連載・コラム

仙台のたてものと石

内山 隆弘(東北大学 施設部キャンパスデザイン室 専門職員)

建築物は様々な材料を用いてつくられますが、なかでも石は大地をつくる材料でもあり、建築とそれが建つ土地との関係が強く現れる要素ではないでしょうか。現在の街中のビルは多くが輸入石材を使っています。遥か遠い国から運ばれた石にも魅力がありますが、一方でその土地固有の建築文化を考えるには、主に国産の石が使われていた昭和前半頃までの建築を見るのが良いと思います。仙台においてどのような石が使われてきたのかを、これまでに調べた石材からご紹介します。

仙台のローカルストーン

 まずは、仙台の街に最も近い場所で採られた石を見てみましょう。それは市街地西郊の丘陵地、国見や八幡地域に分布する三滝玄武岩(みたきげんぶがん)という黒い石です。仙台城の石垣に用いられ、採石地からお城までの経路上には、「唸り坂(うなりざか)」や「牛越橋(うしごえばし)」など、石材搬出にまつわる地名が残されています。

仙台城本丸北壁石垣

 この石は明治期の建築工事の記録にも八幡7丁目付近の地名をとった「放レ山石(はなれやまいし)」などの名称で出てきます。例えば、初代の仙台市役所(明治18年完成。以後完成年を明治の場合は(M18)、大正の場合(T5)、昭和の場合は(S5)のように示す)でも、基礎や玄関縁石などに使われました。また宮城県内に現存する洋風建築では最古のものである旧第四連隊兵舎(M7、現 仙台市歴史民俗資料館)の基礎には、仙台城本丸の石が転用されたといわれています。

旧第四連隊兵舎(M7、現 仙台市歴史民俗資料館)
基礎部分に仙台城本丸の石が転用されたといわれている

 幕末〜明治初年頃の記録である『仙台領鉱物調』に記された領内各地の採石地からの運上金を集計したところ、硬質の石の産地を意味する「石山」のカテゴリーでは、全体の2割の額を三滝玄武岩の産地が占めていました。それらを挙げると、荒巻村の「離山(はなれやま:前述の「放レ山」と同じ)」や「山屋敷(やまやしき:現在のJR国見駅付近)」など、郷六村の「火面沢(ひつらさわ:現在の葛岡霊園の北東側を流れる沢)」、吉成(現在の吉成付近)でした(ちなみにダントツの一位は稲井石(いないいし)の産地で、「石山」全体の4割弱を占めていましたが、これについては後述します)。 このことからも三滝玄武岩は仙台のまちづくりを支えるため盛んに利用されていたと言えそうです。仙台城の石垣のみならず、旧城下の古い通りに残る石垣、あるいは戦後開発された住宅地の間知石(けんちいし)擁壁などを見ると、この黒い石の風景は仙台の特徴の一つではないかと思います。

 さて、この石はどのように生まれたのでしょうか。今から1500万年ほど前に日本列島の地殻がユーラシア大陸から別れた後、東北地方は複数の島の集まりのような状態でした。その後、激しい火山活動の時代が訪れ、噴出物が海を埋め立てていくとともに、多くのカルデラが形成されました。三滝玄武岩はおよそ800万年前に現在の蕃山(ばんざん)や権現森(ごんげんもり)付近で噴出したと考えられていますが、当時ここを東の縁として、直径20kmにもおよぶ巨大なカルデラ「白沢(しらさわ)カルデラ」がありました。その外輪山から流れ出た溶岩が三滝玄武岩なのです。

 白沢カルデラはもう一つ仙台のたてものに重要な材料を生みました。それはカルデラ形成期に噴出した火砕流が固まった凝灰岩である秋保石(あきういし)です。大正3年に秋保石材軌道が開通し、大量の石材を仙台の街中に運ぶことが可能となりました。国分町に残る「志ら梅酒造」石蔵(T3)の他、片平地区に残る東北大学や東北学院大学の建物に多く使用されています。

