により、仙台の文化芸術活動もさまざまな制約を受けました。そのような中で、仙台の演劇シーンに演出家として携わる髙橋菜穂子さんがはじめた「仙臺まちなかシアター」は、始動して3年を迎えました。後編では、高橋さんが演劇をはじめ、演出家になるまでを伺います。

*この記事は、2021年12月にコロナ禍の文化芸術活動等について伺った内容を基に執筆し、2023年1月時点の情報も加えて構成しています。

演劇の面白さを知る

髙橋さんが演劇をはじめたきっかけを教えてください。

中学の時に演劇部に所属したのがきっかけです。きっかけは大きな声では言えないのですが……。私、運動全般が致命的にできないので、運動部なんてもってのほかだったんです(笑)。子どもの頃、合唱団に入っていたので声を出すのだけは好きだった。発声練習をやっていたので、音読もクラスの中でもちょっと得意だったのもありました。

演劇部には、個性的な子が多かったですね。一つ上の女の先輩にいわゆる“ヤンキー”がいたんです。すごく演技が上手でかっこいい方でした。授業は出ていないんですが、部活だけは来ていて、ばりばり主役をやったりしていて。顧問の先生も面白い女性で、派手な出で立ちで、熱血で。

素敵ですね。その方が顧問だったからこそ、どんな子でも部活には来ていたのかもしれませんね。

どんなに荒れていても部活には来ていましたからね。彼女らも演劇には思うところがあったんだなって。

演劇部では、どんな練習や発表機会がありましたか?

発表の場は、文化祭と一年生を迎える会でした。演目は『夕鶴』。伝統的なものをやらないとだめという先生のチョイスでした。当時は私も舞台に出ていて、3年間やり遂げました。

当時は俳優として演劇に携わっていたのですね。中学卒業後も続けていらしたのですか?

高校は、友達と遊びたくてすぐ辞めてしまったのですが、大学に入って演劇を再開しました。大学はサークル活動なので、発表会が年2回しかなかったのですが、当時、青年文化センターで開かれていたコミュニケーション・ワークショップや演劇初心者ワークショップに参加するようになり、色々な講師の方に教わったり、参加者同士で芝居を作ってみたりする中で外とのつながりができて。そこで、夫である俳優の渡部ギュウさんとも知り合いました。大学生の頃です。演劇にはいろんな人がいて面白いので続けていきたいなって思いました。

学生時代の活動としての演劇を、仕事にしようと思ったのでしょうか。

私は、生まれも育ちも仙台で、ずっと仙台の中心地界隈で活動してきました。東京に出てプロダクションに所属してテレビに出る、みたいなことには全く興味がなく、舞台に出たかったんです。当時、仙台は劇団文化が下火で解散したり休団したりしていて、その中でプロデュース公演みたいな形で声をかけられたら出演するという形でした。でも、これだけでは食べていけない。
父が教員だったこともあり、宮城教育大学へ進学し、教育実習も経験して小学校の教員になりました。教員をしながら演劇も続けていけたら……と思っていましたが、それがいかに甘い考えか痛感させられました。

教員の仕事は、芝居をやりながらできる仕事ではない。もちろん、どんな仕事もそうですが、全身全霊をかけてやるもので片手間ではできません。
働き始めて1〜2年は辛かったのですが、非常にドラマチックな仕事で感動も多くなっていって。やればやるほどきりがないし、夜8〜9時まで学校に残って働いていたので、芝居の稽古に行く暇はありませんでした。

はじめての演出の仕事

そんな中、どのようにして演劇に携わっていかれたのでしょうか。

2008年、「杜の都の演劇祭」で、飲食店での小さい公演の企画が立ち上がった時に、プログラムディレクターのお話をいただきました。それは、場所や作品を決めて演出イメージをプロデュースするものでした。
そのくらいだったら仕事をしていても動けるし、私が演者として出ないのであれば、プロの俳優の方に出演をお願いすれば良いだろう、と。それがはじめての演出の仕事でした。

俳優として演じる立場から演出へ。しっくりきましたか?

演じることが下手だったんだと思います。芝居は好きですが、言われたことがぱっとできず、やっていて不自由でのびのびやれないなって思っていたので、演出の方が楽しいですね。

俳優に指示を出すのは苦になりませんか?

