中野栄駅周辺
JR仙石線の中野栄駅前。国道45号の歩道に立ち、高野ムツオさんは「東日本大震災の当日、私は仙台駅からここまで歩いてきまして」と話しはじめた。
2011年3月11日、仙台駅の地下で地震に遭った高野さんは、徒歩で多賀城の自宅を目指した。午後5時過ぎに仙台駅を出発、渋滞の車のライトを頼りに国道45号を歩く途中、中野栄駅前を過ぎたあたりである光景を目にする。「ここから我が家まであと2kmぐらいというところで、車が急に迂回しはじめた。どうしてと思ったら、その先に車がいっぱい横転している。津波に流された車だったんです」
その先は水がたまっていて歩くことができず、高野さんは回り道をしながら夜の10時頃に自宅にたどりつく。多賀城の街を襲った津波は、自宅の約200m手前で止まっていた。震災直後の混乱と不安のなか、高野さんは「自分には俳句を作ることしかできない」と、言葉を五七五の形にしていった。
2011年3月11日、仙台駅の地下で地震に遭った高野さんは、徒歩で多賀城の自宅を目指した。午後5時過ぎに仙台駅を出発、渋滞の車のライトを頼りに国道45号を歩く途中、中野栄駅前を過ぎたあたりである光景を目にする。「ここから我が家まであと2kmぐらいというところで、車が急に迂回しはじめた。どうしてと思ったら、その先に車がいっぱい横転している。津波に流された車だったんです」
その先は水がたまっていて歩くことができず、高野さんは回り道をしながら夜の10時頃に自宅にたどりつく。多賀城の街を襲った津波は、自宅の約200m手前で止まっていた。震災直後の混乱と不安のなか、高野さんは「自分には俳句を作ることしかできない」と、言葉を五七五の形にしていった。
四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と
地震の闇百足(むかで)となりて歩むべし
車にも仰臥という死春の月
これらの震災詠を含む作品が収められた句集『萬(まん)の翅(はね)』は、2013年11月の刊行後高い評価を受け、蛇笏(だこつ)賞など3つの俳句賞を受賞した。「多くの人に共感してもらえた。励みになります」と高野さんは語る。
高砂中学校
高野さんは6年前まで中学校の教員でもあった。そこでこの日は、かつて教壇に立った高砂中学校を訪ねた。約20年ぶりという高野さん、「なつかしい。校舎もまわりの住宅地も変わりませんね」。高砂中への勤務は2年だけだったが、近所のお年寄りから聞いた、学校のそばを流れる七北田川が昔はとてもきれいだったという話や、仙台港周辺の開発のために住み慣れた家を離れた家族のことなどを今も覚えているという。
多忙な教員の仕事と句作との両立について尋ねると、「よっぽどさぼり方がうまかったんだろうね」と笑いつつ、「忙しくて俳句をおろそかにしてしまった時期もあります。でも、同僚から『他の仕事は誰でもできる。でも俳句はあんたしかできない』と言われ、自分は俳句を続けるべきなんだと思いました」と振り返る。学校でも生徒に俳句を作らせた。「最初はいやがるけど、だんだん自己を表現するようになる。そうやってできたものは、子どもたちにとっては宝になります」
多忙な教員の仕事と句作との両立について尋ねると、「よっぽどさぼり方がうまかったんだろうね」と笑いつつ、「忙しくて俳句をおろそかにしてしまった時期もあります。でも、同僚から『他の仕事は誰でもできる。でも俳句はあんたしかできない』と言われ、自分は俳句を続けるべきなんだと思いました」と振り返る。学校でも生徒に俳句を作らせた。「最初はいやがるけど、だんだん自己を表現するようになる。そうやってできたものは、子どもたちにとっては宝になります」
蒲⽣海岸
蒲生海岸へ足を延ばす。ここには、高野さんの師である塩竈の俳人・佐藤鬼房(おにふさ)も訪れて句を詠んだという鰻料理の店があったが、その一帯には枯れ草が深々と生い茂っていた。「すっかり昔の蘆(あし)原に返ってしまったな」と高野さんが呟く。養魚池跡の水辺には水鳥の群れが羽を休めている。「野鳥はみんな戻ってきた。自然界に生きるものは逞しいね」
そんな風景を見ているとさまざまな思いが浮かぶが、それを言葉にすることはむずかしい。そうしてみると、わずか17音からなる俳句という言語芸術のなんと深遠なことか。
「俳句は短い形式だけれども、今あったことを取っておいて後で作ることはできない。自分がそのときに受けたショックであれ感動であれ悲しみであれ喜びであれ、それをその場で五七五に捉えることによって、そのときの思いが言葉のなかに永遠化されるんです」。そうやって生まれた一句が、長い物語をも凌駕する力をもつのだろう。
「俳句は短い形式だけれども、今あったことを取っておいて後で作ることはできない。自分がそのときに受けたショックであれ感動であれ悲しみであれ喜びであれ、それをその場で五七五に捉えることによって、そのときの思いが言葉のなかに永遠化されるんです」。そうやって生まれた一句が、長い物語をも凌駕する力をもつのだろう。
泥かぶるたびに⾓組(つのぐ)み光る蘆春、泥のなかで芽を吹く蘆は、再⽣と希望の象徴だ。この⾼野さんの句を⼼に留め、⽬の前の枯れ野がかがやく季節を思い描いてみる。
掲載:2014年12月20日
- ⾼野 ムツオ たかの・むつお
- 1947年宮城県岩ヶ崎町(現・栗原市)生まれ。父親の影響で10代から俳句を作り始め、俳人・阿部みどり女、金子兜太(とうた)の教えを受ける。古川工業高校卒業後、神奈川で地方公務員として働きながら國學院大學文学部夜間部に学ぶ。大学卒業後は仙台で中学校の国語教員となり、その傍ら句作を続け、塩竈の俳人・佐藤鬼房が主宰する結社「小熊座」に参加。1994年、宮城県芸術選奨、現代俳句協会賞を受賞。2002年、「小熊座」の主宰を引き継ぐ。2014年、第五句集『萬の翅』にて読売文学賞、小野市(兵庫県)詩歌文学賞、蛇笏賞の3つの賞を受賞。現在、現代俳句協会副会長、「河北新報」俳壇選者などを務める。おもな著書に、句集『雲雀(ひばり)の血』『蟲(むし)の王』、『NHK俳句 大人のための俳句鑑賞読本 時代を生きた名句』などがある。多賀城市在住。