連載・コラム

2.仙台市天文台  ─それは、科学者の呼びかけと市民の募金でつくられた

仙台文化施設誕生ものがたり

小さな望遠鏡で月を望むも、風に揺らされちっとも見えない。肩を落とす子どもたちを前に、加藤兄弟の次男、加藤愛雄(よしお)先生は決心する。市内に一つ、天体観測のできる本格的な望遠鏡を、と。小中学生、高校生をも巻き込んだ運動は、かつて西公園にあった仙台市天文台として結実し、やがて全国の天文ファンの聖地となっていった。

西大立目 祥子(フリーライター)

開台間もない頃の仙台市天文台(西公園)。設計は仙台市建築課の浅野多久治による。スペースを確保するために外に設置した螺旋状の階段がモダンだ。そのバルコニーと前庭で、仙台天文同好会が観測を行っていた。(仙台市天文台提供)

建設費の半分は企業と市民からの募金

 ホールの話から始めよう。仙台市天文台には、来館者を迎えるロビーのすぐわきに「加藤・小坂ホール」と名付けられた多目的ホールがある。講演会や企画展に使われるスペースだ。公立の施設なのに個人名を冠していることを不思議に思う人もいるかもしれない。だが、この「加藤」こそ、加藤三兄弟の次男で仙台市天文台の設立に奔走した地球物理学者の加藤愛雄(よしお)先生であり、「小坂」とはその仕事を受け継ぎ2代目台長として天文台の発展に心血を注いだ小坂由須人(おさか・ゆすと)氏である。西公園から錦ケ丘への移転の際、仙台市天文台の生みの親と育ての親であるお二人の功績をたたえて命名したものだ。

 仙台市天文台設立を求めた愛雄先生の行動は、昭和23、24(1948~49)年頃の自身の体験に端を発している。荒町小学校からの依頼で、児童のための天体観測を実施したときのこと。数百人の子どもたちのために7台の小さな天体望遠鏡を何とかかき集め観測を始めたものの、強かった風が望遠鏡を揺らし、頑張ってのぞいても月にも土星にも焦点が合わない。落胆する子どもたちの姿に、「これはいけない。この熱心な子どもたちの希望をくだいては科学に対して失望させる」と痛感する。そして、教育関係者に会うたび、市内に一つでいいから本格的な天体観測の望遠鏡を、と訴えていった。折しも、もう一つの出来事が重なった。ある人物の依頼を受け、東北大学地球物理学教室の学生だった小坂氏を連れ、木ノ下(若林区)の伊達家の蔵から運び出した古道具が、長く行方知れずになっていた仙台藩の天文方、戸板保佑(といた・やすすけ)が使用した天文器具(※1)だったと判明したのだ。このとき、愛雄先生の胸には、過去から未来へとつながる仙台における天文学のストーリーがあざやかに描かれたに違いない。

「加藤・小坂ホール」の入り口には、命名由来の説明板が展示されている。加藤愛雄先生は空を見つめてきびしい表情。小坂氏はおだやかに笑みを浮かべている。

 兄、多喜雄先生が植物園整備を願い出たように(※2)、天文台の必要性を岡崎栄松市長に説く機会があったのだろうか。昭和28(1953)年2月、愛雄先生は岡崎市長に招かれた。京都の望遠鏡製作者、西村繁次郎氏と小坂氏を伴い市長室を訪ねると、そこには天文台の要望を聞きつけ100万円を寄付した燃料商の板垣金造氏も待っていて、その場で設立が決まった。国内最大の直径41cmの望遠鏡設置も決定する。戦災復興のこの時期、財政事情は厳しかったというが、仙台市では矢継ぎ早にいくつもの文化施設が整備されている。岡崎市長は、文化施設こそ復興の要と考えていたのかもしれない。

