まちを語る

その37 浅井 浩雄(映写技師)

その37 浅井 浩雄(映写技師)

一番町~稲荷小路~定禅寺通
 仙台ゆかりの文化人が、街を歩きながらその地にまつわるエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。今回は、映写技師として長らく仙台の映画文化を支えてこられた浅井浩雄(あさいきちお)さんにお話をうかがいました。
『季刊 まちりょく』vol.37掲載記事(2019年12月20日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

一番町~稲荷小路

かつて仙台日活映画劇場のあった仙台フォーラス前にて。
▲かつて仙台日活映画劇場のあった仙台フォーラス前にて。
 台風一過、この日の待ち合わせ場所は「仙台フォーラス」前。浅井さんが映写技師としての人生を歩むきっかけとなった仙台日活映画劇場のあった場所です。つい先日卒寿のお祝いをしたとは思えない軽快な足取りで現れた浅井さんは、挨拶もそこそこに、日活時代の思い出を語り始めました。
「当時の商店街は、道幅はもっと狭くて、こんなに立派なアーケードなんてなかったっちゃ」
▲「当時の商店街は、道幅はもっと狭くて、こんなに立派なアーケードなんてなかったっちゃ」
 尋常高等小学校卒業後すぐに産業戦士として軍需工場で働き、戦後もしばらく鍛造業に従事していた浅井さんが仙台日活映画劇場に就職したのは1948年、18歳の時のこと。日乃出映画劇場で働いていた義理のお兄さんの紹介でした。ボイラー技師として働き始めましたが、ほどなくして映写技師を志すようになったといいます。国家資格を有する映写技師といえば雲の上の存在。朝は誰よりも早く劇場に入り、掃除、お茶の準備を済ませて先輩技師を迎えるのが当たり前の時代でした。ボイラーの仕事に加え、チケットのもぎり、お客さんの誘導といった表方の仕事もこなしながら、シフトの空き時間に映写技術を学ぶといった生活を3年ほど続け、晴れて映写技師となりました。
石原裕次郎主演『昭和のいのち』(1968年公開)の看板に彩られた仙台日活映画劇場。日活映画のロケで来仙した小林旭、西村晃、吉永小百合といった昭和の大スターと仕事をしたのも良い思い出。(提供:浅井浩雄)
▲石原裕次郎主演『昭和のいのち』(1968年公開)の看板に彩られた仙台日活映画劇場。日活映画のロケで来仙した小林旭、西村晃、吉永小百合といった昭和の大スターと仕事をしたのも良い思い出。(提供:浅井浩雄)
 仙台空襲で焼け野原になった街で、戦後いち早く人々に娯楽を提供したのが映画でした。週末や盆正月には大勢の人が詰めかけ、700席もあった劇場から溢れたお客さんが商店街に長蛇の列をつくったといいます。両脇にゴミがうずたかく積もった凸凹の道路を大急ぎで自転車を走らせてフィルムを配達したこと、商店街の旦那衆はみんな顔馴染みで、風呂上りに浴衣で映画を観に来てくれたこと、ビール1ケースを賭けて他の劇場と野球の試合をしたこと、当時誰もが欲しがった「映画の招待券」で気になる女の子をデートに誘ったこと・・・・・・、この頃の思い出は尽きません。「当時はまだ街がゆったりしてたんだっちゃねぇ」と楽しそうに語る浅井さんの眼には、進駐軍や娼婦、警察やチンピラと、いろいろな境遇の人がお互いにうまく渡りあって生きている、そんな戦後ならではの人情と活気に満ちた街並みが今も見えているようです。
仕事帰りによく立ち寄った稲荷小路。「しょっちゅう飲みに来たから〈夜の帝王〉なんて言われたよ」。「餃子専門店 おゆき」や「おでん三吉」はその当時からある馴染みのお店。このあたりには東一市場や民謡酒場、芝居小屋もあり、多くの人で賑わった。
▲仕事帰りによく立ち寄った稲荷小路。「しょっちゅう飲みに来たから〈夜の帝王〉なんて言われたよ」。「餃子専門店 おゆき」や「おでん三吉」はその当時からある馴染みのお店。このあたりには東一市場や民謡酒場、芝居小屋もあり、多くの人で賑わった。
 映画の黄金時代とともに青春を謳歌した浅井さんですが、1960年代に入ると次第に娯楽の中心が映画からテレビへと移行し、映画館も徐々に減っていきました。仙台日活映画劇場も1972年に閉館。同僚が他都市の映画館へ移籍していくなか、浅井さんは仙台に残る道を選択しました。1983年に株式会社東北日活を一人で設立、東北一円の学校や施設で児童映画の出張上映をしたり、当時全国的な広がりを見せていた自主上映会を技師として支えたり、時には「未来の東北博覧会 EXPO’87」などの大規模イベントでの上映を手がけたりと、自ら活躍の場を切り拓いていきました。

定禅寺通

浅井さんの映写技術者免許証。
▲浅井さんの映写技術者免許証。
 2000年代に入ると、映画製作・上映ともにデジタルが主流となり、フィルム上映の機会はさらに減っていきますが、この頃、浅井さんが仕事で通うようになったのがせんだいメディアテークでした。2001年の開館以来、フィルム上映があるたびに現場に入り、若手スタッフに映写のいろはを教えながら、数々の作品を紹介しました。
映写技師の国家資格試験を受けた旧宮城県労働会館(現東京エレクトロンホール宮城)前のグリーンベルトでひと休み。
▲映写技師の国家資格試験を受けた旧宮城県労働会館(現東京エレクトロンホール宮城)前のグリーンベルトでひと休み。
 メディアテークに到着すると、「わー、浅井さんだ!」とスタッフの温かい歓迎を受けながら、映写室へ。てきぱきとフィルムを映写機にかけながら浅井さんが一言。「今はボタンひとつで上映できるけど、当時は映写技師二人が呼吸を合わせてフィルムを切り替えなきゃなかったし、音も映画ごとに調整しなきゃなかった。映画といえば、監督や俳優の名前が前に出てくるけれど、最後の仕上げは映写技師の腕にかかっている、そんな緊張感を持って上映しなきゃないと、技師仲間でよく言ったんだ」。これまでに数えきれない作品をスクリーンに映し、映写室からお客さんを見守ってきた映画人としての誇りが垣間見える瞬間でした。
せんだいメディアテーク7階、映写室にて。
▲せんだいメディアテーク7階、映写室にて。
 「映画って本当に面白いね。観る年代によって感じ方が全然違ってくるんだよ」。最近は古い映画をよく見返しているという浅井さん。上映を通じて出会った数々の名画と、仲間との思い出を胸に、人生の歩みは今日も続いていきます。

掲載:2019年12月20日

写真/佐々⽊隆⼆

浅井 浩雄 あさい・きちお
1930年仙台市生まれ。1948年仙台日活映画劇場に入社、1964年映写技師長に昇任、数々の映画上映に携わる。仙台日活映画劇場閉館後、日活児童映画株式会社を経て1983年に株式会社東北日活を自ら設立。東北一円の学校や施設への出張上映、市内各地での自主上映に携わる傍ら、恵まれない子どもたちのためのチャリティ上映や、屋外で行う卸町映画上映会「おろシネマ」など、地域活動も積極的に行ってきた。満89歳、仙台で最年長の映写技師。