インタビュー

古典という器に
新たな水を
注ぎ入れること

津軽三味線奏者・浅野 祥

 5歳から津軽三味線をはじめ、幼少期から津軽三味線全国大会での輝かしい記録を打ち立ててきた、仙台市出身で津軽三味線奏者の浅野 祥さん。海外でのライブ出演や様々なアーティストとの共演を通じて、古典楽器のイメージを塗り替え、民謡の世界に新たな風を取り込んできた。華やかな経歴の裏には、今でも欠かさない民謡の探究がある。そこから考える津軽三味線の新しい解釈とは。そして演奏家としての浅野さんを支える軸についても話を聞いた。

津軽三味線を演奏する浅野さんにとって民謡は切っても切り離せない存在ですが、浅野さんは民謡のどんな部分に魅力を感じていますか?

 作者不詳で自然発生的に生まれてきたという背景ですね。その昔アジアには、狩りに行く前に仲間同士でハーモニーを重ねる習慣のある民族がいたそうです。ハーモニーがうまく重ならないなら狩りは中止。息が合わないと死につながる、と考えていたと知りました。こうした風習が、なんだか民謡の起源に思えるんですよね。声というものは人間にとって一種の道具や合図として使われてきたもの。きっと日本では、農耕が始まった頃から唄になる前の掛け声という形で民謡の原点があったのではないかと思っています。そう考えると、400年続く歌舞伎や1,300年続く能と比べても、民謡はずっと古くからある芸能と言えますよね。そんな歴史的な成り立ちも魅力に感じています。

浅野さんは10代の頃から津軽三味線奏者として活躍する傍ら、大学時代には民謡の研究のために全国を渡り歩き「民謡日本地図」を完成させたと聞きました。

 最初は趣味で始めたものでしたが、民謡のおもしろさをわかりやすく伝えるにはどうしたらいいだろうと民謡にまつわるうんちくをかき集めるようになりました。コンサートで全国を訪れる中で、いろいろなところを歩き人に話を聞いてみると、文献に載っていることとはまったく違う史実を発見することもありました。そのおもしろさを伝えたかったのも「日本民謡地図」を完成させた理由の一つです。

やはり現地に足を運ぶと、今までにない知識を得られるのですね。

 そうですね。現地で暮らす方に「あの場所に行ってみるといいよ」と勧められて行ってみると「えー!」と驚くようなことばかりでした。
 そしてわかったのは、全国の民謡にはつながりがあるということ。
 たとえば北海道のソーラン節も徳島の阿波踊りも、実は出どころが一緒なんですよ。そのルーツは熊本・天草にある牛深港(うしぶかこう)の周辺で生まれた『牛深ハイヤ節』で、北前船を通じて全国各地に伝わったといわれています。もちろん、唄は口伝え。唄が伝わった各地で伝言ゲームのように広がりながら、メロディーやリズム、歌詞はその土地独特のものに変化していった背景があるんです。インターネットもない時代に口伝えで広がったからこそのおもしろみですよね。

浅野さんが全国各地に足を運んだ中、特に印象深い民謡のエピソードはありますか?

 愛媛の宇和島に行った時、山奥に伊達藩のお墓を見つけました。宇和島と宮城にどんな関係があるのかなと思い調べてみると、伊達秀宗が宇和島伊達藩の初代藩主だった歴史があり、宇和島にも伊達藩の文化が残っていたようなんです。
 そのため、宮城には『さんさ時雨』という有名な民謡がありますが、宇和島にも『宇和島さんさ』という唄があるんです。伊達藩と宇和島伊達藩が一堂に集まった時に伊達藩が唄った『さんさ時雨』に対して、宇和島伊達藩の人たちが即興で『宇和島さんさ』を唄ったんですって。興味深いのは、唄の冒頭の“宮城の伊達藩は本当にすばらしい!”という意味の歌詞。一説には、これ、皮肉らしいんです。

漁師の動きを知るために、石巻で漁船に乗ったこともあるそうですね?

