【仙台文化施設誕生ものがたり】
1.仙台市野草園
 ─それはひとりの科学者の危機感から生まれた

フリーライター 西大立目祥子

 仙台市では、昭和20年代に自然科学に触れる3つの文化施設が誕生した。仙台市野草園、仙台市天文台、仙台市科学館の前身サイエンスルームである。その設立に尽力したのが、東北大学教授として活躍した加藤多喜雄、加藤愛雄、加藤陸奥雄の3兄弟(*)だった。この稿では、3回にわたり、その開設の物語をひもといてみたい。

開園して間もないころの芝生広場。植え込まれた木はまだ細く背も低く、遠くまで見通せた。(仙台市公園緑地協会提供)

このままでは仙台の山野草は絶滅する

 8月中旬、久しぶりに仙台市野草園を訪ねた。午前中の雨が上がって、雲間に鮮やかな青い空がのぞき始めたとたん、鳥のさえずりとセミの鳴き声が高くなった。おっと、目の前をセミがモミの木めざして飛んでいく。2階のどんぐり庵のテラスから園を眺めるとき、これだけの樹木と植物を残してくれた人たちにいつもお礼をいいたくなる。仙台市民のために、本当にありがとう。

歩いているとポッと池が現れるのも楽しいところ。水生植物区の池。春はオタマジャクシが生まれ、夏はトンボが産卵にくる。
入園者の多くが立ち寄る水琴窟。ひしゃくで左手の竹製の蓋の上から静かに水を落とすと、美しい音が響く。

 仙台は川の中流域に発達した全国唯一の大都市だ。かつて市街地のまわりには広大な森が広がり、森は多彩な山野草を育んでいた。草花は虫を集め、虫は鳥を呼び込み、そこには豊かな生物相と森の循環があった。だが、戦時色が強まっていくと、燃料確保のために樹木の伐採が繰り返され、戦後は開拓によって山はさらに荒れていった。

 そんな風景に強い危機感を抱いた一人の科学者の思いから生まれたのが、仙台市野草園である。昭和24 (1949) 年春、加藤多喜雄先生は弟の陸奥雄先生を伴って当時の岡崎栄松市長を訪ね、こう訴えた。「戦後仙台の野山の荒廃はあまりにひどい。近郊の山々の立木が惜しげもなく次々と切られ、開墾されて畑地となり、あるいは宅地と化し、昔日の面影はどこにもない。…僅かに生きのびた野草は水辺を求めて畑地や宅地の片隅に呻吟している。これら貴重な山野草を今にして保護の手をさしのべないと絶滅するおそれがある。仙台の自然を守るため市は応分の力をかして欲しい」 戦災から4年、生活再建や街の建設に行政も市民も汲々としていた時代に、身近な自然環境の保護を訴えた先見性に驚かされる。

 この申し出に岡崎市長は即座に、「茂ヶ崎の3万坪(野草園の現在地)ではどうか」と応じた。しかし、多喜雄先生は首を縦に振らなかった。「この地は断層地帯でもあり伐採跡地でもあって、最も荒れたところであり、面積もちいさすぎる…」と、この会談を振り返っている。すでに頭には壮大な構想があり、思い描いていたのは八木山一帯を含む20万坪。市民がそこで植物採集も楽しめるというもので、それは自身の経験に基づいていた。

 兄弟の父、加藤鉄治郎は中学校の博物学の教師で、植物に造詣が深かった。息子たちは山歩きができる年頃になると日曜のたび父に連れられ、胴乱(採集用の容器)を肩に仙台の丘陵を歩き回った。どこにどんな植物の群落があるかを、兄弟は仙台の山々の原風景として体と頭に刻みつけ育った。

 引き下がった多喜雄先生を岡崎市長は電話攻勢で説得にかかる。そして久しぶりに出向いた先生に「市長の自由になるのはこの3万坪なんだ。この土地を全部あなたにやるよ」とたたみかけた。つられてつい「…じゃもらおうかな」とつぶやいたとたん、市長がやおら立ち上がり「いがった、いがった」と小躍りしたという、まるでコントのような一場面が回想に記されている。

 翌25 (1950)年9月14日、加藤両先生のほか、市長、建設局土木部長、宮農校長、植物愛好家、地元住民などが出席して大年寺で最初の会議が開かれ、園の性格、造成業務の分担、植物採集の方法などが話し合われ、「野草園」という名称もこのときに決まった。26(1951)年3月、起工式が執り行われ、いよいよ造成が始まった。