 昭和29(1954)年4月には天文台建設発起人会が開催され、6月には板垣氏を委員長に建設委員会が開かれた。市に対して民意を示すため愛雄先生が建設費の寄付を広く呼びかけると、企業のほか、市内の小中学生、高校生がオープン後の観覧料分を10円、20円の募金として出し、総額は約237万円にも上った。総建設費の半分を超える金額になったのだから驚くべき成果といえる。残りの約211万円を仙台市が補助し着工。ここに、市民参加による天文台建設という稀有な物語が始まっていく。市民が心待ちにした開台は昭和30(1955)年2月1日。9月に天文台は建設委員会から仙台市に寄付され、愛雄先生が初代台長に就任した。

 あらためて強調しておきたい。まだ戦災復興さなかの67年前のことなのだ。一人の科学者の思い、受け止めた市長、寄付をした企業各社、宇宙に夢を託し募金を買って出た子どもたちのことを、私たちはもっと誇っていい。

(※1)仙台藩の天文方だった戸坂保佑など18~19世紀の藩の天文学者が使用した「渾天儀(こんてんぎ)」「象限儀(しょうげんぎ)」「天球儀(てんきゅうぎ)」で、現在は国指定重要文化財、日本天文遺産となっている。
(※2)詳しくは、「1.仙台市野草園─それはひとりの科学者の危機感から生まれた」をご参照ください。

昭和37(1962)年、仙台市天文台の若手職員、倉持完氏が鉄管を用いて完成させた天球儀。この中で小中学生のための授業が行われた。移転の際に解体。(仙台市天文台提供)

市民が集い学び合う天文ファンの聖地に

 台長として、愛雄先生は「天文台は市民のもの」と位置づけ、「学校教育」「社会教育」「研究観測」の3つを方針として掲げた。現在の文化施設のあり方としても十分に機能する明確な基本方針には、戦争の時代、探究心や想像力を封じ込めなければならなかった子どもたちや、真実を伝えられなかった大人たちを思いやる科学者としての責任と良心がにじむ。学校教育に天文台での実習を加えよ、市民のための講座を開催せよ、そのために全台員が観測し研究せよ、と繰り返し話されていたのだろう。総面積わずか113㎡の小さな天文台で、小坂氏含め4人の台員が昼夜を問わずときに議論を闘わせ奮闘を続けた。毎月の天文普及講座、町内会や子供会をまわる夜間移動天文教室、小中学校の天文台実習、教員向けの研修会、そして、太陽黒点観測、惑星の位置観測、出張しての月食観測など。さらに昭和43(1968)年にプラネタリウム館が開館すると、その指導プログラムの開発にも着手した。新たな文化施設をゼロからつくり上げることに、どれほどの苦労があったのか。市民の天文台という前例のない施設の運営は、未知の空間に旅立つ宇宙船・仙台市天文台号の大冒険に見える。

 宇宙船のドアは小坂船長によっていつも大きく開かれていた。「いらっしゃい、中学生かい?」決してきれいとは言い難い白衣がトレードマークの船長は、乗り込んでくる人たちを笑顔で迎え入れた。24時間体制で。実際、天文台に泊まり込んでいたらしい。

昭和45(1970)年に加藤愛雄先生の後を継ぎ、平成3(1991)年まで2代目台長を務めた小坂由須人氏。開台にともない東北大学理学部地球物理学教室助手を退いて職員となった。愛雄先生がその独特の感性と資質を見込み抜擢したのかもしれない。(仙台市天文台提供)

 土佐誠名誉台長もその温かな歓迎を受けた一人だ。ご自身でも仙台市天文台の記念誌にお書きになっているからご存知の方も多いだろう。昭和33(1958)年、天文少年だった中学2年の土佐少年は、地元・東京で天文学会が開かれることを知り、担任の先生に欠席を願い出て学会に潜り込んだ。でも、話はちんぷんかんぷん。そのとき、「君、学校さぼってきてるのかい?仙台においで。41cmの望遠鏡で思う存分観測できるよ」と話しかけたのが小坂氏だった。少年は、一人、夏休みに夜行列車で仙台にやってくる。埃っぽい青葉通りをまっすぐ西公園まで歩き、天文台を目にしたときの感激。「わっ、UFOかと思いましたよ」。台員や大学生に「とさ坊」と可愛がられながらひと月滞在し、5年後には東北大学理学部に入学、銀河物理学の研究を続け、新天文台の台長となられたことは周知のとおりだ。たくさんの天文少年少女が仙台市天文台を聖地としてあこがれ、訪れた。そこにはたくさんの交流と物語が生まれた。