旧仙台高等工業学校建築学科(S6)秋保石が使われているのは腰壁の部分

仙台領を代表する石

 以上は現在の仙台市域から採られた地場の石ですが、より広く旧仙台領を代表する石は、やはり先に少し触れた稲井石(いないいし)でしょう。例えば西公園を歩くと巨大な石碑が林立し、碑文が先人の偉業を伝えています。この石は石巻市の北上川河口近くで採れることから、全国に船で送られていました。また大きな材が採れること、表面が硬く文字を刻みやすいことなど、石碑の材料となる特質を備えていました。

 この石の生い立ちは、2.5億年前の赤道付近の古太平洋上に遡ります。そこに浮かんでいた大陸片(南部北上古陸)の周囲に堆積した泥と砂が固まったものなのです。同じく南部北上古陸周囲の堆積物としては、雄勝(おがつ)や登米(とめ)の玄昌石(げんしょうせき)がありますが、これはさらに古く、3億年前に遡ります。日本列島でこのように古い大陸の痕跡が見られる場所は限られています。北上山地の南部をつくるこの大陸片の存在が、巨石を立てるランドスケープの生みの親なのです。これは古くから行われており、澱橋(よどみばし:仙台市青葉区)近くの澱不動尊にある市内最古の板碑(文永10(1273))や、仙台の三大石鳥居の一つに数えられる亀岡八幡宮(仙台市青葉区川内亀岡町)の鳥居(天和3(1683))も稲井石でつくられています。

亀岡八幡宮石鳥居(天和3(1683))

白い洋風建築をつくった花崗岩

 さて、古太平洋上に浮かんでいた南部北上古陸はその後北へ移動し、1億年前にはユーラシア大陸の縁にくっついていました。大陸の縁では、プレートの沈み込みに伴いマグマが生まれ、それが地殻内に上昇してマグマ溜まりができます。それが冷えたものが花崗岩体(かこうがんたい)であり、仙台の近辺では北上と阿武隈の両地域に存在します。明治時代に白い洋風建築が理想とされましたが、そこで活躍するのがこれらの花崗岩です。芭蕉の辻(仙台市青葉区大町)に建てられた七十七銀行(M36)、日本初のコンクリート橋とされる広瀬橋(M42)には、ともに盛岡産の花崗岩が使われました。

 一方、仙台城本丸跡に建つ昭忠碑(M35)では、その仕様書に丸森産の上等品を使うよう指示があります。丸森の石は国会議事堂建設のための全国的な石材調査の記録をまとめた『本邦産建築石材』(大正10年刊行)にも記載があり、東北地方の花崗岩産地としては最も大きな産出量が記されています。また、明治25年の大橋の架け替えの際は、その前年の洪水で被災した舘矢間村(たてやまむら:現在は丸森町の一部)の住民から県へ宛て、大橋に使うための石材の買入願が出されており、被災して困窮した村を救うためにその土地の石を役立てようとしたことが分かります。

昭忠碑(M35)

 丸森の石は阿武隈川を下って岩沼駅まで運ばれましたが、河川での石材搬出は水量にも左右され不安定さを抱えていたようです。そのような中、鉄道を使い全国的な石材になった花崗岩があります。茨城県の稲田石(いなだいし)です。明治30年に水戸線稲田駅と産地が直結したこの石は、首都圏のみならず、仙台でも多く利用されています。例えば、大町の藤崎に向かい合った明治生命館(T9)は白いロマネスク風の外観が特徴的でした。また現在の大橋の親柱(S13)の白さも象徴的です。もっと新しい例では青葉通に立つ七十七銀行本店(S52)の外壁に大量に使われています。

大橋の親柱(S13)

 明治期に理想とされた白い石ですが、その色の好みはやがて多様化していきます。たとえば伊達政宗騎馬像の台座(S10)にはピンク色の花崗岩が使われていますが、これは岡山県の万成石(まんなりいし)です。このように交通網の発達により石材はいろいろな場所から運ばれるようになりました。

