連載・コラム

政岡棚と芹沢銈介

濱田淑子(宮城県民芸協会 顧問)

政岡棚との出会い

 宮城県美術館の嘱託学芸員(工芸担当)として仕事をしていた43年も前の話です。
 当時、館は染色家・芹沢銈介(せりざわ・けいすけ)作品13点を所蔵していて、展覧会開催等に備える作品調査のために仙台市にお住まいの芹沢長介先生宅を訪ねました。先生は芹沢銈介の長男で、当時は東北大学文学部考古学研究室の教授をされていました。
 応接間に入るなり、美しい貝殻で縁取られた棚が眼に入りました。
 「先生、こちらの家具は李朝(りちょう/朝鮮王朝)の螺鈿(らでん)細工の飾り棚ですか?」と、あいさつもそこそこに質問しました。自信をもって発した言葉のつもりでした。
 先生の答えは「これは仙台の政岡棚(まさおかだな)ですよ」「仙台の骨董屋でよくみかける」と。
 初めて見て、知った知識でした。

 私は、それから数年後には芹沢銈介美術工芸館開館準備のために東北福祉大学に勤務し、芹沢銈介に深く関わることになるのですが、政岡棚は銈介が気に入ってコレクションに加え、2点が静岡市立芹沢銈介美術館の所蔵品(図1,2)になっていることを知りました。
 私が「李朝の棚」と間違った長介先生蒐集(しゅうしゅう)の政岡棚は、現在、東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の所蔵品となって、時折、展示公開されています。

図1 政岡棚 静岡市立芹沢銈介美術館所蔵
図2 政岡棚 静岡市立芹沢銈介美術館所蔵

芹沢銈介とコレクション

 芹沢銈介(1895~1984)は型絵染の人間国宝として日本を代表する染色家でした。30代前半に、民藝運動を展開していた柳宗悦(やなぎ・むねよし)に出会ってその思想に共感して、導かれるように、型染の手法を最大限生かした膨大な作品を制作しました。柳とともに目指したのはこの世を「美の浄土」にすることでした。その実現のためには暮らし全体を美しくしなければならないと考えたのです。着物、帯地、のれん、壁掛け、屏風(びょうぶ)、軸絵、額絵などのおなじみの作品はもとより、1955年には芹沢染紙研究所を設立して作品の量産体制を確立し、カレンダーやうちわ、扇子、絵はがき、グリーティングカード、包装紙、マッチのラベル、蔵書票などを広く世に贈りだしました。その仕事は求められるままに絵本の制作や本の装幀(そうてい)、店の看板、緞帳(どんちょう)、建築設計デザインまで及び、さらには全国各地の伝統的手仕事のデザイン指導にも携わりました。
 彼のものづくりは常に日々の暮らしを豊かにすることにあり、「生活美のデザイナー」と呼ばれるのもうなずけるところです。

 作品制作だけではなく、銈介は、世界各地の民族が暮らしの必需品として生み出し、用いていた工芸品のコレクターとしても知られています。
 20代のころから矢立てや小絵馬の蒐集を始め、残念ながら戦前のものは焼失しましたが、戦後蒐集したものだけでも5,500点(※1)を超えるほどです。
 晩年の79歳の折に「天満屋 岡山本店」で開いた「芹沢銈介の五十年―作品と身辺の品々―」展のインタビュー(※2)で、「コレクションといわれるとおこがましいのですが、いつの間にか雑多なものがたまってしまって、私はデザイナーとしての目でものを見、いつもそのものをつくった人と勝負しています。してやられた、自分が思いもつかなかった型やデザインだ、などと思うものは買わざるをえないのです」と語っています。
 コレクションにはこのような彼独自の審美眼という筋が通っていて、「芹沢銈介のもうひつの創造」とも称されています。

(※1)1981年に静岡市立芹沢銈介美術館に4,500点余を寄贈、それ以後蒐集した1,000点は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館が所蔵。
(※2)山陽新聞1974年10月30日付

