現在も続けられている中学生のための「実験学習」
台原森林公園がやわらかな緑に染まる5月、仙台市科学館が最も力を注ぐ「科学館学習」が始まる。対象は仙台市内にある中学校の2年生全員。年によっては受講生が1万人を超えるという壮大な事業だ。翌年3月まで、生徒たちは学校ごとに科学館を訪れ、みずから手を動かし実験する「実験学習」と、館内の展示物を操作して課題を解決する「展示学習」に取り組む。特に実験学習は、物理、生物、地学、化学から自分の興味のある実験テーマを選び、2、3人が1チームとなって実際に器具や機材を使い、プロセスを確かめながら事象に迫るという充実の内容である。
と、ここまでお読みになって、そういえば中学生のとき自分も科学館で実験したっけ…と思い出された方もいるかもしれない。この実験学習は科学館の前身「サイエンスルーム」の誕生とともに始まり、実に70年間、ほぼ休むことなく続けられてきた仙台独自の理科教育プログラムなのだ。最初に学んだ世代は80歳代半ばに達しているから、仙台に暮らし続けていれば親子3代が経験していることになる。
ここで、ざっと仙台市科学館の歴史を振り返っておこう。
そもそもサイエンスルームの創設を仙台市に働きかけたのは、東北大学の科学者たちだった。資料によると工学部の抜山四郎(※1)、成瀬政男(※2)の両氏が、戦後活発になった大学の研究成果を市民に普及しようという教育活動に熱心で、二人を岡崎栄松市長に引き合わせたのが加藤多喜雄先生だったのだと思われる。それがいつなのかははっきりしないが、レジャーセンターの起工式が昭和26(1951)年4月に行われているのを考えると、おそらく昭和24、5年頃のことで、野草園の準備時期と重なっている。起工式に至っては、野草園の起工式の翌月という慌ただしさだ。社会教育施設の準備が同時進行で進められているところに、岡崎市長の明確な意思を感じる(※3)。市長は「市民ひとりひとりが科学に親しみ、合理的な物の考え方と、科学的な生活態度を身につけることの必要性を痛感していた」という。
レジャーセンター内に設けられたわずか36坪、教室2つ分ほどのサイエンスルームは、実験室と研究・工作・資料室に仕切られ、小・中・高校生のための実験講座のほか、青年や母親向けの実験講座、理科教員のための実技講習会、東北大学の研究者による講演会など、多彩な事業を展開し全国的にも先駆的な取り組みが認められるようになっていった。
やがて手狭になったことから、昭和43(1968)年、東二番丁通りと青葉通南西角の長銀ビル地下に、展示室を備えた「仙台市科学館」として移転。初代館長には加藤多喜雄先生が就任、科学館運営委員には愛雄先生、陸奥雄先生が名を連ね、ご兄弟3人が参画するという体制になった。さらに、平成2(1990)年、現在地に移転する際には基本構想の策定委員長に陸奥雄先生が就任し、開館後は平成8(1996)年まで協議会会長を務められた。
(※1)抜山四郎(1896~1983)
東北大学名誉教授。沸騰伝熱の研究で知られる。
(※2)成瀬政男(1898~1979)
東北大学名誉教授。機械工学者。歯車の理論と技術開発で国産車生産に貢献した。
(※3)野草園開園の経緯については、「1.仙台市野草園-それはひとりの科学者の危機感から生まれた」も併せてご参照ください。
実験プログラムに情熱を注いだ理科教師たち
長い歴史を貫くように実施されてきたのが、市内全中学2年生(当初は3年生)の実験学習である。科学館の理科教師(指導主事)の先生たちは、この実験学習のプログラム制作に並々ならぬ情熱を注ぎ込んできた。まず、理科4科目から実験テーマを取り上げ、科学館の運営委員会(のちに協議会)に諮る。実験テーマが決定すると、内容に関係する運営委員、東北大学の研究者を訪ねアドバイスを受け、半年ほど予備実験を重ねて実験装置をつくり上げる。再び運営委員会に諮り了承が得られれば、中学生が実際に手にする「実験しおり」の原稿をつくり印刷にまわす。実施後は、授業の内容を検証し、実験のプロセスと器具を改良していく。手間と時間をかけプログラムは練り上げられていった。
