まちを語る

その34 丹野 久美子(劇団I.Q150主宰)

その34 丹野 久美子(劇団I.Q150主宰)

榴岡~名掛丁
仙台ゆかりの文化人が、街を歩きながらその地にまつわるエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。今回は創設40周年を迎える劇団I.Q150主宰の丹野久美子(たんのくみこ)さん。これまで立ち寄ることができなかった、大切な場所を訪れました。
『季刊 まちりょく』vol.34掲載記事(2019年3月20日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

榴岡

1985年から1991年まで、劇団I.Q150の拠点だった「石の藏」。看板は手作り。青年団の主宰・平田オリザさんも訪れ「こまばアゴラ劇場」へと誘ってくれた。初めてのロングラン公演も、様々なアーティストのパフォーマンスも「ここから始まりました」。
▲1985年から1991年まで、劇団I.Q150の拠点だった「石の藏」。看板は手作り。青年団の主宰・平田オリザさんも訪れ「こまばアゴラ劇場」へと誘ってくれた。初めてのロングラン公演も、様々なアーティストのパフォーマンスも「ここから始まりました」。
 風の冷たい1月、仙台駅東口のペデストリアンデッキで丹野さんと待ち合わせ。本日は東八番丁にあった劇団の稽古場「石の藏」跡に向かいます。街は土地区画整理事業で様変わりしていますが当時の面影を拾いながら進みます。「あそこに『力寿司』が見えるからこの通りだと思う。・・・ここかな?」。そこにはマンションが建っていました。
舞台ではリアリティをという思いから作られた、女3人が舞台上で実際に飲み食いをする作品「女ともだち」。評判を呼び1日2回公演になりましたが、飲み屋のママ役だった丹野さん(右)はお酒が抜けずに散々なことに。文字通り体を張った舞台でした。
▲舞台ではリアリティをという思いから作られた、女3人が舞台上で実際に飲み食いをする作品「女ともだち」。評判を呼び1日2回公演になりましたが、飲み屋のママ役だった丹野さん(右)はお酒が抜けずに散々なことに。文字通り体を張った舞台でした。
 「石の藏」は劇団が最初に借りた稽古場で、60人くらい入る広さの石蔵でした。「とにかくいろんなことをやりました」と丹野さん。週のうち劇団の休みは一日だけで、その日はバンドの練習。結局休みはなかったといいます。演劇あり、ライブあり、パフォーマンスありのユニークな「石蔵劇場」として知られていました。公演にはお客さんとしてお巡りさんもよく来たそう。「制服で後ろに立たれるので困ったのよ。お客さんがザワザワしてね。何かあるんじゃないかって(笑)」。近くには風情ある小さなお店が連なっていたので、飲み屋と勘違いされたこともあったそう。「パンクのお兄ちゃんの隣にお巡りさん、そして団員のお母さんが並んで立っている。舞台から見た景色が面白かったですね」。雨漏りがするので傘を配り、夏は氷柱を立ててビールを振る舞い、終わるとその場で打ち上げ。「70年代の流れそのままだった」と語ります。
丹野さんが「お兄ちゃん」と慕っていた故・石川裕人さん(1953~2012)と。石川さんは、1981年に旗揚げした「十月劇場」(TheatreGroup“OCT/PASS”の前身)の主宰者。共に切磋琢磨しながら仙台の演劇界を牽引してきました。
▲丹野さんが「お兄ちゃん」と慕っていた故・石川裕人さん(1953~2012)と。石川さんは、1981年に旗揚げした「十月劇場」(TheatreGroup“OCT/PASS”の前身)の主宰者。共に切磋琢磨しながら仙台の演劇界を牽引してきました。
 そんな数々の思い出がギュッと詰まっていた稽古場は1992年1月、火事で焼失します。ずっと走り続けてきたのでここらでみんなで近場の温泉にと、初めて休みを取った日の出来事でした。原因は不明のまま。以来27年間、丹野さんはこの場所を訪れることができませんでした。「何ひとつ残っていないね。これではわかんないわぁ・・・でも面影がなくて助かった。もっと取り乱すと思っていたから」と涙をぬぐい、ホッとしたようなそれでいて複雑な表情。「火事の前にも辛いことがあり、ダブルだったので凹みました。劇団を解散しようと思ったけど、当時40人くらいメンバーがいたのでそれはできませんでした」。その後も仙台の演劇界を支える存在として走り続けてきました。