起工式は、昭和26(1951)年3月23日に執り行われた。手書きの式次第の前で挨拶するのが岡崎栄松市長。右から2人目が加藤陸奥雄先生、3人目が加藤多喜雄先生と思われる。(仙台市公園緑地協会提供)

植物採集は市民の手で

 現在、名誉園長の管野邦夫氏は当時技師で20歳くらい。植物採集に携わったお一人だ。採集のリーダーとなったのは、仙台野草の会の会長であり植物の自生地に詳しい中村彪(ことら)氏。この人の名も野草園の立役者として記憶にとどめなければならない。近くは八木山、蕃山、国見、遠くは秋保、作並、泉ヶ岳まで、のべ54回の植物採集がリヤカーや土木部のトラックで行われた。「中村さんと次の日曜はどこに行きましょうか、と打ち合わせして出かけたんですよ」と管野氏にうかがったことがある。カゴを背負い、藪をかき分け、目当ての野草の群落を求めて歩き回ったという。持ち帰った植物は、自生地の環境に似ている場所を見極め植え込んだ。植え付けた野草が根付きすくすく育っていくよろこびを共有しながら、作業は3年続いた。

 樹木や草木に愛着を抱く市民、学生、市職員が手弁当で造成にかかわったことも園の出自を特徴づける。宮城県農業高校(宮農)の生物班120名、仙台高校生物班30名は植物採集に同行し、園内の整備には近くの東北少年院生350人も力を貸し、夏休みには愛宕中学校の600人の生徒が草取りに汗を流した。多くの人の思いと協力を束ね野草園が開園したのは、昭和29(1954)年7月21日。入園料は大人10円、小人5円、園にはまだ電気も水道も電話も通っていなかった。

造成中の野草園。高校生のほか、失業対策事業の人員9000名も携わった。正面に見える校舎は愛宕中学校。周辺に家はまばら。(仙台市公園緑地協会提供)
9月10日、シロバナハギはもう開いていた。60年ほど前、宮城野萩保存会が寄贈してくれた株だろう。

 開園のあとも植栽は続いたが、順調なことばかりではなかったようだ。2000株植えたヤマユリの500株の盗難、池の水を抜いての魚の盗難…。私は平成7(1995)年から翌年にかけて加藤陸奥雄先生に直接お会いし何度かお話をうかがう機会があったのだが、盗難についても触れておられた。「中村さんが大学に愚痴をこぼしにきたことがあったんだよ、スズラン100株植えると半分なくなるって。だから冗談混じりにいったんだ、半分残るんじゃないのって」思いを一つに、野草園を守り立てようとした関係者の気持ちが伝わる話だ。

 一方で、樹木の寄贈もあった。ヤマザクラは北海道から、ミヤギノハギはその保存と普及に熱心に取り組んでいた宮城野萩保存会から。木と草花を愛する人たちのつながりが、園の充実を育んだといえる。そして昭和40年代から50年代の管野邦夫園長の時代、自身が企画した遊び心あふれる催しや、園内の案内板や植物名札の洒脱な手書き文字で、野草園のイメージは確固たるものになった。

 開園時に植えた細々としたモミは、68年が経ったいま天をつくような大木だ。9万5千㎡の敷地には、約940種の種子植物、約60種のシダ植物、約110種のコケが育つ。

開園当時の入口付近。市内にレジャー施設はまだ少なく、家族連れの市民が多く訪れた。(仙台市公園緑地協会提供)
ところどころに掛けられた管野名誉園長の手書き書体の植物名札が、詩情を添える。これはアズサの木。

園を歩く楽しさと新たな発見

 雨上がりの園をひとり歩いた。何度もきているのに、こんな道あったっけ?と小さな発見が続く。高低差が50mにも及ぶ園内の地形は変化に富み、園路はゆるやかに曲がり先が見通せない。どんな風景が現れるのか、どんな草花が待ち受けているのか、予測できないところに楽しさと期待が生まれる。あらためて造園デザインの見事さに感じ入った。中村彪氏のアイデアを管野園長が充実させ、さらに代々の園長や職員の方々が細やかに手を加えてきたのだろう。資料には、最初の計画設計者として市の職員、津田康吉氏の名前も残る。「ここは大年寺を中心にいくつも寺があった場所です。おそらく昔の山道を生かして造成がおこなわれたのでしょうね」と、現園長の早坂徹氏は話す。