昭和33(1958)年、小坂氏に誘われ一人仙台にやってきた、「とさ坊」こと土佐誠氏。自身のように天文台で育った子どもたちのことを「天文台の子」と名づけた。まるでゆりかごのように、天文台は子どもたちを育んだ。(土佐誠氏提供)

 天文台を舞台に活動する「仙台天文同好会」についても触れておきたい。昭和25(1950)年に結成された会には、東北大学で理学を学ぶ学生から一般市民、中学生までが集い、観測の一翼を担った。昭和32(1957)年の国際地球観測年には、観測成功数が東京天文台(現・国立天文台)を除くと全国1位になり表彰されている。

 年齢、性別、専門もアマチュアも問わず、星空のもとに集って、互いに親しみ熱く学び合う場ができていた。私はそこに社会教育の理想のかたちを見る。

いまも生き続ける運営の3つの柱

 青葉区錦ケ丘に移転して14年。仙台市天文台と聞くと、いまは西公園の小さな建物ではなくこの大きな白い円筒形の建物を思い浮かべる市民の方が多いかもしれない。来館者は令和4(2022)年9月に400万人を突破した。見ていると、一人でふらりと入ってくる人、子ども連れのファミリー、中高生のグループ、乳母車を押すおかあさん、若いカップル、シニアご夫婦と、実に多彩。先日の皆既月食の報道やSNSの発信が示しているように、天文に関心を抱く人は確実に増えているのかもしれない。

青空に映える白い外観。コンセプトは「宇宙を身近に」。土曜日は夜になっても駐車場はいっぱいだ。

 特に土曜日は夜9時半までの開館でプログラムが目白押しとあって、夕方になってもにぎわいをみせる。人気は土佐名誉台長のトーク、トワイライトサロン「土佐誠の宇宙が身近になる話」。「着席退席睡眠自由」というウェブの案内に惹かれ、私も2週続けて参加した。この11月に話題となった皆既月食と、来月12月に迫った火星大接近のお話。ちょっととぼけた味のあるトークでは、「火星人がいたら地球の接近はどう見えるのか?」「月から見たら皆既月食のときの地球はどう見えるか?」という土佐節ともいえるような視点をずらす問いかけがあって、天文の知識が乏しい私も興味をそそられた。参加者は約30人で常連と思われる小学生の男の子もいる。開催回数は700回に近い。こういう地道な積み重ねの中から、少しずつ興味を膨らます人が増え、月食のときだけ訳知り顔に月を見上げるにわか天文ファン(私もそうだが)ではない、本当の天文好きの人たちが育っていくのではないだろうか。

土佐誠名誉台長。土曜日のトワイライトサロンを終えたあとで。「いつも3分の1は常連さん、残りは初めての方たちですね」。入館者数が増え天文台に親しむ層が広がる中、科学をどう伝えるかに苦心されている。

 修学旅行で仙台市天文台に出会って以来、天文台で働きたいと思っていたという小野寺正己台長は「市民が主役になり、宇宙や科学を切り口にしたさまざまな活動ができる宇宙の広場になっている」とこれまでの仙台市天文台を評価したうえで、「錦ケ丘に移転してからも学校教育や社会教育は活発に実践してきました。それにくらべると、最新の天文学にかかわる観測研究は非常に高度化し難しくなっているのが現状です。でも、職員と同じような技能を持つ市民を育てる市民観測員制度も整ってきているので、職員との共同観測を進めるなど望遠鏡の有効利用を図って加藤先生が提示した3つの柱を実現していきたい」と話す。