現場にも運営委員にも、科学を学ぶことの王道は実験し観察を重ねて自分で気づき発見することという共通認識があり、それを何としても生徒たちに伝えたかったのだろう。昭和20年代から仙台市内中学校の理科教師を務め、理科研修員としてサイエンスルームの報告書に名を残す若生克雄さんは、「そもそもサイエンスルームは、学校に実験器具がないから、市内に1か所でもきちんとした実験ができるところを、と始まったものなんですよ。私も教科書だけでなく実験を通して教えたかった」と理科教師としての思いを口にする。
長銀ビルに移転した科学館は、さまざまなテーマの常設展示のほか特別展も開催して、市内外から多くの人が訪れる人気の教育施設になっていった。昭和49(1974)年に仙台市に入庁し長く科学館で仕事をしてこられた事業係の佐藤忠義さんは、「岩手県、山形県から小学6年生の修学旅行生がたくさん来たんです。狭いですから身動きもとれないほどで、何とも申し訳なくて…」と当時を振り返る。来館者が多いと展示物の故障も増え、佐藤さんら職員はメンテナンスのほか、特別展の展示物の制作にも追われた。佐藤さんが「レベルは高かったですよ」と評する展示物は、実験学習のプログラムをもとにつくられた。実験から展示物まで、10数名の職員の方たちが考え、話し合い、工夫を重ねる姿が目に浮かぶようだ。
加藤多喜雄先生は科学館の理想を高く掲げ、科学を学ぶことの本質を学校現場に立つ理科教師にも科学館職員にも伝えようとしていた。理科教師向けの講座では自らが講師となって実験器具の取り扱いについて講義し、毎週土曜日は職員に向けて講義を行ったという。毎年発行された「仙台市科学館時報」には、「智慧とは、知ること自体ではなくて、知る手段を体験することである。展示品はしたがって見せる目的物ではなくて、手段であり材料となる展示品ということになる」(第1号)、「事象の一つを教材とし、それを支配する理法にふれるところに、学習の意義がある」(第4号)など、展示品や実験についての持論を繰り返し記されている。
移転開館してわずか3年後の時報には「吾々はこの科学館をさらに本格化した形に発展させたいと思う。(略)いつかは夢を実現させたいと思う」という一文を見つけた。すでにこの時点で、現在のような本格的な科学館を構想されていたのだろうか。多喜雄先生は台原森林公園に新天地を得た新科学館の開館を見届け、平成3(1991)年4月に亡くなられた。
成り立ちの基本理念を受け継いで
この稿のために、何度か科学館を訪ね、展示室はもとより図書資料室や事務室に出入りする機会を得た。3階4階の展示室の階下には、実験室、研究室、会議室などが備えられていて、広々とした廊下を行き来しながら、多喜雄先生の長年の思いにふれているような気がした。
「実はこちらに移転のとき、実験学習を続けるかどうか議論になったんです」と佐藤さんからうかがった。「いまは学校に実験器材がそろっていますからね。でもちゃんとした実験を行う機会が少ないということで続けようということになりました。私もバーチャルではなく実際に確かめることが大切だと思います」。こうしてサイエンスルーム時代からの基本理念は、移転後も継承されてきた。
自身も長銀ビル時代に実験学習を体験したという館長の石川由紀夫さんも、「社会教育施設でありながら学校教育に直結しているところが仙台市科学館のすばらしいところです」と評価する。「全国でも科学館での実験を中学校のカリキュラムに位置づけているのは他に京都市くらい。プログラムを作成する理科の先生方の能力にも驚かされます。先生方にとっては純粋に理科教育に打ち込める貴重な時間にもなっているのではないでしょうか」
展示室には思いのほか小さな子どもたちの姿が多かった。子どもたちは、つないでいた親の手を離し、展示物のボタンを押し、動く器具を眺め、巨大な標本を見上げ思い思いに楽しんでいる。その姿を新鮮な思いで眺めながら、一方で多喜雄先生が「展示物は見世物ではない」と諭されていたことも胸をよぎった。そんな疑問を口にすると、石川さんは「実際、雨の日は混むし(笑)、未就学児が楽しめる展示物になっているんです。最初はただおもしろがっているだけでもいい。でもいつか気づきがあり、学びが始まる。そこに期待しています」と答えてくださった。多喜雄先生はじめ理科教師の多くの方々が、すぐには答えの出ない教育施設の運営の難しさを感じながらも、力を尽くしてきた核心はここにあるのかもしれない。