 そうなんです。有名な宮城の民謡『斎太郎節』に“エンヤードット”という掛け声があり、それに合わせて網を引くと教えられました。でもある時、“本当にそのテンポで網が引けるのかな?”と疑問がわいて。というのも北海道の浜頓別町(はまとんべつちょう)を訪れた時、年配の漁師さんに「ソーラン節を唄ってくれ」とお願いされたことがあったんです。意気込んで唄ってみたものの「そんなんじゃ網を引けないよ!」と怒られてしまって(笑)。その出来事をきっかけに、斎太郎節でも同じことが言えるのでは…?と気付いたんです。漁師さんには漁船に快く乗せていただいたのですが、今は電動リールで一気に網を引き上げるのが主流。残念ながら網を引くという体験はできませんでしたが、船に乗り海に出て、波に揺れるリズムは体感できました。
 ほかに、田植え作業をしたこともありましたね。民謡には労働唄の一種で『田植唄』があるのですが、この唄の特徴は不規則なリズム。そのリズムを不思議に思ったことで田植えをさせてもらいました。田んぼの中を歩くと土の中に足がズボッと深く入って、底に足が着くと少し滑るんですよね。そして足を抜く時には力を入れて一気に引き上げるような動作になる。だからこんな不規則なリズムになるのだと知りました。
 馬追いが馬を引きながら唄う『馬子(まご)唄』もそうですね。馬が歩く時のリズムを表しているのですが、きっと都市生活をする今の私たちにはつかめない感覚でしょうね。

そうした体験から、ご自身の演奏や津軽三味線への向き合い方にも変化はありましたか?

 もちろんありました。全国にはたくさんの津軽三味線奏者がいますが、私は宮城で育ちながら、なんとなく津軽三味線を弾いていたのかもしれないと気付きました。もちろん誰よりも上手くなりたいと思って大会にも出ていましたが、合わせて唄う民謡の背景や歴史をそこまで深く考えずにいたんです。でも民謡が生まれた土地に実際に足を運んで風土を体感してみると、そのひとつひとつに、譜面には表れない“間”や“雑味”、“湿り気”があるのを感じました。それらを肌で感じることは、演奏家としての自分の軌道修正にもつながりました。

東日本大震災の経験も、津軽三味線奏者としての浅野さんに大きく影響しているそうですね。

 はい、演奏活動の形態がガラッと変わりました。震災後、たくさんの仮設住宅に行かせていただきました。そこで気付いたのが、自分はとても自己満足な思いで演奏していたということ。
 5歳から津軽三味線を演奏してきて、大会に臨む時は“俺が一番だ。誰にも負けない”という気持ちでいました。でも、そんなのはただのエゴイスト。仮設住宅に出向いて演奏を聴いてくださったみなさんが一緒に唄ってくれたり、おばあちゃんたちが「演奏を聴いて久しぶりに笑った」という言葉をかけてくれたりしたときに初めて “誰かのために演奏しようという気持ちが一番大切だ”と気付いたのです。聴いてくださる方に感動を持ち帰ってもらおうという気持ちをずっと忘れていました。忘れていたというより、知らなかったのかもしれません。あの時に自分に生まれた気持ちは、今のコンサート活動にも活きています。
 唄が唄い継がれていくということは、人と人のつながりがあるからこそ。震災後に再開された盆踊りに参加したことでも、人が集まる和の中心には必ず芸能があるということを実感しました。

浅野さんは震災時に大量に出た瓦礫から楽器をつくりだす『ゼロ・ワン・プロジェクト』にも関わられています。被災されたおじいさまが住んでいた家の柱からも、津軽三味線をつくったそうですね。この津軽三味線を演奏する際はどんな思いを込めているのでしょうか。

 ネガティブな意味ではなく、“震災の経験を前向きに伝えていくための力がある楽器”として演奏しています。被災した柱でつくった経緯はお客様には伝えませんが、震災と、“誰かのために演奏しよう”という気持ちを忘れないためにも、自分の中でとても大切なものです。

この津軽三味線は水分を多く含んだ木でつくったのですよね。浅野さんが求める音を出すまでに時間がかかったのではないでしょうか。

 津軽三味線の材料には、通常は、水に沈むくらい重い枯れ木を使います。ですが、今回使ったのは津波で水分を多く含んだ木材。たしかに木が落ち着くまでには時間がかかりました。ただ、このプロジェクトで楽器に変えるのは“生活の中にあった木”。つまり、人々の暮らしとともにあった木ですから、その楽器が今出せる音に寄り沿うことを大切にしました。叩くように弾くぐらいがちょうどいい日もあれば、そんなに音が出ない日もある。それでも、それぞれの音に付き合っていこうと思っています。

