連載・コラム

2021年 この10年とこれから

『季刊 まちりょく』特集記事アーカイブ

『季刊 まちりょく』vol.41掲載記事(2020年12月20日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

 2020年は新型コロナウイルス感染症の影響により、日常生活のみならず多くの文化・芸術活動の在り方も様々な点で変更を余儀なくされました。そして未曾有の被害をもたらした東日本大震災から間もなく10年。私たちの生活、日常、そして価値観が大きく揺さぶられたあの日々と昨今の状況は異なりますが、来し方と今現在、これからについて改めて考えを巡らせている方が多いのではないかと感じます。

 文化芸術の分野で活躍する仙台ゆかりの方々は、いま何を思い、感じ、考えているのでしょうか。8人の方に文章等を寄せていただきました。

髙橋親夫(建築士)

「農業が始まる・籾の直播き」 撮影日:2014.5.30 撮影場所:仙台市若林区荒浜
「農業が始まる・大豆の芽生え」 撮影日:2014.7.3 撮影場所:仙台市若林区藤塚

1947年仙台市生まれ。2015年京都造形芸術大学写真コース卒業。1974年1級建築士取得。建築業に従事する傍ら、1984年より地域の風景の記録を始める。写真集に『あの日につづく時間―2011.3.11』。仙台ハッセルブラッドフォトクラブ、倶楽部645会員。現在は福島県浪江町、双葉町で福島第一原子力発電所事故による避難指示の解除前、解除後の風景の記録を重点的に行っている。


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鎌田 淳(㈱東北共立所属 宮城野区文化センター勤務 舞台業務担当)

 私が今の仕事場である宮城野区文化センターに配属になったのは、東日本大震災の翌年の2012年7月でした。本来ならば4月にオープンする予定でしたが、震災後の点検やさらなる耐震補強工事などでオープンが10月に変更になり、その立ち上げ準備の為、7月から私を含め4名が舞台業務担当として就くことになりました。

 それまでの私は、主にイベントやコンサートの舞台照明のオペレーターとして仙台をベースに東北各地のホールや施設を仕事場としておりました。しかし震災によって多くのホール・施設がその機能を失うことになり、しばらくは被災地などの救済や支援に関わる催事での会場設営や電源供給の仕事などが主になっていました。

 そんな折に、会社から異動の話があり、新しい施設で新たな立場で催事に関わる事になったのです。震災後1年余りが経ち、文化事業が救済支援から復興支援という名目に変り始めた頃でした。

 この新しい施設は固定式の反響板で響きを重視した音楽専用ホールと、約200席ある可動席の出し入れで平土間としても使用できる演劇ホールを持つ施設でした。この文化施設をどのように活用していくかが、当時の施設関係者にとって大きな課題だったのです。『復興支援』は被災地区として欠くことのできない課題である事、また区民センターの役割とも言える『賑わいのある空間の創造』をどう実践していくかが課題でした。

 それに応じて、舞台業務担当としての我々に求められたことは、専用ホールとしての質の高さを保ちながら、それ以外の様々な催事に対応するための工夫と、ホール以外のエリアでもイベントが出来る環境づくりでした。それには現場で培った経験が少なからず役立ちました。また逆に学んだ事は、利用者の自由な想像力に対応していく事でホール自体のポテンシャルが高まっていくという事でした。

 それから8年の間、『復興支援』『賑わいのある空間の創造』をコンセプトに様々な事業に取り組んできたことで、賑わいを創り出しただけではなく、文化の発信源としての役割も果たせるようになりました。

 ところが2020年、新型コロナウイルスは世界中の集いの場、表現の場を奪いとり、大震災の時と同様にホール・施設も本来の目的を停止せざるを得ませんでした。

 しかし人々が楽しみ笑顔になる瞬間、感動し涙する瞬間、文化は形を変えながらも生まれ続けております。何とかして伝えたい、表現したい気持ちが再び人を集わせ賑わいのある空間が創造されていくことは間違いないでしょう。賑わいを作り出すのは人々です。