現在地への移転から30年。科学館は令和5年度から展示室のリニューアルに入る。2カ年をかけて展示室を1フロアごとに改修する予定だ。展示品は新しくなるが、ここでも開館当時のコンセプトは一貫して生かされる。物理化学の理工系には原理を、生物や地学の自然史系には宮城や仙台の自然を。もちろん実験や観察の成果が反映されることになっている。
私もかつて実験を体験した一人だ。内容は覚えていないのだけれど、その記憶は自分と科学館とのささやかな結び目になっている。久しぶりに展示室をゆっくりと歩き、特に自然史系展示室では巨大なゾウや岩石の展示を楽しんだ。自然の摂理の中に存在するちっぽけな自分を思い知らされ、日常生活の外に連れ出されたような開放感を味わった。
※ネーミングライツにより、仙台市科学館の呼称は平成25(2013)年6月から「スリーエム仙台市科学館」となっている。
加藤多喜雄(かとう・たきお 1903~1991)
加藤兄弟の長男。東北帝国大学理学部化学科卒業。東京工業大学を経て、東北大学工学部教授、工学部長も務めた。大学業務のかたわら仙台市公害対策審議会長などを務め、市の健康都市づくりに尽力し、また宮城県自然環境保全審議会長として県内の自然環境の調査保全に関わった。仙台市野草園、仙台市科学館の前身であるサイエンスルームの立ち上げに尽力。初代科学館長となった。1977年、仙台市名誉市民。
加藤愛雄(かとう・よしお 1905~1992)
加藤兄弟の次男。東北帝国大学理学部物理学科卒業。専門は地球電磁気学。戦後創設された東北大学理学部地球物理学科の初代教授となる。理学部附属地磁気観測所長も兼任。昭和43(1968)年、地磁気研究で日本学士院賞を受賞。仙台市天文台の開台に尽力し、昭和31(1956)年10月、仙台市天文台の初代台長に就任。また仙台市科学館の運営委員も務める。昭和45(1970)年、仙台市教育委員に就任。
加藤陸奥雄(かとう・むつお 1911~1997)
加藤兄弟の三男。東北帝国大学理学部生物学科卒業。東北大学理学部長、東北大学総長、初代大学入試センター長、宮城県美術館長などの要職を歴任。仙台市広瀬川清流保全審議会会長、宮城県文化財保護審議会会長として仙台市や宮城県の自然環境保全に貢献した。兄とともに仙台市野草園の立ち上げに尽力、仙台市科学館の運営委員も務めた。1996年、仙台市名誉市民。
※四男に磐雄氏(岩石学)がおられるが、仙台を離れられたため、仙台では「加藤三兄弟」として紹介されることが多い。
参考文献
仙台市/編『サイエンスルーム時報』第1巻〜第8巻 1954年〜1960年
昭和40年度仙台市教育委員会・指導室サイエンスルーム/編『仙台市立学校理科研修員報告』
レジャーセンター・サイエンスルーム/編『第一回実験しおり』 1952年
中条幸・太田良三『仙台市レジャーセンター・サイエンスルームはなにをしてきたか』 教育技術第11巻 第7号 1956年
中条幸『市民のための科学博物館ネットをつくろう』 ※発刊元・発刊年など不明
仙台市科学館/発行『仙台市科学館時報』第1号〜第23号 1969年〜1991年
スリーエム仙台市科学館
〒981-0903 仙台市青葉区台原森林公園4番1号
TEL 022-276-2201 FAX 022-276-2204
HP http://www.kagakukan.sendai-c.ed.jp
開館時間/9:00~16:45(入館は16:00まで)
休館日/月曜日(休日を除く)
休日の翌日(土・日曜日、10月第2月曜日の翌日ただし休日を除く)
毎月第4木曜日(12月、休日を除く)
12月28日〜1月4日
入館料/一般 550円(団体430円)
高校生 320円(団体260円)
小・中学生 210円(団体170円)
交通/仙台市地下鉄南北線「旭ヶ丘駅」下車徒歩5分
東北自動車道「仙台宮城 IC」を降り仙台北環状線経由約30分 または東北自動車道
泉IC」を降り、国道4号線・県道仙台泉線経由約30分