銈介と白洲正子

 銈介はコレクションをしまい込んでおくのではなく、日常生活の中で使っていました。季節に応じ、来客に応じて展示替えを楽しみつつ、いつも好きなものに囲まれて暮らしていたのです。
 1977年、『かくれ里』『西行』などの著作があり、日本美を発掘し続けた随筆家・白洲正子(しらす・まさこ/1910~1998)が東京都蒲田区の芹沢銈介邸を訪ねてきました。正子は、その時の様子を『文藝春秋デラックス』に「芹沢銈介の蒐集」と題して次のように記しています。
 「蒲田のお宅を訪問したのは、小春日和ののどかな午後であった…。障子をあけたところすぐ客間で古い家具と新しい椅子、民芸とそうでないものが、みなところを得てしっくりとおさまっている。…物はただ美しくありさえすればそれでいい。時代や作者を気にするものは自分の眼に自信のない証拠かもしれない」
 骨董店で見つけ魅了された屏風を、ためらううちに銈介に先に買われてしまうなど、ほしいものを競い合うことが何度か重なった二人。銈介の「ただ美しくありさえすればいい」という蒐集態度に感じ入って、自宅を訪ねたのでした。
 その折の、美について語り合う二人の写真(※3)が残っているのですが、応接間には蒐集品が並んだ政岡棚が写っています。
 白洲正子が来宅するというので、銈介は彼女が興味を示しそうなとっておきの品々をしつらえたのでしょう。正子は政岡棚に対してどのような言葉を発したかは分かりませんが、なによりのもてなしになったに違いありません。
 他にも、愛蔵していた張り子の三春人形群を政岡棚に飾った写真が残っています。
 仙台の政岡棚は芹沢銈介の眼にかない選ばれ、暮らしの中で愛用されたコレクションといえるでしょう。

(※3)『文藝春秋デラックス 芹沢銈介の世界』1978年8月 

わが家の青貝塗棚(政岡棚)

 芹沢銈介美術工芸館が開館して10年を経たころ、「骨董店に、政岡棚と同じ青貝をはめ込んだ棚が出ているから手に入れておいたほうがいいよ。美術工芸館のコレクションにするほどのものではないけど」と長介先生に勧められ、早速購入したのが硝子(がらす)戸がついた青貝塗(あおがいぬり)の棚(図3)です。現在はわが家の客間に置いて気に入った品々を納めて使っています。

図3 青貝塗棚 濱田淑子所蔵(撮影:寺尾佳修)

 東北工業大学名誉教授の庄子晃子さんが『仙台市史 特別編3 美術工芸』(1996年)の「木漆工・金工」に青貝塗について紹介しています。それによれば、仙台の青貝塗はアワビ貝を粗く「ぶっかいて」使うところに特色があり、青貝塗棚は、戦前の仙台の店舗の陳列棚としてしばしば見られたそうですし、そのデザインにはさまざまなバリエーションがあったようです。
 芹沢銈介蒐集の青貝塗棚(政岡棚)は上の違い棚部分と下の引き出し部分が別作りになっていて、違い棚の中にある小引き出しも取り出せるようになっているので、使う人が好きなようにしつらえを楽しむことができます。また、上部の違い棚が黒漆、それを支える下の引き出し部分だけ青貝塗であったり、青貝塗棚に戸袋を組み合わせた作りの棚やわが家の棚のように硝子戸がついたものもあって、注文主と製作者が話し合いながら工夫して作り上げていたことがうかがえます。
 仙台では一般的に青貝塗棚と呼ばれ、政岡棚というのは骨董界での呼称だったようですが、なぜ政岡の名が冠されたのでしょう。

 政岡は仙台藩の伊達騒動を題材とした歌舞伎や人形浄瑠璃の演目「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」(※4)の重要な登場人物でした。幼くして主君となった鶴千代君の乳母(めのと)政岡が、我が子千松(せんまつ)の命を犠牲にして悪人一派から鶴千代君を守った「御殿の場」は屈指の名場面です。鶴千代を抱き上げる政岡の姿は、江戸期の浮世絵や仙台の堤人形にもたびたび登場しました。忠義を尽くし凛々しく生きた政岡は、日本人にとって好ましい存在だったのでしょう。
 その名で呼ばれる政岡棚は、青貝が美しく輝き、女性の居所にふさわしいものであったのかもしれません。かつて政岡棚がどのように用いられていたのか思いをめぐらせつつ、日々食卓にのせる器を引き出しから選んでいます。

(※4)万治・寛文年間(1658~73)に起こった伊達騒動(寛文事件)を題材にした人形浄瑠璃、歌舞伎の演目。

(撮影:寺尾佳修)

掲載:2025年1月24日

濱田 淑子 はまだ・しゅくこ
東北大学大学院文学研究科(美術史学)修士課程修了
1987年より東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館設立準備に関わり、1989年開館から2010年3月に退職するまで同館学芸員、社会教育学科教授を務める。2010年4月から16年3月まで同館参与。
その間、宮城教育大学、宮城学院女子大学、弘前大学、東北生活文化大学の非常勤講師を務める。
宮城県民芸協会会長(2018~2023)、現在は顧問。