 我々はこれからも、その為の環境を整えサポートしていきます。


仙台市出身。株式会社東北共立所属、舞台照明技術者またはプランナーとしてコンサート、バレエ、オペラ、テレビなど様々な業務に携わり、2012年からは新設の宮城野区文化センターの舞台スタッフとして勤務。(公社)日本照明家協会東北支部 事務局長


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我妻 雅崇(仙台フィルハーモニー管弦楽団 チーフ・インスペクター)

 未曽有の被害を起こした東日本大震災から10年目の節目を迎えようとしていた頃に襲ってきた新型コロナウイルス。

 正直最初はこんなに長くコロナ禍が続くとは思っていませんでした。

 震災直後はご存知の通りいち早く復興コンサートを開催し継続することができました。

 自らも被災者である我々が、津波の被害が大きかった沿岸地域に赴き、音楽を奏で、被災者に寄り添う事は自然な流れでした。

 復興コンサートはもはや仙台フィルの習慣となったと言っても過言ではないでしょうし、私たちはその頃から「絆」や「つなぐ」という事を意識して活動するようになりました。

 しかし、今回の新型コロナウイルスには参りました。

 人を集められない、人の集まるところに行ってはいけない。

 これでは正直打つ手なし。お手上げでした。

 2月末からコロナウイルス関連でコンサートがキャンセルになり始め、当初はチケットの払い戻しや楽団員への諸連絡で忙しくしていましたが、次第に仕事もなくなり緊急事態宣言のころには在宅勤務も経験しました。その頃は先の見通しが付かない状況の中でいったい自分に、そして楽団に何ができるのかを必死に考えていましたが、思いつくことと言えばオンラインコンサート程度でした。

 多くの楽団がオンラインでコンサートを始めたころ、私の中には小さな違和感がありました。もちろん今はオンラインでしかコンサートができない状況なのは承知しています。しかしオンラインとは言え、70名近い楽団員を集めていいものなのか?果たしてオンラインで本当の感動は伝えられるのだろうか?

 それに万が一にも感染者を出して医療従事者に迷惑をかけるようなことがあってはならないと感じていました。

 コンサートが再開できたのは7月からでした。約4か月音楽活動は休止となっていましたが、久しぶりに体感する生演奏はあの時のように私の心に大きな感動をおこしてくれました。生活スタイルは大きく様変わりし、コンサート運営も大きく変化しました。しかし、この変化に対応さえできれば、コンサートも続けられる。今はそう前向きに考えています。

 震災から10年近く経過してやっと海沿いの街も整備されてきました。コロナ禍はこの先何年続くかわかりませんが、終息を待つよりも変化に対応し多くの皆様に音楽を届けられるよう邁進したいと思います。


仙台市出身。会社勤務を経て2001年に入団。2011年の東日本大震災以降、チャリティコンサートに積極的に参加し、多くの公演でインスペクターを務める傍らMusic from PaToNaステージマネージャーを担当するなど多岐にわたる活動を続けている。2015年より仙台フィル演奏会の司会者を務める。


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菊地 昭典(シナリオライター、NPO法人とっておきの音楽祭理事長)

 音楽フェスとは縁がなかったのに、仙台に戻って来たとたんJSF(定禅寺ストリートジャズフェスティバル)に深く関わってしまう。それが30年前、僕の人生が違うベクトルへと動くことになる。本業はシナリオ作家だが、角川書店、講談社から小説を上梓しており、本腰を入れて小説を書くつもりだった。が、実行委員となり、数年後には事務局長までやることになる。10年後の2001年には、とっておきの音楽祭をつくり、その後も仙台七夕をはじめ様々なフェス、イベントの企画、プロデュースに関わるようになった。