はい。俳優の方に思いついたことを「こうしたら?」って伝えるとやってくださるのですごく楽です。「わぁ〜思ったようになっていく〜!」みたいな(笑)。
自分に演技を指導する技量がないので、発声や体の使い方に関しては言えませんが、「ここでこういうシーンが入ったら面白いかな」みたいに内容のことなら伝えられるかなって。最終的に体現するのはスタッフさんと俳優の方々なので。

俳優の方の中には、演じることが専門の職人的なタイプの方もいらっしゃると思います。演出、全体への視点は、別の領域ではないでしょうか。

両方やる方もいらっしゃいますけどね。渡部ギュウさんは出演も演出もします。逆に、役者しかやらないし演出はやりたくないという方もいらしゃって。いろいろですね。

演劇ができること

コロナ禍の現在も文化活動には制約が多いですが、東日本大震災後も同じような思いをされていたことと思います。

当時私はまだ教員をやっていたのですが、学校も休校になり、劇場も全部閉鎖してしまう状況に。正直、震災直後は演劇や音楽が必要な時期ではなかったですが、みんな必死だし、何かしなきゃというような熱に浮かされた感じがありましたよね。

その中でも、照明家の松崎太郎さんが震災をきっかけに活動を復帰されたり、劇団「Theatre Group“OCT/PASS”(シアターグループオクトパス・2016年活動終了)」さんが、トラックに楽器などを全部積み、避難所の外で子どもたちが楽しめるような演目で青空公演をしたりしていました。宮城の舞台表現者たちが中心になったネットワーク「ARC>T(アルクト)」が立ち上がったりしていて、渡部ギュウさんが代表を務めていた「SENDAI座☆プロジェクト」も何かやらなければと、チャリティー公演を開く流れになったようです。

東京の劇団さんからも、「東北の劇団さんに今だからこそ上演してほしい」とオファーがあり、仙台と東京でチャリティー公演を行いました。私はそちらに演出として参加させていただきました。

教員の仕事と並行して演劇の活動をするのは、大変だったかと思います。

職場に話をして、夕方5時過ぎに仕事を終えてダッシュで稽古場に行って、夜11時頃まで稽古して、朝8時に職場に行って……ということをやっていました。あの時は何かしたかったんでしょうね。

子育てが変えたこと

教職をお辞めになった理由は?

理由は子どもです。よく「芝居のためにお仕事を辞めたのですね」と言われますが、違います(笑)。2012年に長男を出産しましたが、「こんなにひとりの人間を中心に世界が回っているものなのか!」って。芝居なんか到底無理で、やりたいと思う隙もないくらいでした。

二人目を産んでからは輪をかけて大変でした。育休2年目以降は、一人目を保育園に預けるのが難しくなります。母親が家にいるわけですから。
「一人ですら大変なのに、二人も家で見るなんて無理!」と思って、二人を保育所に預けて仕事復帰の道を選んだんですが、やっぱり大変。夫も芝居だけではなく、事務仕事もすべて自分でやっているので、夜中に仕事をしたりしていました。仕事で疲弊していることはお構いなしに子どもは夜泣きをするし、私も夫もぎりぎりの毎日でした。

これでは共倒れになってしまうということで、夫とこれからについて話し合いました。私自身、小学校の仕事はちゃんとやりたい。でも、それでは子育てや家事が回らない。そして、芝居はやめたくなかった。今のままでは、家庭か仕事、芝居か私自身を犠牲にしなければならなかった。

それなら、芝居を続けながら子育てをしていける方法を、ということで私が教職を辞めました。私が芝居をやめても、夫は芝居を続けていく。それを私は教員の仕事と子育てをしながら支えていくというのは、私の性格的にも無理かなと思いました。いつか「私も本当は芝居を続けたかったのに」って怨みそうで(笑)。

芝居との新しい関わり方

子育てをしながらお芝居に携わる新しい方法とは、どんなものだったのでしょうか。

2019年に教職を辞めて4年になりますが、育休中の大変な中、カフェで朗読劇をする「東北物語」という企画をはじめました。大きい芝居の長期稽古では、子どもたちの面倒を見られなくなってしまうので、年一本くらいが限界でした。でも、それだと仕事にはならない。大きい稽古はできないけれど、夫とだったら家で稽古できるし、相談事も家庭内で済みます。
会場は、上杉の「純喫茶 星港夜(シンガポールナイト)」さん。マスターとは「杜の都の演劇祭」からつながりができて懇意にしていただいていたので、企画の相談をし、3カ月に1回のペースで朗読芝居をやりはじめました。稽古は、子どもの昼寝中や子どもが起きてくる前の早朝にしていました。

