まちを語る

その20 梶賀 千鶴子(かじか ちづこ)(SCSミュージカル研究所主宰)

その20 梶賀 千鶴子(かじか ちづこ)(SCSミュージカル研究所主宰)

荒町、土樋、東二番丁通 (仙台市若林区、青葉区)
仙台ゆかりの文化人が、街を歩きながらその場所にまつわるさまざまなエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。今回ご登場いただくのは、今年創設25周年を迎えた「SCSミュージカル研究所」の主宰、梶賀千鶴子さん。真夏の空の下、自らの原点を訪ねる散策となりました。
『季刊 まちりょく』vol.20掲載記事(2015年9月15日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

荒町

 梅雨が明け、例年にない猛暑が続く7月末の仙台。「暑いのは平気なのよ」と、梶賀千鶴子さんは黒のコスチュームで颯爽と登場した。
 梶賀さんは1970年代から80年代にかけて「劇団四季」で演出・脚本・振付などを手がけ、1990年に故郷仙台で創作ミュージカルの公演・制作を行う「SCSミュージカル研究所」を立ち上げた。そのSCSが今年で25周年を迎え、この取材の数日前には記念公演『カミナリム』の2日間にわたる本番を終えたばかり。
自立劇団で活動していた頃の稽古場跡地(荒町)。梶賀さんの原点である。
▲自立劇団で活動していた頃の稽古場跡地(荒町)。梶賀さんの原点である。
 その余韻が残るなか、この日梶賀さんが最初に訪ねたのは若林区の荒町。商店街の入り口近く、現在は広場になっている区画にはかつて市の施設があり、「自立劇団の頃、ここで稽古をしていたんです。畳敷きの2階建てでね。町内会の人たちが会合をするようなところで、私たちはミュージカルを練習していました(笑)」と当時を懐かしむ。
 3歳からバレエを習い、ダンスやお芝居が大好きだった梶賀さんは、宮城学院女子大学在学中に仲間たちと自立劇団「劇研はち」を結成する。その活動の途中で劇団四季に移り、「ブロードウェイミュージカルを日本に持ってくる最初の頃で、ものすごく濃い時間でした」という14年間を過ごす。その後フリーとなり、母校・宮城学院の創立100周年(1986年)、仙台市制100周年(1989年)のミュージカル制作などを手がけ、それをきっかけに仙台に戻りSCSを設立するのだが、ミュージカルと共に歩んできた自分の原点は、荒町のこの場所なのだと梶賀さんは言う。

土樋

愛宕大橋たもとのマンションには、かつてSCSの事務所と衣裳部屋があった。春になるとマンションの隣の竹藪でタケノコが採れた。猫好きの梶賀さんはこの辺りで拾った野良猫を今も飼っている。
▲愛宕大橋たもとのマンションには、かつてSCSの事務所と衣裳部屋があった。春になるとマンションの隣の竹藪でタケノコが採れた。猫好きの梶賀さんはこの辺りで拾った野良猫を今も飼っている。
 10人でスタートしたSCSはやがて大所帯となり、1996年には若林区の土樋に稽古場を構えた。国道4号を越えた青葉区土樋のマンションには事務所と衣裳部屋があり、目と鼻の先の仙台市福祉プラザで公演を実施することも多く、梶賀さんはじめ研究所のメンバーたちは、この界隈をそれこそ「サンダル履きで走っていた」そうだ。「衣裳とか大道具とかも持って歩いてね」と梶賀さんは笑う。2010年、SCSの稽古場と事務所が一番町に移転して以来、この日約5年ぶりに土樋周辺を歩いた梶賀さんを驚かせたのは、馴染みだったいくつかの店が姿を消してしまったことだ。「ほんとに変わっちゃった……」と梶賀さんが呟く。まちの変化は思いのほか早いのだ。
五橋にある行きつけの美容室を訪ねた梶賀さん、オーナーと会話がはずむ。
▲五橋にある行きつけの美容室を訪ねた梶賀さん、オーナーと会話がはずむ。
 最後に訪ねたのは、梶賀さんが中学から大学まで学んだ宮城学院の跡地。現在、仙台国際ホテルやSS30(住友生命仙台ビル)がそびえる区画には、1980年までレンガ造りの校舎が建ち、ミッションスクールの歴史と伝統を物語っていた。

東二番丁通

東二番丁通を渡る。この通りを挟んで宮城学院と東北学院の校舎が向かい合って建っていた。「高校で応援団を作ったとき、東北学院のボーイフレンドから『千鶴子ちゃんが不良になった』なんて言われてね(笑)。でも女の子らしい演出と振付でやったのよ」と笑う。
▲東二番丁通を渡る。この通りを挟んで宮城学院と東北学院の校舎が向かい合って建っていた。「高校で応援団を作ったとき、東北学院のボーイフレンドから『千鶴子ちゃんが不良になった』なんて言われてね(笑)。でも女の子らしい演出と振付でやったのよ」と笑う。
 「中学では自治会、高校では応援団を作ったりして、私は少し“はみ出しっ子”でした。うちの母は職員室に呼び出されるのが日常で(笑)。でも毎日楽しくて仕方がなかった」と青春時代を振り返る梶賀さん。「ミュージカルの仕事も、自分では続けていこうという意識はなくて、楽しいことを求めてきたというのが現実」とも語る。聞けば1945年7月の仙台空襲の数日後、避難する木炭車の中で7か月の未熟児で生まれ、母親から「生きているだけでありがたいのよ」と聞かされて育てられたという。そこから芽生えた「自分のいのちってすごいんだ」との思いが、梶賀さんのミュージカル作品に通底するメッセージだ。
宮城学院の跡地に建つ石碑。レンガ校舎の面影を探すことはできないが、梶賀さんをはぐくんだ青春の日々はたしかにこの地にあった。
▲宮城学院の跡地に建つ石碑。レンガ校舎の面影を探すことはできないが、梶賀さんをはぐくんだ青春の日々はたしかにこの地にあった。
 「私ね、ほとんど過去を振り返らないんだけど、今年“戦後70年”だって言われて自分の年齢を初めて意識したの」と梶賀さん。その活動の原点を訪ねる散策が、ひとつのいのちの原点にも辿りついた不思議。梶賀ワールドに引き込まれたかのような、真夏のまち歩きだった。

掲載:2015年9月15日

写真/佐々⽊隆⼆

梶賀千鶴子 かじか・ちづこ
仙台市生まれ。宮城学院女子大学日本文学科卒業。劇団四季にて『キャッツ』『ジーザス・クライスト・スーパースター』等の演出補をはじめ、『ユタと不思議な仲間たち』『人間になりたがった猫』『魔法をすてたマジョリン』等の作家・演出家として活躍。退団後は松本幸四郎主演ミュージカル『ZEAMI』、冨田勲オペラ『ヘンゼルとグレーテル』などの演出を担当する一方、1990年、仙台にSCSミュージカル研究所を開設し、新たな創作活動を開始。以来、これまでにSCSで創作したミュージカル作品数は140を超える。現在はSCSをはじめ、七ヶ浜町、一関市、米沢市などで地元ミュージカル団体の育成・指導にもあたっている。2010年、宮城県教育文化功労者。有限会社純クリエイション取締役、宮城学院女子大学非常勤講師、宮城県文化芸術振興審議委員等を務める。