 2011年3月11日、あの日は参加者エントリーの締切り日だった。開催か中止か悩み、エントリーした300もの団体にアンケートをとる。ほぼ全員、「こんなときだからこそ、とっておきの音楽祭はやるべき」「音楽で笑顔を取り戻そう」「みんなで一緒に元気になろう」と開催を切望していた。その言葉ひとつひとつに泣いた。開催の絶対実現に食らいつき、突っ走り、準備期間中の記憶がほとんどない。被災した各地に赴きイベントやライブを行い、心からの笑顔に元気をいただいた。プロデュースした仮設住宅での結婚式、幸せそうな二人の姿に希望を見る。一直線に走り抜け、あの日からわずか86日目、街は音楽と笑顔と涙にあふれた。

 しかし今年。各地のとっておきの音楽祭の仲間たちから続々と開催延期か中止の連絡。ますます滅入る。こちらも結局、年内開催への延期から中止へ。コロナ禍でだらだらとこの不安定な状況が続きそうだ。実行委員も先が見えず、不安が募るばかり。会議でも緊張し話が弾まない。10年前、くっきりとした青空目指して、どん底から這い上がり続けた妙なやけくそが懐かしい。

 今、大きく息を吸い吐いて走ることができない。だが匍匐前進でじわりと前へ前へと確実に進んでいる。通年活動の拠点としてスタジオOPA!を開設し、ワークショップやレッスンなどをできるようにした。記念すべき20回開催になるはずだった6月7日、県内のコミュニテイーFM各局のご協力で「ラジオdeとっておきの音楽祭」を放送し、新手法を見つける。10月にはYoutube「とっておきの音楽祭SENDAI チャンネル」を開設した。

 2021年6月6日に改めて20周年を開催する。街のステージばかりではなく、様々な試みを行うことになる。JSF、ゴスフェス(仙台ゴスペル・フェスティバル)と発足した「仙台ストリート音楽祭ネットワーク」では、これからもお互い知恵を出し合い、協力していきたい。

 東日本大震災にコロナ禍、さらに病いを得て、人生のベクトルが変わりつつある。どうしても書きたいこと遺したいことができた。と、同時に市民フェスの在り方、新しい形を模索し、とにかく進む。転んでも歩み、走る、エネルギー尽きても。


仙台出身。映画やテレビ、ラジオなどのドラマやドキュメンタリーの脚本・構成を数多く手がける。定禅寺ストリートジャズフェスティバル元副委員長、事務局長を経た後、2001年、第1回とっておきの音楽祭を開催。実行委員会企画プロデューサー担当。


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大河原 準介(演出家)

 2010年、29歳の私は歴としたニートだった。仕事と演劇のバランスがうまく取れず、仕事を辞めて作品をつくっていたのだ。その当時の自分語りは割愛するが、今、あの頃の自分が想像もできないような10年後を歩んでいる。

 仕事に追われ演劇を3年休んだことも、ロンドンに遊学して海外生活したことも、拠点を地元・仙台に移したことも、すべてが今の自分につながっているが、それらすべてが思い描いた未来図ではなかった。どちらが良い悪いではなく、想像を遥かに超えた地点に今いることが不思議だ。時として行動は妄想を凌駕する。

 ここ10年の演劇界を見渡せば、今なお続く東京から地方への拡散/離脱が始まったのも、震災以降と言われている。ここで要因についての言及は避けるが、それまで一極集中で東京にしかなかった「演劇の最先端」が、地方から生まれる時代になった。同時に「演劇すごろく」と呼ばれた王道ルートは消滅し、地方の演劇人にとって東京公演は目標でもゴールでもなくなった。今は各々が自分の表現を追い求めているように感じられる。競い合うのではなく、切磋琢磨の文字通り、互いに磨き合っている。

 仙台の演劇界はそれが顕著で、周りを見渡しても競う気はあまり感じられない。尊重し合う文化が形成されている。面白い作品を観ると悔しくなるのは私ぐらいなのだろうか。演劇界隈の人間が総じて大人になったのかもしれない。そういえば平均年齢も高くなってきた。

 文化庁が社会包摂に関わる芸術活動を積極的に支援し始めたのも2011年で、ここ10年の演劇事情と深く関わる。社会とどう繋がるのか。演劇は社会にどう役立てられるのか。コミュニケーションとは、対話とは何か。そのようなキーワードで語られることが自ずと増えた。かくいう私も創作の傍ら、演劇教育の普及について仲間と模索している真っ最中で、教育や福祉の場に演劇が用いられないかと活動している。