最近では民謡を現代の感覚でアレンジして次世代につなげるという『ミカゲプロジェクト』も始動していますね。このプロジェクトはどんなきっかけで始まったのでしょうか。

 プロジェクトをともに立ち上げた尺八奏者の佐藤公基さんと箏奏者の本間貴士さんのディナーショーにゲストで参加したことがきっかけです。一緒に演奏をしてみたら、思いのほかサウンドがよかった。それが始まりです。
 楽器の音量を考えると、実は津軽三味線と箏は相性が悪く、一緒に演奏することはほとんどありません。生音で演奏すると、津軽三味線が箏の音をつぶしてしまうんです。まさか箏と一緒に演奏できるとは思ってもいなかったので嬉しい発見でした。

このプロジェクトを行う上で、どんな思いを大切にしていますか?

 世界中の人々、さらには子どもたちにも聴きやすい、新しいサウンドを届けたいという思いがあります。といっても、民謡の節はそのままに。伴奏やアレンジにいろいろなジャンルの音楽をニュアンスとして取り入れ、「日本の民謡はかっこいい」という自信を世界に提示していこうと思っています。海外の方に日本古来の音をぶつけてみたらどんな反応があるのか、興味がありますね。

浅野さんはこれまで海外を含めた様々なジャンルのミュージシャンともコラボレーションしていますね。コラボレーションの意図はどのようなものでしょうか。

 以前の私は、日本国民なら全員『津軽じょんから節』を知っていると思っていたんです(笑)。だけど現実は、津軽三味線を聴いたことがない人がほとんど。それなら、どうにかこちらの世界に入ってきてもらいたい。だから、コラボレーションをすることでたくさんの入口を用意しようと思ったんです。そして入口をくぐってきてくれたら、しっかり本物の音を聴かせたいという思いでいます。
 それに、三味線は同じルーツを持つ民族弦楽器が世界中にたくさんあります。大陸から日本に伝わった三味線と相性のいい音楽は世界中にあると思うんです。ギターやバイオリンとも同じ仲間ですし、そうした有名な弦楽器と遜色なく一緒に音楽が出来る立ち位置にしたいという気持ちもあります。
 そのためには、楽器の改良も必要だと思っています。たとえば、壊れにくくなるように胴に使う皮を人工的なものに変える、フィルムを使ったドラムヘッドで有名なブランドに津軽三味線をつくってもらう、など。将来メジャーな楽器として普及させていくために、そうしたアプローチを少しずつ広げているところです。

たくさんのミュージシャンとコラボしたことで、浅野さんにはどんなプラスなことがあったのでしょうか。

 新しい演奏方法を生み出せました。たとえば、フランスでリュートと一緒にアンサンブルをした時には、音を合わせた時に皮にバチが触れる音がどうしても気になり、弦だけを弾(はじ)く奏法を試してみました。スライド奏法でプレイするギタリストに影響されて、三味線のバチを棹に当てて演奏したこともありましたね。そうすると、シタールのような音がするんですよ。ほかにもフラメンコギタリストが三連符を連続で演奏しているのを見て、津軽三味線特有の大きなバチで試してみたこともあります。
 こうして、たくさんのことを吸収してから『津軽じょんから節』を弾いてみると、おもしろいんですよ。今までの自分にない演奏が生まれてくるし、いろいろな音楽の要素を還元してさらに津軽三味線の音を底上げしたいという気持ちになる。こうした経験を今後も重ねていって、三味線における音楽史の分岐点をつくる存在にもなりたいなと思います。

今、日本の伝統音楽を伝えるためにどんなことが必要だと考えていますか?

 新しい唄を作るべきだと思います。沖縄の方たちは年に何百と新しい民謡を作るのですが、本州ではそういったことはありません。
 たとえば、小学生の前で『木挽き唄』を唄っても子どもたちは木こりを知らないんですよ。「木こりって何?」という人たちに「この唄はいい唄だよ」といってもなかなか伝わらないと思うんです。それなら、たとえば“LINE節”というタイトルで「既読がついたけどなかなか返信が来なくてドキドキするな」なんて唄った方が、共感してもらえるかもしれない。だから、今の暮らしから生まれる新しい民謡を作っていけたらいいのかなと。それもひとつの伝承のかたちかなと考えているところです。