朗読劇『東北物語』の様子(会場 純喫茶 星港夜(シンガポールナイト))

朗読劇「東北物語」は、今の「まちなかシアター」の原形ですね。

読み芝居だと台詞を覚えなくても良いので、何度も稽古をしなくてもできるのが良かったんです。それに、演出の何が良いって、小さい子は急病が多いので、最悪当日急に来られなくなっても、あとは演者に任せても何とかなるかもしれない。演者はそうはいきませんよね。

お客さんは各回大体20〜25人くらいだったでしょうか。コーヒーとケーキを召し上がっていただきながら、朗読劇をご覧いただきました。回を重ねるうちにリピーターの方もいらっしゃるようになってきて、はじめ、出演するのはギュウさん一人でしたが、だんだん欲が出てゲストを呼んだりもしました。
シンガポールナイトはお店の空間も素敵なので、音楽があったらいいよねってことで、パーカッションや二胡が演奏できるミュージシャンの方にも入っていただき、宮沢賢治の詩で演目を作ったりしていました。音楽と演劇を一緒にやるのは、音楽を喋りのように扱わせていただくというか、これは面白いなと思いました。

街のひとを巻き込んで演劇を作る

2020年9月に、一般社団法人東北えびすが立ち上がりました。

渡部ギュウさんが代表を務めていた「SENDAI座☆プロジェクト」が2020年6月に解散しました。一緒にやっていた方とも演劇の方向性が違ってきたりして、ここでリセットしようと決めたそうです。それで、様々な俳優・アーティストさんが複合的に関わりながら、もっと自由に柔軟に演劇をつくれるようにしようと再スタートさせました。東北えびすは、渡部と私と二人の社団法人で、俳優さんや音楽家さん、スタッフさんには協力メンバーとしてご登録頂いています。登録、といっても、お写真とプロフィールをホームページに掲載させていただくくらいですが。​​

一般社団法人東北えびすでは、一般の方が参加できるワークショップやカルチャー教室もやっていますね。

俳優をこれから本気で目指す方もいれば、小学校での読み聞かせボランティアとして、読む力をつけたい方、趣味として演劇や朗読を楽しみたい方など、それぞれのニーズに合わせて、気軽に体験できるワークショップを不定期に行えたらと思っています。

また、カルチャー教室は「演劇クラブ」「朗読クラブ」を“おとなのための部活動”として展開しています。基本的に渡部が講師を務め、私はたまに演出のお手伝いをしています。年1〜2回発表会や公演を行うのですが、参加者のみなさんがとても楽しそうに参加してくださっています。

芝居へのかかわり方は様々ですし、いろいろあっていいと思います。プロを目指したり、大きい公演を行うことだけが演劇ではない。もっと柔軟でいいんだな、と受講生のみなさんの姿に教えられました。

読み聞かせってお父さんお母さんなら普段の生活の中でやっているのに、朗読ってもっと難しいものと思っている方も多いと思います。そのギャップって埋まらないものなのでしょうか。

普段から子どもに読み聞かせをしているお母さんお父さんは、朗読できると思う。子どもってつまらなくなると聞いてくれないじゃない(笑)?だから、声色を変えたりあらゆる手を使って気を引いたり、そういう素質って実はみんな持っているんですよね。ワークショップへの参加でも、試しに来てみた仙臺まちなかシアターでも、きっかけは何でもよいので、観劇に通ってくださる方や、演者・演出家にシフトしてくれる方が増えたら嬉しく思います。

掲載:2023年1月30日

取材:2021年12月

企画・取材・構成 奥口文結(FOLK GLOCALWORKS)、濱田直樹(株式会社KUNK)

このインタビューは、コロナ禍での文化芸術活動、新型コロナウイルス感染症の影響、活動者自身のこれまでの活動経緯、仙台での文化芸術などについて、お話を伺いました。

髙橋 菜穂子 たかはし・なほこ
演出家。宮城県仙台市出身。宮城教育大学時代から演劇活動を開始。東日本大震災後の2011年6月、SENDAI座☆プロジェクト「明日に向かって歌え~アテルイキャラバン再び西へ」から本格的に演出家としてデビュー。「仙臺まちなかシアター」では、代表として全作品の構成・演出を、せんだい演劇工房10-BOXの企画「子育ていろいろシェアリング」では代表(2020年~)を、せんだい3.11メモリアル交流館の展示企画「voice」では演出(2021年10月~)を手がけている。