 この社会包摂の動きはこの先さらに加速するだろうし、演劇の需要が変容する可能性すらあると思っている。作品/メディアとしてではなく「場づくりのためのコミュニケーションツール」として演劇が求められた時、私は何を思うのだろう。いつだって未来は想像を超えてくるのだから、もう不思議ではない。

 2030年にこの文を読むのが少し楽しみだ。2040年になったら息子が読んでくれるだろうか。ちょっとしたタイムカプセル気分で、この『まちりょく』を本棚に入れておこうと思う。


仙台出身。東京にて演劇企画集団LondonPANDAを立ち上げ、制作や演出を手掛ける。ロンドンへの遊学を経て2016年より仙台に拠点を移す。演劇への間口を広げるワークショップなども数多く開催。


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六華亭遊花(落語家)

 笑って、少しでも楽しい気持ちになりましょう。

 なんて、空しく感じていた時期もありました。

 毎月の寄席で会場となっていた百貨店の地下が使えなくなってしまい、4月の公演も半ばあきらめていた時、避難所から事務局へ1本の電話がありました。

 「チケットを買っていたんですけど、開催しますか?」

 その連絡を受けた時は、自分一人でもその方のために高座に上がるつもりでした。当日は、東京から師匠たちが夜行バスで仙台入り。知り合いの飲食店が場所を貸してくださいました。

 そして20人以上のお客様が来てくださいました。

 皆さん、笑いたい!と思っているんだ!楽しいから笑う。だけでなく、笑うから幸せになる。こともあるんだ・・・。

 避難所では落語のあと、お茶っこのみをしました。みんな、話したいことがいっぱいでした。

 今も落語会や寄席が終わったあと、お客様がお帰りになる時、可能な状況であれば出口に立ち、ほんの少しではありますが言葉を交わします。(むしろ、それを楽しみにしている方もいらっしゃる?)高座の上での落語はもちろん、出口での何気ない、ほんの少しの会話や、お互いの顔を見るコミュニケーションって大事だな、と感じています。

 プロ野球楽天の選手が震災直後のインタビューで、「今、野球は必要だと思いますか?」と聞かれ、少し考えた後、「今は必要ないかもしれません。」と力なく答えていました。

 しかし、試合が再開されると、球場で、家庭や避難所のテレビの前で、歓声をあげたり悔しがったり・・・多くの人の心が動いたのです。

 日常の中で、ちょっと心が動いたり、笑ったりできると楽しく暮らせるかもしれない。そんな皆さんに会うために、日々、高座に上がっています。

 落語に登場する、少々ぶっきらぼうで、テキトーで、どこか抜けていて、不器用で、でも義理人情に厚く、お人好しでおせっかいで・・・そんな東北人を演じる時、それは私自身であり、家族や友人であり、馴染みのお客様だったりします。

 大きな苦しみと悲しみを知っている分、同じくらい、いや、それ以上の笑いもつくっていきたいものです。

 落語を観たときは、おおいに笑って、時には泣いたっていいんです。心が動いた証拠ですから。

 昔々、ばあちゃん達が、孫に昔話を語って東北の暮らしや魂を伝えたように、落語という形で、東北を語りつぐばあちゃんになりたいと思って・・・
いたら、既になってた!


