事業名:【2024年度持続可能な顔料とメディウムの開発】Foraged Colors for CMYK in Sendai/オフセット印刷機への実装実験/活版印刷機での印刷サービス開始に向けた試験/他用途の研究開発 団体名:YUIKOUBOU 活動期間:2024年6月24日から2025年3月16日まで 参考URL:https://ssbj.jp/support/grant/report/13362/ |

色の倫理
息子が絵を描いているのを見るのが好きだ。8歳となる彼は、家で好きなおもちゃやら怪獣やらをけっこうよく描いていて、それは色鉛筆で塗りつぶされた背景の上に鉛筆書きで線を描くことから始まるのが少し変わっている気がする。「見るな!めんどくせ~」と叫びつつ塗り続ける彼に、それなら白いまま描き出せばいいのにと思うが、修行僧のようにして一生懸命塗り続ける彼の仕事を邪魔することもないと思い、いつも黙っている(そしてこっそり横目で見ている)。色鉛筆が足りなくなったら近所のショッピングモールに入っている文房具屋さんに買いに行く。ある日オレンジ色が足りなくなって買いに行ったときに「おや」と思った。買おうとしている色鉛筆のオレンジは、彼が塗っていたのとだいぶ色の感じが違う。聞けば彼は色鉛筆そのままの色では満足できずに自己流に描き合わせて、自分にとってのオレンジ色を塗っていたのだ。こだわっていてスゴイ!そう思うとともに色を自分なりに感覚することの困難について考えることになった。
色とは、本来なら見る人、塗る人の感じ方次第で千差万別、一人ひとり違うものであって然るべきだろう。だが実際は既成の色鉛筆という商品から色を選び出し、用立てることが多いように思う。それは自分なりに色を感覚していると言えるのか。それが悪い、とまでは言わないが、ここではRGBなりCMYKなりといった基本となる色の、配色パターンの組合せで様々な色を組合せていくわけで、それはどこまでいっても配色パターンを設定した画材メーカーなりアドビのような世界のデザイン系巨大企業なりの思惑の中で色を生み出し続けることであり、そのような色を増やせば増やすほど、企業の生産競争に参画することになる可能性がありはしないか。それは本当に色を色として感覚できたことになるのか。別の思惑に搦めとられているのではないか。そう考えるとなんだか面白く、ない。そもそも色とは何なのか。絵画のメディウムであるとともに、それ以上の意味が同時に含まれているとしたら、それはどのようなものか。人が自ら生きて、成長していくプロセスに色を見つけること使うことをもっと有機的に関連づけて、生きることを自分なりにドライブさせる動力としての色の可能性を位置づけていきたい気がする。しかしそれはどのように見つけることができるだろうか。

YUIKOUBUによる活動「持続可能な顔料とメディウムの開発」の中にその答えにたどり着くための一端があるような気がする。本事業は奄美大島で大島紬を、その後に織と草木染めの技術を習得し、工房のある宮城県内を拠点に「自家用布を作る技術」をフィールドワークしながら布と色にまつわる技術の可能性を探求している染色家・吉田信子とデザイナー・吉田勝信が主導する「Foraged Colors」というプロジェクトとして推進され、「採集された色」という名称が示すように「海や山から採集した素材で『色』をつくり、現代社会に実装すること」を目的としている。なんだそれは、最高ではないか。勝信氏による助成申請のための事業計画書に付せられた「製造機械やその工程などの仕組み自体は変えずとも、そこに流すもの、作る物を変えると、その上にのっかっている社会へ影響し、全体が変化していく」という考え方が軸になっている点も素晴らしい。世界の国々の多くは定住と定住を前提とした農業システムを礎としており、自然資源を資本として人間の一集団における経済活動の中に囲い込み、富として殖やしていくことが目指される。しかし経済活動において内側だけで完結するものはなく、つねに囲い込みの外部から資源を供給しながら増産のサイクルは動いていくもので、そこでは搾取と被搾取の関係、経済活動の限界に苛まれることになるが、YUIKOUBOUは身の回りの草木に由来する染めの技術の伝統でもって現代の印刷技術をドライブさせるメディウムにしようと試みる。言い換えれば自らの足元を見すえ、自らの手わざを扱いなおすことを通じて、地域資源を囲い込むのではなくひらくことから、上記の限界を漸次的に超克しようとする。これは顔料制作の現場を見に行くしかない…! 2025年3月、筆者は吉田信子の工房であり自宅でもあるYUIKOUBOUを訪れた。様々な木や植物にあふれたその庭は、縁があって植えられたものが多いが、鳥が運んできたものもあるという。わくわくする庭だ。クルミやキハダ、ツバキ等々。採集した植物が顔料になる過程はそもそも染料化するうえで失敗したものであるという。ある産業に最適化させることから失敗という形でこぼれおちたもの、いうなればオルタナティブなメディウムとしての可能性が顔料には宿っていたということではないだろうか。顔料は乳鉢で細かくすりつぶされ、溶剤で調整されて印刷機械に載せられる。「基本は手作業。指紋と指紋の間に入るくらいまで細かくするのが一つの目安です。」という顔料準備の工程は、複雑に機械化デジタル化された印刷工程を人の手のうちに取り戻そうとする。印刷機械でのオフセット印刷の実装実験では印刷部数も徐々に伸びているという。産業ベースに乗り入れるには予測不能の要素も多いものの、採集物による持続可能な顔料メディウムをもとに人の手と印刷機械を絶えず往還する「Foraged Colors」プロジェクトは採集~加工~印刷の過程でより多くの人と仕事をシェアすることができる点も好ましい。プロジェクトはその全体を通じて地域の文化~社会生態系に履歴現象的な変容をもたらし、経済活動を血の通ったものにしてくれるだろう。その地域にしかないものを素材に色をつくることが地域社会を動かす倫理の実行形式となること。色を作り出すことが(よりよく)生きることに寄与する可能性がここにある。

息子に今日見てきたもののことを話してみよう。乳鉢を差し出してみよう。すぐ近くの公園から木の枝やら葉っぱやらを拾ってきた彼はたぶん「見るな!めんどくせ~」と言いながらすりつぶしてくれる気がする。色と向きあうことを無自覚に行う彼は既にそのための予行練習を済ませているはずだからだ。そしてそのような色についての感覚と実行力は、かつて彼と同じように子どもだった私たちにおいても同様にひそんでいる。この地域にしかない色を携えて生きるべき世界へと向かう動力のようなプロジェクトのますますの発展を願いつつ、青森でも引き受けて展開できることはないか、妄想的構想がむくむくと湧き上がってきているのを感じる今日この頃である。