早坂徹園長。「戦後間もないころに、よくこれだけの木と野草を残してくれたと思います」と語る。野草園は、いま仙台市公園緑地協会が管理運営している。

 一般の植物園のように1株ずつ陳列するのではなく、生態を見せる野草園の管理は難しい。「植物をきれいに見てもらうためのメインの仕事は草取り。入園者の少ない夏場を中心に、まわりの植物がどう成長するか予想しながら抜きます。業者にはまかせられない。私を含めた11人の職員がやるんです。園芸種が入り込まないように注意し、野生化した帰化植物も見分けてとります」 陸奥雄先生が「開園間もないころ、職員が入口にマーガレットを植えてしまい、それを兄と二人“これはいかん”と全部抜かせたことがあったよ」と話されていたのを思い出した。何を残し何をとるかは、野草園の植物展示の根幹にかかわる。見分け方はエリアごとにいっしょに作業をしながら伝えていくのだという。冬の休園の時期は、倒木しそうな木のチェックと伐採、階段の整備、池の掃除なども職員が手がける。

 入園者は、昭和55(1980)年の約15万人をピークに、平成初めには約10万人となり現在は約4万人という。戦後、仙台の市街地周辺の丘陵地は風致地区を除きほぼ残らず宅地になった。野草園を歩くと失われた風景に出会うような思いがするし、実際、ここに息づく樹木や野草は周辺丘陵に育っていた植物の子孫たちなのだ。杜の都に暮らす市民として、ときどきはこの園を歩いて自分の中に自然への感受性と想像力を育てたいと思う。

 9月、野草園が1年で最もにぎわうハギの季節がやってきた。私は秋の七草フジバカマに飛来する渡り蝶、アサギマダラを、今年こそこの目で見たい。

2021年、芝生広場に集う人々。ケヤキは大木となりのびのびと枝を広げる。芝生向こうではハギが花を咲かせ、広葉樹が豊かに生い茂る。(仙台市公園緑地協会提供)
9月の萩まつり期間、入園者を迎え入れるハギのトンネル。翌年もきれいに咲かせるために、花が終わると根元から刈り取るという。
加藤多喜雄先生(長女の高村喜代子氏提供)

加藤多喜雄(かとう・たきお 1903~1991)
加藤兄弟の長男。東北帝国大学理学部化学科卒業。東京工業大学を経て、東北大学工学部教授、工学部長も務めた。大学業務のかたわら仙台市公害対策審議会長などを務め、市の健康都市づくりに尽力し、また宮城県自然環境保全審議会長として県内の自然環境の調査保全に関わった。仙台市科学館の前身であるサイエンスルームを立ち上げ、初代科学館長となった。1977年、仙台市名誉市民。

加藤陸奥雄先生。郷土玩具の蒐集がご趣味だった。(撮影/筆者)

加藤陸奥雄(かとう・むつお 1911~1997)
加藤兄弟の三男。東北帝国大学理学部生物学科卒業。東北大学理学部教授、理学部長、東北大学総長を務めたほか、初代大学入試センター長、宮城県美術館長などの要職を歴任。仙台市広瀬川清流保全審議会長、宮城県自然環境保全委員、宮城県文化財保護審議会長として、仙台市や宮城県の自然環境保全に貢献した。1996年、仙台市名誉市民。

*四男に磐雄氏(岩石学)がおられるが、仙台を離れられたため、仙台では「加藤三兄弟」として紹介されることが多い。

参考文献
仙台市野草園/編『野草園の年輪 30年の歩み』仙台市野草園 昭和59年
仙台市公園緑地協会/編『仙台市野草園開設四十周年記念 野草園春秋』河北新報社 平成6年

仙台市野草園(管理運営:公益財団法人仙台市公園緑地協会)
〒982-0843 仙台市太白区茂ヶ崎2丁目1−1
TEL 022-222-2324
開園期間/野草園 3月20日〜11月30日(無休)、野草館 通年開館(年末年始は休館)
開園時間/9:00〜16:45
入園料/大人240円 小・中学生60円
交通/仙台市営バス「仙台駅西口バスターミナル6番」野草園行き乗車15分、仙台市地下鉄南北線「愛宕橋駅」より徒歩20分

〈プロフィール〉
西大立目祥子(にしおおたちめ・しょうこ)
仙台市、宮城県を中心に、住民による地域資源掘り起こし活動や冊子づくりにかかわってきた。1995年〜96年に加藤陸奥雄先生に直接お話をうかがう機会を得る。東日本大震災後には仙台市市民文化事業団が市内沿岸部で展開した「RE:プロジェクト」に参加し、集落を訪ねエッセイを執筆した。著書に『仙台とっておき散歩道』『仙台まち歩き』など。宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク共同代表。