来館者を迎えるロビーには、旧仙台市天文台の41cm望遠鏡とプラネタリウム、看板が展示されている。看板には手づくり感があふれる。

 今日のように多くの人が天文に興味を持っていたわけではなかった60年前、大学の入試で土佐氏は、「天文を学んでも天文の仕事には就けませんよ」と言われたのだそうだ。思い悩む青年に、小坂氏はこう諭した。「真理は真理ゆえに尊い。実利とは別の価値があるんだ」と。役に立つか立たないか。お金になるかならないか。いま再び実利を迫る社会の中で、自然の摂理を知り、科学への興味を育て、自分なりの探求心を育んでいくことは、生きていくうえでのもうひとつの軸足を持つことにつながるだろう。見上げれば空は広がっていて、晴天の日は月が輝き星がきらめく。ひとりひとりが「なぜ?」という問いかけをすればいいだけだ。そのために市民天文台のドアはいつも開かれている。

このドーム内に「ひとみ望遠鏡」が設置されている。口径1.3mで国内屈指の大きさ。
地球、太陽系、銀河系など、テーマ別に解説展示されている。展示室隣にプラネタリウムがある。
加藤愛雄先生(仙台市天文台提供)

加藤愛雄(かとう・よしお 1905~1992)
加藤兄弟の次男。東北帝国大学理学部物理学科卒業。専門は地球電磁気学。戦後創設された東北大学理学部地球物理学科の初代教授となる。理学部附属地磁気観測所長も兼任。昭和43(1968)年、地磁気研究で日本学士院賞を受賞。仙台市天文台の開台に尽力し、昭和31(1956)年10月、仙台市天文台の初代台長に就任。また仙台市科学館の運営委員も務める。昭和45(1970)年、仙台市教育委員に就任。

参考文献
『30年のあゆみ 1985』仙台市天文台 昭和60年
『50年のあゆみ (1955~2005)』仙台市天文台 平成17年
『仙台市天文台物語』仙台市天文台 平成20年
『ようこそ星めぐり せんだい天文台だより』高橋博子/著 河北出版センター 平成27年

仙台市天文台
〒989-3123 仙台市青葉区錦ケ丘9丁目29-32
TEL 022-391-1300 URL www.sendai-astro.jp/
開館時間/9:00~17:00(土曜日は21:30まで *展示室は17:00まで)
休館日/水曜日・第3火曜日(祝休日の場合はその直後の平日)・年末年始
観覧料(個人)/(平日土日ともに料金変更なし・税込価格)
 ・展示室/一般610円 高校生350円 小・中学生250円
 ・プラネタリウム1回/一般610円 高校生350円 小・中学生250円
 ・セット券(展示室+プラネタリウム1回)/一般1000円 高校生610円 小・中学生400円
 ・天体観望会(土曜日晴天時のみ開催)/一般・高校生200円 小・中学生100円
交通/愛子観光バス:「仙台駅西口バスプール52番」から「錦ケ丘行き」乗車約30分、「錦ケ丘七丁目北・天文台入口」下車徒歩5分
JR仙山線:「愛子駅」下車、愛子駅前から「錦ケ丘」行きバス乗車、「錦ケ丘七丁目北・天文台入口」下車徒歩5分

掲載:2022年12月2日

西大立目 祥子 にしおおたちめ・しょうこ
仙台市、宮城県を中心に、住民による地域資源掘り起こし活動や冊子づくりにかかわってきた。1995年〜96年に、加藤愛雄先生の弟である加藤陸奥雄先生に直接お話をうかがう機会を得る。東日本大震災後には仙台市市民文化事業団が市内沿岸部で展開した「RE:プロジェクト」に参加し、集落を訪ねエッセイを執筆した。著書に『仙台とっておき散歩道』『仙台まち歩き』など。宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク共同代表。