インタビュー

技であそび、技を慎む

こけし工人・佐藤 康広

セレクトショップやインテリアメーカーなど、これまでとは違う場で、新鮮なデザインの遠刈田(とおがった)こけしを目にすることが増えてきた。各所で耳にするのは、遠刈田系伝統こけしの工人・佐藤康広さんの存在。こけしに新たな風を、と尋ねると「先輩たちがやってきたことで遊んでいるだけ」と話す。伝統的工芸品の製作者として、先人たちから何を受け継ぎ、今どのように表現しているのか。佐藤さんの工房を訪ねて伺ってみた。

木を切り出すところからはじまる

まずは、こけしが宮城においてどういうものか、こけし工人がどういうお仕事かを教えていただけますでしょうか。

宮城県内には伝統こけしが5系統あって、僕の仕事は、蔵王山の麓の遠刈田(とおがった)温泉に伝わる「遠刈田系伝統こけし」の製作です。「宮城伝統こけし」として経済産業省から伝統的工芸品の指定を受けていて、その製作技術を持った人は、12年以上の経験年数と試験によって伝統工芸士として認定されます。私はまだですが、師である父は長年、伝統工芸士として製作を続け黄綬褒章も受賞した職人です。

工場(こうば)見てみますか? こけしができる工程って、たぶん見たことがないですよね。

ぜひお願いします。表にたくさん木材が並んでいましたね。

これがこけしの原木で、皮をむいている状態です。中にもう1枚皮があるんですけど、それが剝がれると中から白い心材が出てくるので、それでこけしを作ります。よく使用するミズキは、高い山のほうではなくて里の方に生えている木です。谷あいとかに多いですね。5月ぐらいに白い花を咲かせて、棚状に枝を広げます。

お正月に、木にお団子を飾るでしょう。あれもミズキです。新芽が赤く、そこに白いお餅を刺したら紅白になるからですかね。よく、「だんごの木」と言われたりもします。

ここにあるものは樹齢40~50年。僕たちは原木を仕入れるか、自分たちで育てた木を伐採しています。今ここにあるのは師匠である親父が約40年前に植えた木です。

伐採からご自身でなさるのですね。

そうです。植樹からこけしに顔や模様を描くところまで、最初から最後まで全部やります。

これらの木はどのあたりから伐採したものですか?

大倉(おおくら:仙台市青葉区)というところで伐採しています。父は樺太の出身で戦後に仙台市青葉区愛子に引き上げて来て、そこから定義山の奥にある十里平(じゅうりだいら:仙台市青葉区大倉)という地区に開拓で移り住みました。これらの材は、父の兄の山林に植樹させてもらったものです。

この木はどのくらいしたら使えるようになるのでしょうか。

皮をむいて、半年から1年ぐらい乾燥させます。基本的には自然乾燥です。少し濡れた程度で腐るわけではないので、ここ(屋根の下)に置いて乾燥させています。

木を切る時期は決まっているのですか?

決まっています。木工業は大体そうですけど、特殊な使い方をしないかぎり、材料としての木材は冬に伐採します。夏だと虫が入ったり腐れたりして材料としての質があまり良くなくて、秋の彼岸から春の彼岸までの木材がこけしの製作に適しています。

こけしの製作工程は、まず乾燥した原木から頭と胴にあたる部分を「木取り」します。そして、木取りした材を旋盤(せんばん)にかけて円筒状に「荒削り」をします。それを轆轤(ろくろ)に取り付けて、かんな棒とバンカキと呼ばれる道具で削り、頭と胴をそれぞれこけしの形に成形し、表面を紙やすりなどで磨いて仕上げていきます。これを「仕上げ挽き」と呼びます。昔は紙やすりではなく砥草(とくさ)や稲藁で磨いていました。その後、顔や模様を描き再び轆轤に取り付けて、頭と胴を組み立て、木蝋(もくろう:ハゼノキから取れる蝋)を塗って仕上げます。

これらの道具類、治具や刃物は自分で作ることが多いです。かんな棒と呼ばれる刃物も、自分で鍛治作業を行い作っています。

先人たちの引き出しから選び、あそぶ

いろいろなデザインがありますね。これまでのこけしとは違う新しさを感じます。

僕は「新しい」ことをしたいわけではないんですよ。「新しい」ことだけが良いことではないですよね。もちろん古い技術が悪いわけでもない。それらをちゃんと理解した上で組み合わせれば、良いものができるかもしれない。僕は先輩たちがやってきたことでただ遊んでいるというか、別に大したことはしていないんです。