岩手県遠野市出身。1997年に東北弁を駆使した落語を演じる東方落語に入門。2012年には落語芸術協会・三遊亭遊三一門に入り、高座名を「六華亭遊花」に改める。2018年には第73回文化庁芸術祭優秀賞受賞。アナウンサー、ラジオパーソナリティー、舞台俳優としても活動。


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西大立目祥子(フリーライター)

 この10年を振り返れば、東日本大震災で始まり新型コロナウィルスで終わるということになるだろうか。もちろん、いまなおウィルスは世界中で猛威をふるっているし、東日本大震災がもたらした地域や暮らしへの打撃から私たちが脱し得たとは、とても思えない。惨禍を引きずりながら、暮らしは続いている。

 震災の直後、大津波に集落がまるごとさらわれたような沿岸部に立ったときは、特に若林区荒浜や藤塚は何度も通っていただけに、呆然とした。あり得ないことが起きたと感じた。でもその後、歴史学の研究者が明らかにした貞観や慶長の大津波の規模を知るにつけ、仙台平野は数百年に一度は津波の猛威にさらされる場所なのだと思い知った。三陸沿岸に目を向ければ、明治、昭和、そして戦後も津波に痛めつけられている。

 100年前のパンデミック、スペイン風邪が世界に蔓延したときは仙台でも約4500人もの人が亡くなったという。100年前といえば、私にとっては祖父母の時代であり、ぼんやりと「スペイン風邪」という言葉を口にしたのを聞いた覚えもあるのだが定かではない。誰か市民として、ウィルスに翻弄される生活を記録した人はいなかったのだろうか。

 津波にしてもウィルスにしても、経験がきちんと語り継がれてきたとは思えない。そして、記憶の継承がなされたとしても、あとの時代の人たちがものを考えたり何かを計画したりするときに、どのぐらいの時間の幅を持つのか。その幅が小さければ、100年前の出来事はなかったことにされてしまうだろう。例えば慶長の大津波の記録は古文書に記されていたが、歴史家でさえそれを現実に起こりうるという想像力を持って読み込むことは乏しかったのかもしれない。

 この10年の終わりの時期に、宮城県美術館の現地存続活動にかかわることになって教えられたのは、この美術館には1981年に開館するまで、10年に及ぶ前史があることだった。美術館を熱望する画家たちが絵画のチャリティー展を開催して2000万円の資金を県に寄付し、県内の自治体は前庭の彫刻のために1億円近いお金を出し合った。建物については、建築家と学芸員が考えを述べ合いプランを練り、“100年持つ建築を”という建築家の思想を実現するために施工者が腕をふるった。時間と熟慮と信頼がつくりあげた美術館だからこそ、県民が自分たちの誇るべき公共の財産として愛着を重ねてきたのではないのだろうか。それにくらべると、県が示した移転の方針は、たった2回の、しかも非公開の会議で決めたという簡単さだった。現地存続が決まって活動は新たな局面に入っているけれど、この美術館の50年の物語を一人でも多くの人に伝えることも大切な要素だと感じている。

 長い時間のものさしを持って経験や記憶をていねいに語り継いでいくこと。そこから次の10年を始めたいと思う。


仙台市生まれ。フリーライター。宮城県美術館の移転案廃止を求めて結成した「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」共同代表を務める。震災後は地域資源を再発見、最認識、再考する「RE:プロジェクト」で、被災した集落に暮らしてきた方々にかつての暮らしの話を聞きエッセイを執筆。著書に『仙台とっておき散歩道』『寄り道・道草 仙台まち歩き』など。


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いがらしみきお(漫画家)

 10年という時間の中で、漫画家としてなにか生み出しえたかというと、震災をテーマにした「I(アイ)」という漫画と、震災後をテーマにした「誰でもないところからの眺め」という2作品を描きました。それが社会にどんな影響を与えたのか、それは知りません。漫画家の常として、ただただ自分が描きたかっただけでした。

 そのあとは、誰しも生きて行かなければならないので、日々の仕事の中に埋没してしまっていましたが、それを「前を向く」という言葉で言うのなら、みんなそれぞれ前を向いて生きて来たと思います。うしろを振り向くのは、それこそ漫画家とかの役目なので。