民謡のもともとの素晴らしさを伝えつつ、これからの世代への浸透も図る。浅野さんの活動にはふたつの目標があるのですね。

 そうですね。そして、もし新しく作った唄が数十年後に民謡の歌詞本に載っていたとしたら、それはもう民謡として確立したことになるじゃないですか。そうやって文化を伝えていかないと、淀んでしまうと思うんです。
 私は「古典」という言葉にコンプレックスがあったんです。津軽三味線自体は成立してから比較的歴史が浅い庶民の芸能ですし、家や一門で繋いでいく格式高いものではないので、多くの人がもつ古典のイメージとのギャップを感じて、肩身が狭い気持ちがありました。民謡や津軽三味線は、昭和期にある程度統一されて型ができましたが、もともとは人々の暮らしから生まれた自由な音楽なので、“伝統楽器の奏者として伝統や格式を守るべき”というプレッシャーにも違和感がありました。
 だけどある時、この話を薩摩琵琶の演奏家である友吉鶴心さんに打ち明けたんです。「古典という言葉が嫌で」と。そんな僕に友吉さんは「何を言っているの?」と諭してくれました。「古典の“典”の字は“器”という意味。この器は、何年もかけて先輩たちが受け継いでくれたものだけど、器の中に入っている“水”は常に新しくしないと、せっかくの器が腐るし朽ち果ててしまう。だから、三味線という器に常に新しい水を入れることがどうして悪いのかわからない」。
 その話を聞いて、やっとコンプレックスが薄れていきました。今では器をつないでいくために、どんどん新しい民謡を作りたいと思えるようになっています。世の中はなかなかそうした風潮にならないですが、広い視野で見たときには、やはり新しいことに挑戦するのが必要だと思っています。

浅野さんが目指す演奏スタイルはありますか?

 「こうありたい」という演奏スタイルがないから、いろいろなものを吸収できているのかもしれません。もちろん目指すところはあるのですが、 “これだ”というものに向かっていくことにはあまり興味がないというか…。もっと柔軟に、おもしろいことができないかという探究心の方が今は強いです。

津軽三味線の演奏家として、今後叶えたい夢は。

 私は伝統芸能に携わるひとりですが、あえてフランクに伝統や歴史に向き合おうとしています。もちろん、真剣に伝承と向き合う時もありますよ。だけど、それをやりすぎると視野が狭まってしまうんじゃないかという恐怖があるんです。それならば、師匠に見せたら怒られるような奏法を取り入れてでも、新しい唄を作りたい。新しいコラボにもたくさん挑戦したい。伝統に捉われないでいようというモットーは今後も大切にしていきたいですね。言い換えれば、“浅野祥というスタイルを作りたい”ということかもしれません。「浅野祥を見たい」と言ってもらえるような人間になることが夢ですね。
 そして、ワールドツアーも実現したいし、世界的なスターと一緒のステージにも立ってみたい。でも結局は、自分で自分の幅を狭めないことが一番大切にしたいことかもしれません。これはきっと、自分にとっての今後常に向き合う課題でしょうね。芯をしっかり持ち、誰よりも勉強をしつつ、その魅力を世界に伝えるために広い視点で津軽三味線と向き合っていきたいと思います。

掲載:2022年11月16日

取材:2022年10月

浅野 祥 あさの・しょう
宮城県仙台市出身。祖父の影響により、3歳で和太鼓、5歳で津軽三味線を始める。その後、三絃小田島流 二代目小田島徳旺氏に師事。
7歳の時、青森県弘前市で開催される津軽三味線全国大会に最年少出場し、翌年から各級の最年少優勝記録を次々と塗り替える。
2004年 津軽三味線全国大会、最高峰のA級で最年少優勝(当時14歳)その後、2006年まで連続優勝し、3連覇を達成。同大会の規定により、殿堂入りを果たす。※津軽三味線世界大会(旧大会名:津軽三味線全国大会)
2007年17歳でビクターエンターテインメントよりメジャーデビュー。以降、世界各国でコンサートツアーを行うなど、海外に向けても積極的に発信する。
仙台クラシックフェスティバルには第3回(2008年)以降、多数出演。今年(2022年)も演奏を披露している。2023年1月15日(日)、エルパーク仙台で行われる「伊達政宗が聴きたかった(かもしれない)クラシック!?『スギテツ×浅野祥 新春ファミリー音楽会』」に出演予定。