でもひとつ事例を挙げるとすると、セレクトショップの元ディレクターのエリスさんや北村さん(※1)と一緒にこけしを作ったときに、さまざまな文化、工芸の技術やファッションとの出会いがあっておもしろかったですね。

※1 テリー・エリス、北村恵子:セレクトショップ『BEAMS』におけるデザインとクラフトの橋渡しがテーマのレーベル『Fennica』の元ディレクター、バイヤー。佐藤さんとのコラボレーションで『Indigo Kokeshi』を企画・販売。現在は東京・高円寺にてセレクトショップ『MOGI folk art』を営む。

どのようなおもしろさがあったのでしょう。

たとえば色に関して言うと、お二人に「こけしって、青いものはないの?」と聞かれたことから生まれたこけしがあります。宮城県には藍染めをやっていた人間国宝の千葉あやのさん(※2)がいらっしゃいましたでしょう。今はお孫さんが受け継いでいますが、栗原市十文字地区で「正藍冷染(しょうあいひやしぞめ)」(※3)という日本最古の染色をされています。この、宮城県に古くから藍染めの技法が残っていることをヒントに作ったのが、藍で描いた『Indigo Kokeshi(インディゴこけし)』です。

自分なりに藍染めを学んで、藍で模様を描いたこけしを作りました。もちろん最初からうまくはいかず、悩みながら藍と向き合う中で、だんだん濃い色で描けるように安定してきました。こけしの模様は筆で描くのですが、習字と一緒で、あまり筆を重ねるとよくありません。習字では二度筆といったりしますね。一筆できれいに描けるように、藍色を濃く出すまでには時間がかかりましたね。

※2 千葉あやの:1889年-1980年(享年90) 重要無形文化財「正藍染」保持者。宮城県栗原郡に生まれる。幼少より機織りに優れ、1909(明治42)年に千葉家に嫁いでからは、姑から三代目として藍染めの技法を伝授された。1955(昭和30)年「正藍染」の伝承者として、重要無形文化財技術保持者に指定された。

※3 正藍冷染:宮城県栗原市の千葉家が伝承する、現存する日本最古の染色技法で、藍を栽培し、自然発酵させて染色を行う草木染めの一種。

色を作るところから。

ほかに、紅花からとった紅の色でこけしを描くこともやりました。地元では古くから紅花の産業があります。天然染料であり反応染料と呼ばれる“紅花からとれる紅の色”に興味がわいて、東北歴史博物館の学芸員の方から教えていただいたりしました。紅花の紅餅(染料の元となる紅花から加工された素材)からこけしに描ける染料を得られるか試行錯誤していたとき、2019年12月に山形の東北芸術工科大学で紅花を“顔料化”するという特殊な方法で色を作っている柳田哲雄先生をお尋ねし、先生の作った紅の顔料を使ってこけしを着色させていただきました。その後、製品化する際には実際に最上紅花という紅花の栽培から紅餅を作るところまでを、工房の隣の畑で経験してみました。紅花の若葉はおひたしやサラダ、天ぷらなどで食べたりすることもできるんですよ。

これ、見てみてください(下写真参照)。これが紅花の顔料で描いたものなんですが、すごく濃いところと薄いところと差があるでしょう。特にこの頭のところ、花びらみたいに見えませんか?花脈みたいに。技術的な部分もあるかもしれませんけど、ただの筆筋になる場合と、こんなふうに花脈のように見えたりする時があるんです。現在使用している合成染料(こけしには古くから食紅などの合成染料が用いられてきた)は安定した綺麗な色ではありますが、紅花でできた色は、経年の変化も異なるのがおもしろいです。科学的に精錬され安定した染料では表現できない「ゆらぎ」のような表情が感じられます。天然の色、紅花の顔料の一つの特徴なのかもしれません。(※4)

※4 紅花の栽培は現在隣県の山形が有名で日本一の生産量を誇るが、古くは宮城県でも現在の川崎町あたりで生産されていた。(東北歴史博物館蔵「当紅花貫目覚書帳」より)また紅花の有用性は染料や薬、口紅など幅広い活用がなされてきた。

自分の手で色を作り出すと、色に対する意識が強くなりそうですね。

そうかもしれません。でも、そうやって絵付けしたものを特別視するわけではないですよ。僕がやりたいからやっただけなので。そのような工程を経たことを、見る人に押し付けたくはないです。