東北への入り口の石

 さて、もう一つ仙台でよく見るものに白河石(しらかわいし)があります。青葉神社境内の昭和初期の石造物にも多く見られ、新しいものでは宮城県美術館(S56)の石垣にも使われています。

青葉神社の石塔(S4) 

 よく見ると、白っぽい中に長さ数センチの黒い筋のような模様があります。この石は、火砕流の堆積後にその熱によって再び溶けて固まったもので、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)と呼ばれます。黒い筋は火山ガラスなどが押しつぶされたものです。この石が採れるのは福島・栃木県境付近、まさに東北への入り口に分布しています。生まれたのはおよそ100万年前で、これまで見てきた石の中ではひときわ新しく、「人類の時代」とも呼ばれる第四紀の石です。脊梁山地から流れ出たこの石が東北本線の経路上に分布したことで、仙台にも多く運ばれたのです。

石材から見える大地の生い立ちと石の一生

 以上に挙げた石から見えてくるのは、仙台周辺の大地の生い立ちです。およそ3〜2.5億年前の海に浮かぶ大陸片の時代(玄昌石・稲井石)、1億年前の大陸縁にくっついていた時代(阿武隈・北上などの花崗岩)、その後大陸から別れ小さな島の集まりになった時代を経て、その海を埋め立てるように活動した巨大カルデラの時代(秋保石・三滝玄武岩)、そして現在の脊梁山地をつくる新しい火山活動の時代(白河石)と、街なかの石は大地の記憶を語っているのです。

 最後に、人間による建設行為は、地球の歴史のなかでどのような意味をもつでしょうか。例えばマントルから生まれたマグマは火成岩となり、やがて風雨で砕屑され、それが海へ運ばれて堆積岩となり、プレートの活動とともに再び地中へ運ばれるという長大なサイクルがあります。この中で人間の活動は、砕屑(採石)→運搬→堆積(建設)→砕屑(解体)→運搬→堆積(埋立等による処分)を猛スピードで進めることで、大きなエネルギーを消費し、様々な負荷を環境に及ぼしています。この速度を緩め持続可能な営みとするには、街中の建物を長く大事に使い、資材の貯蔵庫として機能させていくことではないでしょうか。そのとき建物は人為による堆積物として地質的な意味をもちます。都市環境中の石材を地質学の対象として観察する活動は「アーバンジオロジー」と呼ばれます。高度成長期のビルのロビーに素晴らしい模様の石灰岩が使われているのを見ると、膨大な時間をかけて生まれたこの石を、少しでも長く使って欲しいなあと思います。もし解体がやむを得ない場合でも、石という部材は転用しやすいものではないでしょうか。明治の時代には、先に触れた旧第四連隊兵舎の基礎の例をはじめとして、多数の転用事例があります。私の身近なところでは、東北大学川内キャンパスで撤去されることになった、三滝玄武岩と考えられる擁壁の石が、八木山の金剛沢市有林内に地域の方が手作りで整備している「八木山テラス」において、段々状の花壇の石垣に再利用された例があります。このように地球の歴史と人間の営みの歴史を同時に語る石を大事に使っていきたいものです。

八木山テラスの段々花壇
※写真はすべて筆者撮影

掲載:2025年10月29日

内山 隆弘 うちやま・たかひろ
大学では建築学を学び、その後母校のキャンパスの広場や建物の整備計画を検討する部署に勤務する。そのかたわら、大学キャンパスの所在する青葉山と竜の口峡谷を挟んで隣接する八木山を結ぶ散策路を、両地域の住民たちと協力して開発する「青葉山・八木山フットパスの会」の事務局を担当する。2020年には会のメンバーとともに『青葉山・八木山フットパスガイドブック 青葉城奥の細道』を出版。その活動を通し様々な分野の専門家と出会い、地域の価値の再発見に繋がるような知識を教えていただく。なかでも地質学の知識が、建築学と組み合わされることで生まれる価値に興味をもち、調査を行っている。東北大学の近代建築の石材についての調査報告2篇(共著)が東北大学総合学術博物館紀要No.19(2020年)に掲載されている。