 9年間、前を向いて歩いていたら、突然コロナウイルスがやって来た。それはまるで震災の時の津波のように、すべてを流してしまい、今もまた流されている人がいる。津波がまだひかないので、世界中がどうなってしまったのかも、まだはっきりとはわからないまま、それでも人はまた「前を向く」。前を向くしかないのが人の哀しみなら、この9年間は哀しみが絶えることはなかった。しかし、もう前を向かなくてもいいのではないか、ということをコロナウイルスが教えてくれていると言ったら、あまりにも無責任でしょうか。漫画家は無責任なものですが、それでも、前を向かなくてもいい人生とはどういうものなのか、ずうっと考えています。

 コロナウイルスが最高潮の頃、私もテレワークというものをやり、その時に紙の原稿がある不便を感じました。それで自分の仕事を完全デジタルに移行させようとしている途中なのですが、アナログの不便さは消えても、デジタルの不便さが残るだけかもしれない。震災以降の世の中は、便利というものが一番の価値になってしまい、人は便利を味わいたくて、クリックしてしまう。私の仕事の完全デジタル化も、それとあまり大差ないのではないか。

 30年以上前にパソコンにハマって、仕事もほったらかしてパソコンばかりやっていたんですが、この前、ある人と話していて、いつかパソコンで漫画を描くのが夢だったのを、思い出しました。すでに10年ぐらい前に、やろうと思えばやれたことですが、ようやくパソコンだけで漫画を描きます。夢が実現すると言うほどの、高揚感がないのは必要に迫られてやるからでしょうか。

 今いる仕事場もすでに20年以上になるんですが、来年の3月で閉めることにしました。コロナウイルスの影響がないとは言えませんが、いろいろな事情によって、来年からは自宅で仕事することになります。壁一面に飾ってあるポスターや絵は、震災の時に出来た亀裂を隠すためなんですが、10年後、その亀裂がどこまで広がっているのか、確認することになりそうです。


宮城県中新田町(現・加美町)出身、仙台市在住。会社勤務を経て漫画家デビューし、1986年に連載を始めた「ぼのぼの」が大人気となる。その他の作品に「忍ペンまん丸」「I【アイ】」「誰でもないところからの眺め」など。


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「仙台舞台芸術フォーラム」の取り組み

 昨年度から3か年の計画で継続中の「仙台舞台芸術フォーラム」。
 今年度は9月に実施した屋根裏ハイツによる公演&トークに続き、3つの作品を上演します。
 2011年震災直後の福島で創作され、新聞の引用や断片的なセリフから、当時の人々の混乱・不安といった想いが浮かび上がる、シア・トリエ『キル兄にゃとU子さん』。津波によって被害を受けた人々の営みが描かれる、うたたね.〈ドット〉『咆哮〈私たちはもう泣かない〉』は、震災から8年が経過した石巻で「ようやく震災を題材とした演劇を発表することができた」という作品です。そして、2012年に発表された故・石川裕人の遺作『方丈の海』は、震災から10年後の世界が描かれた作品です。作品の舞台となった2021年に再演出される今回の上演では、震災当時の時間と現在の時間が交差することでしょう。
 また、仙台ゆかりの劇作家・演出家の柴幸男が、トークイベントで現在創作中の新作について語ります。2021年12月に行われる予定のこの新作公演では、2011年からの時間、そして現在から未来に向かう時間が描かれる予定です。

●「仙台舞台芸術フォーラム」これまでの上演作品
・三角フラスコ『はなして』(作・演出:生田恵/2020年2月)
・劇団三ヵ年計画&演劇ユニット石川組『徒然だ』(作・演出:なかじょうのぶ/2020年2月)
・弘前劇場『壊れる水』(演劇『祝/言』より)(作・演出:長谷川孝治/2020年2月)
・屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』『ここは出口ではない』(作・演出:中村大地/2020年9月)

シア・トリエ『キル兄にゃとU子さん』
(作・演出:大信ペリカン)

 「U子さんの町にはキル兄にゃが住んでいる。」2011年6月初演。東日本大震災と原発事故に対する戸惑いをビビットに表現し、青森、東京、横須賀、北九州、ミュンヘンなど各地で上演された話題作。震災10年にあたりおそらく最後の再演。