その手間、伝統的な素材や手法で色を作ったということを買い手に押し付けたくはない、と。

そうですね。もしかすると日本人って、「伝統」という言葉に左右され過ぎてはいないでしょうか。伝統という言葉を持ち上げ過ぎていて「もの」自体を見ていないのではないかと感じる時があります。日本の伝統工芸という括り方だと“〇〇焼”とか“〇〇系”とか、産地ができあがったものの名前になっていることが多いですよね。技術に対してというより、ものに対して名を与える。それはそれで伝統工芸品という「もの」は残りやすくなるかもしれないけど…。もしかしたら「伝統工芸」という言葉だけが形骸化してしまうようなことが起こっているのではないかと。僕らがものを作るときは、世の中に対して訴えるようなものを作らなきゃいけないというのは前提で、職人さんはみんなそれを意識していると思うんです。

こけしが生まれた時代から今まで、世の中は変化していて、環境や食べ物の変化であったり、僕であればバブル経済後の不景気であったり東日本大震災も経験しています。様々な世の中の変化を経て作りだすものが昔と変わらなかったら、逆におかしいですよね。伝統を守りましょうと言っても、刻々と時代が変化する中で「じゃあ何を守ればいいんだろう」と。たとえば箪笥だって、昔のようにほとんどの人が使うかというと、今はそうではないですよね。戦後は洋服を着る人が増えて和装の文化は一般的にはほとんど見られなくなりました。正装や浴衣など、着ること自体が無くなったわけではないですが、昔は普段着から作業着、それこそ生活に合わせて着方、素材、地域性は今よりも多様にあったはずです。

佐藤さんは海外に工芸の研修に行かれたこともありますが、海外だとどのように伝統工芸が受け継がれているのでしょうか。

たとえばドイツには「マイスター制度」というものがあって、職人の育て方、伝統の受け継ぎ方や時代に即したものづくりの考え方が社会に定着しています。お菓子職人であれば、マイスターに付いて伝統的な「シュトーレン」というケーキの作り方を必ず教わって、その技術を基に次の時代に何を作っていくのかを考えるという合理的な思想があります。

しっかり伝統的な技術を担保しながら、時代に合わせて発展させる。積み上げてきた技術を反故にしたりはしないんですよね。僕は2011年にドイツで美術と工芸の研修をさせていただいたのですが、工芸の博物館を訪れた際、学芸員の方が「この博物館は歴史あるものはもちろん、現在の作り手のものも所蔵し続けています。ここは現在の職人が昔の技術や造形、その変化を学ぶ場所でもあります」と案内してくださり、過去と今が地続きで技術が継承されていることに感銘を受けました。でも日本は、伝統工芸というのはできあがったものの呼び名になっているので、それを作る過程と技術への評価が乏しくなってきているところがあるかもしれないと感じます。

たしかに、伝統工芸品を「もの」として認識はしても、どういったところが伝統なのか、どういった技術が使われているかはわからないことも多いです。そして、「伝統工芸品」と聞くと今の生活と線引きがされてしまう気もします。「使う」ものというより「飾る」ものという感じがするというか…

「伝統工芸品」と聞くと、急に日常と切り離されちゃいますよね。僕が藍とか紅の色を作るところからやってみたというのは、自分にとっては意味のあることだと思ったからですが、だからといって「膨大な時間をかけて作ったから良いもの・価値あるもの」というのは違いますよね。だから、苦労したとか時間をかけたっていうのは、僕は言いたくないんです。逆に、苦労してないですって言いたい。時には、いかに手数を減らすか、短い時間でより多くこけしを作れるかを考えますし。

手数の多さ、費やした時間の多さだけが重要ではないと。

昔から受け継がれてきた技術を生かしながら、いかに生活の中でものづくりをしていくかも考えないと、本当の意味で残っていかないですよね。

芸術家の作品づくりとはまた違うのですね。

職人さんの仕事って、年月をかけて積み上げられてきていることなわけです。これまでの職人さんがずっとやってきたことであって、僕はただ、昔の人が作った引き出しを開けてみている。おもしろいものがいっぱい詰まっているのを見つけるのが楽しいんです。自分の仕事に限ったことではないですが、ふと「こうしたらもっと良いかもしれない」なんてアイデアが浮かんだりしますよね。もちろん、それを試したら「あれ、やっぱりダメだったな」となることも多いのですが、そこから「そうか、きっとこれまでも同じようなことが試された上で、今の形になったんだな」と気付きます。

きっと何百人もの職人さんが、何千個、何万個とこけしを作り、時には何十年も同じように作業をしていく中で、同じ体験をしていたんだろうなと気づける時があるんですよ。「だから今の形に出来上がったんだ…!」と腑に落ちるというか。その中で、何らかの理由で使われていなかったり、途中で諦めたかもしれない技術の片鱗を見つけたりすると、「これって今ならできるんじゃないか?」と思って試してみたりもします。おそらくこれまで膨大な量の失敗や、あと一歩といった試行錯誤の積み重ねがあって今のこけしができていて、文献や言葉に残っていないものもあるんだと読み解けるときがあるんです。先達も同じ人間で、昔から変わらずに同じ作業をしていて、同じ「手」を使って作っているし、同じ時間や景色を見ているはずだと想像すると、これまでの歴史とつながれるような感じがするときがあります。伝統工芸の良さはそこにある気がしますね。両手いっぱいでも収まらない、これまでのみんなの引き出しがあるんですよね。