名掛丁

「紙吹雪が好きで芝居でよく使いましたが、お客さんにくっついて、この辺りまで散らばってしまうので、みんなで掃除に来ました」。
▲「紙吹雪が好きで芝居でよく使いましたが、お客さんにくっついて、この辺りまで散らばってしまうので、みんなで掃除に来ました」。
 元稽古場に近い地に100年以上店を構える「梅津酒店」を訪ねてみました。仙台駅東口名掛丁の歴史に詳しい店主の梅津恵一さんは「石の藏」のことを覚えていました。パッと丹野さんの顔が輝き、当時の様子や懐かしいお店の方の話で盛り上がります。「ここで生まれ育ったので、建物よりも住んでいた人たちの顔を思いだします」と梅津さん。「そうですよね。街には人の想いが根付いていますよね」と、どこか吹っ切れたような笑顔の丹野さん。「これからはもう大丈夫、またここに来られます。ありがとうございました」と握手を交わし店を後にしました。
昔の地図や写真を使って、この街の移り変わりをお話しくださった梅津さん(左)。「ここに歴史があることを知っている者のつとめとして伝えていかなければ」。
▲昔の地図や写真を使って、この街の移り変わりをお話しくださった梅津さん(左)。「ここに歴史があることを知っている者のつとめとして伝えていかなければ」。
「塩竈夢ミュージカル」の練習風景。「お母さんと子どもが一緒に過ごせる時間は長くないから一緒に出ちゃいなさい」と4歳の子を参加させたことがあったそう。その子も今では高校生に。みんな元気でかわいくて、成長する姿を見るのが嬉しいと言います。
▲「塩竈夢ミュージカル」の練習風景。「お母さんと子どもが一緒に過ごせる時間は長くないから一緒に出ちゃいなさい」と4歳の子を参加させたことがあったそう。その子も今では高校生に。みんな元気でかわいくて、成長する姿を見るのが嬉しいと言います。
 丹野さんは2007年から塩竈市民センター(遊ホール)が実施している市民参加企画「塩竈夢ミュージカル」で、小学生からご年配の方まで幅広い層の指導にあたっています。当初は3年の約束で、こんなに続けるつもりはなかったそう。しかし公演後に「私たちはこの後どうしたらいいんですか」と続投を嘆願され、ついほだされ、かれこれ12年のお付き合いに。脚本制作や演出のみならず、衣裳を縫ったり、小道具を作ったり、握り飯を作ったり、「なんでも屋」なのと笑います。
2019年2月に上演された塩竈市民ミュージカル「時の旅人」。出演者に合わせて丹野さんが「当て書き」で脚本を制作して演出を手がけました。2時間を越える作品を総勢100人が見事に演じ切りました。
▲2019年2月に上演された塩竈市民ミュージカル「時の旅人」。出演者に合わせて丹野さんが「当て書き」で脚本を制作して演出を手がけました。2時間を越える作品を総勢100人が見事に演じ切りました。
 他の人のために動いてしまう性分で、つい自分のことを後回しにしがち。ミュージカルにかかりっきりで、自身の劇団活動はここ7年ほど満足にできていないのが悩みの種とのこと。辞めずに待っている劇団メンバーがいて、今年は創設40周年の節目の年。そろそろ自身の劇団のことをしたいな・・・と気持ちを新たにされていました。

掲載:2019年3月20日

写真/佐々⽊隆⼆

丹野 久美子 たんの・くみこ
1960年、仙台市生まれ。劇団 I.Q150 主宰。作家・演出家・女優。常盤木学園高校在学時、オリジナル脚本「三途の川を渡りそこねた少女の話」で県高校演劇コンクールの最優秀賞を受賞。1979年劇団I.Q150を旗揚げし、以来40年間地元仙台での公演のほか、東北各県や東京などで精力的に活動、作・演出・女優として劇団の全ての作品に携わる。1991年度宮城県芸術選奨新人賞、1998年度宮城県芸術選奨を受賞。TV・ラジオのパーソナリティーや構成作家、新聞・雑誌のコラム等の執筆、振付や舞台演出も手掛け、バンドのボーカルも務める。