日時/2021年1月30日(土)18:00開演・31日(日)14:00開演☆
☆終演後トークイベント開催予定
会場/せんだい演劇工房10-BOX box-1
出演/佐藤隆太 鳥居裕美(捨組) 浅野希梨

『キル兄にゃとU子さん』(2011年初演/撮影:Yasuhiro Akai)

劇団うたたね.〈ドット〉『咆哮 〈私たちはもう泣かない〉』
(作:文三/演出:三國裕子)

 ただ夢であって欲しかった、あの日から三人の心に染み付いた深い悲しみと言い様のない怒り それでも明日は来る 今解き放つ 漂流する怒り この咆哮と共に自らの道を行く 私たちはもう泣かない 再び共に生きよう、この故郷で この故郷が私の居場所。
 2019年「いしのまき演劇祭」初演。震災から8年、吐き出せない想いを描いた、石巻発の舞台。

日時/2021年2月6日(土)18:00開演・7日(日)14:00開演☆
☆終演後トークイベント開催予定
会場/せんだい演劇工房10-BOX box-1
出演/三國裕子 大橋奈央
芝原弘(黒色綺譚カナリア派/コマイぬ)三浦幸枝(芝居屋) 佐々木恵真

『咆哮 〈私たちはもう泣かない〉』(2019年初演/撮影:Mayumi Yamada)

※『キル兄にゃとU子さん』『咆哮〈私たちはもう泣かない〉』共通※
料金/全席自由 一般1,000円(各演目ごと・日付指定)
チケット予約/せんだい演劇工房10-BOX
TEL 022-782-7510[10:00~21:00] WEB https://www.gekito.jp


柴幸男トーク『2021年新作公演について』

 「第2回仙台劇のまち戯曲賞」「第54回岸田國士戯曲賞」を受賞するなど高い評価を受け、これまで幅広い活動を行ってきた劇作家・柴幸男。震災から10年という時間をテーマに描く、2021年12月発表予定の新作公演とそのリサーチについてのトーク。リーディング形式で、構想中の作品の一部も発表。

日時/2021年2月3日(水)19:00開演
会場/せんだい演劇工房10-BOX box-1
料金/無料(要予約)
登壇/柴幸男(ままごと) ほか
リーディング/石倉来輝(ままごと)


方丈の海2021プロジェクト 演劇『方丈の海』
(作:石川裕人/演出:渡部ギュウ)

 生涯100本を超える劇作台本を残した石川裕人の遺作。東日本大震災から10年後の「今」を黙示録的に描いた舞台。生と死の境界を越えた魂の交信!まさに石川ファンタジー。

日時/2021年2月26日(金)19:00
27日(土)19:00、28日(日)14:00
3月3日(水)19:00、4日(木)19:00
5日(金)14:00、19:00
6日(土)14:00、19:00
7日(日)14:00
会場/せんだい演劇工房10-BOX box-1
料金/一般3,500円 U-24 2,500円
高校生以下 1,500円 ほか
出演/絵永けい 野々下孝 飯沼由和 片倉久美子 宿利左紀子 原西忠佑 小出天リ 横山真 武者匠 菊池佳南 本田椋 宮本一輝 鈴木孝 佐々木久美子 上島奈津子 篠谷薫子 松崎太郎 渡部ギュウ

『方丈の海』(2012年初演/撮影:川村智美)

「仙台防災未来フォーラム2021」パネル展示

 震災関連の舞台芸術作品や、令和3年度内に発行を予定している舞台芸術関係者インタビュー等をまとめた記録誌の経過を紹介。

日程/2021年3月7日(日)
会場/仙台国際センター 展示棟

[問]せんだい演劇工房10-BOX
   ☎022-782-7510

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『季刊 まちりょく』は、(公財)仙台市市民文化事業団が2010~2021年に発行していた情報誌です。市民の方が自主的に企画・実施する文化イベント情報や、仙台の文化芸術に関する特集記事などを掲載してきました。『季刊 まちりょく』のバックナンバーは、財団ウェブサイトの下記URLからご覧いただけます。
https://ssbj.jp/publication/machiryoku/