先人が作ってくれた、たくさんの引き出しが見える場所に居るということですね。

伝統工芸品に関しては、「伝統」という言葉が付くがゆえに特別視されますが、こけしには他の人形と違って、誰が見ても「こけし」とわかるくらい先人たちが積み上げてきた様式があります。こけしを作る道具にだって、先輩たちが築いてきた有用性がありますしね。だから、それを無駄にしないようにうまく生かしつつ、いかにより良いものを作るかということを考えられる時代に、僕はいます。どんな職業でも、先輩たちの技術を組み合わせたり引き出しからヒントをもらったりしながら、その上で自分のやり方を見つけると楽しいですよね。機械にはできないような、そういう手をみんな持っているんですよね。

技を慎む

師匠であるお父様からはどんなことを教わってきたのでしょうか。

親父はね、かっこいいことを言うんですよ。「何を作ってもいいぞ、でも全部、遠刈田系のこけしになるように作れな」って。それって、考える頭がなかったら今あるものを模倣して作ればいいし、考えるんだったらちゃんと遠刈田系を考えて作れということかなと。難しいですけど、ちょっとずつ遠刈田系をひも解きながら、自分の作り方を考えています。僕の中では、遠刈田系の根っこが間違っていなければ時には逸脱しても良いのかも…とか考えながら、向き合っています。

お父様の寛容さと、でも1本芯の通った姿勢が素敵ですね。

あと親父がよく言うのは、「どうだ!みたいな仕事をするな」と。轆轤は難しい顔して挽くな、涼しい顔してやれと言うんですよ。プロは当たり前にちゃんとやれる技術を持つ人であって、無駄に得意げになってものを作らない。つまり、「技を慎みなさい」ということなんですよね。それは、あそこ(下の写真)に掛けてある人間国宝の川北良造さん(※5)が書いた守則にも同じようなことが書いてあります。2番目に「技慎(技を慎む)」ってありますよね。

※5 川北良造:石川県出身の木工芸家。重要無形文化財「木工芸」保持者。木工芸の人間国宝としては5番目の認定者(1994年認定)。

佐藤さんが思う、こけしづくりのおもしろさってどういうところでしょうか。

それは、あえて言わないです。僕だけがおもしろいと思っていればいいかなと思うので。こけしって人形だから、手に取る人にはフラットな気持ちで見てもらいたいというのもあります。何か訴えるものがあればいいなと思いつつ、それを汲み取ってもらうことをお客さんに求めたくはないなと。自分が楽しいからやってることでもありますから。自分が素材に対してちゃんと向き合って考えて作っていれば、自分自身がやっていておもしろいし、いつか誰かもおもしろがってくれるんじゃないかなと。

誰かが100年後にも青いこけしを作っていれば、僕が間違いじゃなかったということだし、そうなるようにしなきゃなと思ってやっています。青いこけしを作った時もそうなのですが、震災後、たくさんの方に支えていただいて今の仕事が続けられています。いつか恩返しができるよう、良いものを作れるようにこれからも頑張っていきたいと思っています。

掲載:2023年3月1日

取材:2022年11月

取材・原稿 岩本理恵(株式会社ユーメディア)/撮影 寺尾佳修

佐藤 康広 さとう・やすひろ
青葉区芋沢出身。「仙台木地製作所」遠刈田系伝統こけし工人、木地師。父・正廣が師匠。高校卒業後、サラリーマンを経て34歳のとき退職し父に付いて木地の修業を本格的に始める。2010年から木地製品を製作、同年10月頃よりこけしも製作して発表。2011年「美術と工芸」研修に参加。ドイツのベルリン、ミュンヘン、ドレスデン他を歴訪し、工芸を視察。2012年から「れきみん秋祭り」(会場:仙台市歴史民俗資料館・榴岡公園)で製作実演。2013年日露若手工芸品作家交流プログラムにてロシアを訪問。ニジェゴロド州他の工芸品工場を視察。2017年「TOHOKU GIRLS」ライデン市(オランダ)のシーボルトボルトハウスにて彩色の実演。2017年「BEAMS japan-pop up store」イギリスロンドンのハーヴェイ・ニコルズにて轆轤実演。