荒町
梅雨が明け、例年にない猛暑が続く7月末の仙台。「暑いのは平気なのよ」と、梶賀千鶴子さんは黒のコスチュームで颯爽と登場した。
梶賀さんは1970年代から80年代にかけて「劇団四季」で演出・脚本・振付などを手がけ、1990年に故郷仙台で創作ミュージカルの公演・制作を行う「SCSミュージカル研究所」を立ち上げた。そのSCSが今年で25周年を迎え、この取材の数日前には記念公演『カミナリム』の2日間にわたる本番を終えたばかり。
その余韻が残るなか、この日梶賀さんが最初に訪ねたのは若林区の荒町。商店街の入り口近く、現在は広場になっている区画にはかつて市の施設があり、「自立劇団の頃、ここで稽古をしていたんです。畳敷きの2階建てでね。町内会の人たちが会合をするようなところで、私たちはミュージカルを練習していました(笑)」と当時を懐かしむ。
3歳からバレエを習い、ダンスやお芝居が大好きだった梶賀さんは、宮城学院女子大学在学中に仲間たちと自立劇団「劇研はち」を結成する。その活動の途中で劇団四季に移り、「ブロードウェイミュージカルを日本に持ってくる最初の頃で、ものすごく濃い時間でした」という14年間を過ごす。その後フリーとなり、母校・宮城学院の創立100周年(1986年)、仙台市制100周年(1989年)のミュージカル制作などを手がけ、それをきっかけに仙台に戻りSCSを設立するのだが、ミュージカルと共に歩んできた自分の原点は、荒町のこの場所なのだと梶賀さんは言う。
土樋
10人でスタートしたSCSはやがて大所帯となり、1996年には若林区の土樋に稽古場を構えた。国道4号を越えた青葉区土樋のマンションには事務所と衣裳部屋があり、目と鼻の先の仙台市福祉プラザで公演を実施することも多く、梶賀さんはじめ研究所のメンバーたちは、この界隈をそれこそ「サンダル履きで走っていた」そうだ。「衣裳とか大道具とかも持って歩いてね」と梶賀さんは笑う。2010年、SCSの稽古場と事務所が一番町に移転して以来、この日約5年ぶりに土樋周辺を歩いた梶賀さんを驚かせたのは、馴染みだったいくつかの店が姿を消してしまったことだ。「ほんとに変わっちゃった……」と梶賀さんが呟く。まちの変化は思いのほか早いのだ。
最後に訪ねたのは、梶賀さんが中学から大学まで学んだ宮城学院の跡地。現在、仙台国際ホテルやSS30(住友生命仙台ビル)がそびえる区画には、1980年までレンガ造りの校舎が建ち、ミッションスクールの歴史と伝統を物語っていた。
東二番丁通
「中学では自治会、高校では応援団を作ったりして、私は少し“はみ出しっ子”でした。うちの母は職員室に呼び出されるのが日常で(笑)。でも毎日楽しくて仕方がなかった」と青春時代を振り返る梶賀さん。「ミュージカルの仕事も、自分では続けていこうという意識はなくて、楽しいことを求めてきたというのが現実」とも語る。聞けば1945年7月の仙台空襲の数日後、避難する木炭車の中で7か月の未熟児で生まれ、母親から「生きているだけでありがたいのよ」と聞かされて育てられたという。そこから芽生えた「自分のいのちってすごいんだ」との思いが、梶賀さんのミュージカル作品に通底するメッセージだ。
「私ね、ほとんど過去を振り返らないんだけど、今年“戦後70年”だって言われて自分の年齢を初めて意識したの」と梶賀さん。その活動の原点を訪ねる散策が、ひとつのいのちの原点にも辿りついた不思議。梶賀ワールドに引き込まれたかのような、真夏のまち歩きだった。
掲載:2015年9月15日
- 梶賀千鶴子 かじか・ちづこ
- 仙台市生まれ。宮城学院女子大学日本文学科卒業。劇団四季にて『キャッツ』『ジーザス・クライスト・スーパースター』等の演出補をはじめ、『ユタと不思議な仲間たち』『人間になりたがった猫』『魔法をすてたマジョリン』等の作家・演出家として活躍。退団後は松本幸四郎主演ミュージカル『ZEAMI』、冨田勲オペラ『ヘンゼルとグレーテル』などの演出を担当する一方、1990年、仙台にSCSミュージカル研究所を開設し、新たな創作活動を開始。以来、これまでにSCSで創作したミュージカル作品数は140を超える。現在はSCSをはじめ、七ヶ浜町、一関市、米沢市などで地元ミュージカル団体の育成・指導にもあたっている。2010年、宮城県教育文化功労者。有限会社純クリエイション取締役、宮城学院女子大学非常勤講師、宮城県文化芸術振興審議委員等を務める。