東京駅の中央棟に使用されている
石巻産の「雄勝スレート」
東京駅からまっすぐ皇居にのびる通称「行幸通り」で、国重要文化財・丸ノ内本屋(駅舎)をふりかえる。その姿を背景に、記念写真を撮る多くの人々。あの屋根に葺かれているのが天然スレートで、もとは宮城県産だった*。東京大空襲によってその屋根や3階部分などが焼け落ち、やや簡略的に修復されて昭和・平成前期をしのいだが、日本の顔ともいえる丸ノ内駅舎の当初形態をとりもどすことは悲願だった。
復原と免震化を含めた大改修プロジェクトが行われたのは2007(平成19)年から2012(平成24)年。まさに屋根工事に入ろうという矢先に、2011(平成23)年の東日本大震災は起きた。なんと、修復のために石巻市沿岸部で準備されていた石盤(新材および古材)が津波に遭ったのである。でも、もっと驚かされるのは、海浜にバラバラになった大量の建材を、あの被災状況のなかで関係者・協力者が拾い集めたということ。途方もない作業の末、工事のため新調された雄勝産は中央棟へ、再利用された雄勝産・登米(とめ)産などの古材はドームや尖塔部へ葺き上げられた。屋根工事にあたった国選定保存技術石盤葺保持者の佐々木信平さんによれば、その数は約8万枚。それでも全体の約40万枚には及ばないが、多くの素材と知恵・技が結集し、あの雄姿に至っているのである。
*今回の修復前のスレートには、一部に岩手県産材も加わっていた可能性もあるとの指摘もある。
三陸におけるスレートの産地
―雄勝・入谷・登米・矢作
東京駅から新幹線で1時間半。仙台に降り立つと、とくに地元らしい建築素材・造形は見当たらず、少し寂しい。実は、仙台市内にもわずかに天然スレート葺きの建築は残っているし、宮城県から岩手県南にかけてはまだかなりの数が残存している。ちなみにスレートというと、昭和期に普及した疑似製品である「人造スレート」のほうが一般的だ。もとの「天然スレート」は岩塊を割り出し、石盤に成形したもの。本稿ではこれ以降、天然のほうをスレートと呼ぶこととする。
その実体は粘板岩で、英語でも「Slate」と訳され、その地層や岩石が露出している場所は特定の地域に集中する。国内では石巻市雄勝町や隣の女川(おながわ)町、南三陸町入谷(いりや)地区、登米市登米(とめしとよま)町、岩手県陸前高田市矢作(やはぎ)町など、北上山地の南端部がこれにあたり、その形成は約2億年も前の古生代にさかのぼる。
産地周辺を歩くと、見事なスレート民家も数多く目にする。例えば2023年に国登録有形文化財となった旧鈴木家住宅板倉は、石巻市桃生町の旧家にあった豪壮な七間倉であり、茅やスレートなどの屋根工事を手がける熊谷産業・熊谷秋雄さんらの尽力によって、旧北上町役場跡地に移築再生された。
ちなみに雄勝周辺の石は主に黒灰色だが、類似の地質は世界各地にみられ、赤・青・緑など色味も多様である。この「地球が押し焼いた屋根瓦」への需要は根強く、ヨーロッパなどでは枯渇した採石場も少なくない。だが日本の場合は枯渇する前に需要が途絶え、いまも地中に眠っている。
建材より“文具”の近代化が先行した
世界と比較すると、日本では、スレートの屋根材利用は後発だった。石利用の始まりは「硯(すずり)」。経産省の伝統的工芸品に指定されている「雄勝硯(おがつすずり)」は有名だが、その開発は古く、14世紀の文献にも「オガチノスズリハマ」の記述がみえる。
そのような硯材の名産地では、明治期になると「スクールスレート(習学芸石盤)」すなわち児童向けのミニ黒板を製造するようになる。紙が貴重な時代、欧米にならって小学3年生まではスクールスレートを、高学年になると紙を使わせた。国の将来を担う子どもたちにスクールスレートを使わせたいが、輸入ばかりでは貨幣が流出する。何とか国産でできないか。そんな商機に目をつけたのが山本儀兵衛(やまもとぎへえ ※1)と永沼織之丞(ながぬまおりのじょう ※2)。山本は東京の人。永沼は仙台で生まれ雄勝名振浜(おがつなぶりはま)の旧家に養子に入った人物である。永沼の手引きで雄勝を訪れた山本は、硯材の採掘所で石片を拾い「石盤に使える!」と感嘆したと伝わる。
(※1)
山本儀兵衛:旗本の家に生まれ、明治になると貿易商番頭を務めたとされる。雄勝玄昌石のスクールスレートへの利用法を発見し産業を興した人物として、戦前までは雄勝町で「山本祭」が開かれたと伝わる。
(※2)
永沼織之丞:永沼家は十五浜の一つ・名振浜の旧家。桃生郡の大肝入を務めた。織之丞は改名で、もとは仙台藩士伊藤祐道の子で秀実と称し、藩校養賢堂で大槻磐渓に師事したのち永沼家の養子となった。明治初期に東京・横浜などで学び、また教えたなかで山本と出会ったとされる。
※1、※2 は、「雄勝町史」「桃生郡誌」などを参照されたい。
石盤が“屋根”に
―掘り起こした人々の血と汗と涙
伊達政宗・忠宗・綱宗の霊廟がある青葉区の「瑞鳳殿」。ここに隣接する瑞鳳寺には「鹿児島県人七士の墓」がある。1877(明治10)年の西南戦争に従軍し、敗戦後に国事犯として全国に送られた人々のうち、宮城には305人が護送された。彼らは貞山運河(ていざんうんが)をはじめ県内各地の開墾・開発工事等に従事したが、305人のうち13人は獄中で病のため没し、6人は遺族に引き取られ、残りの7人が瑞鳳寺に埋葬された、それが七士の墓である。
いっぽう山本らの提案もあって、別の約70名の薩摩藩士は「宮城集治監雄勝分監」へ移され、石材の採掘と加工に従事した。山中の開発と石材の運搬、割り出しは過酷だったに相違ないが、スクールスレートの特需もあって急速に開発が進む。その物語は『史劇・石に刻んだ赤心』(作・演出:大日琳太郎)の題材となっている。
さて、欧米ではスレートが文具にも屋根にも用いられていたから、日本でも建材となるのに時間はかからなかった。分監設置から3年後には大量の建材の求めがあったと伝わる。文具とは比較にならない必要量に対し、極度に低い人件費での採掘と加工がこれに応えたことを想像する。
ちなみに、宮城刑務所には上記宮城集治監の本館(もと若林城)があって、その中央の六角棟には解体前にスレートが葺かれていた。雄勝分監で製造されたスレートが葺かれた最初期の国内建造物ではないか、との説もある。また現存する最初期の例としては、国重要文化財・北海道庁旧本庁舎(平井晴二郞設計/1888(明治21)年)がある。
さて、1896(明治29)年、明治三陸津波が雄勝浜を襲う。石と格闘した元薩摩藩士にも犠牲者があった。しかしそこで割り出された石盤は、まさに日本全国の近代洋風建築を彩り始めていたのである。
学都仙台にあったスレート葺きの近代建築
―東北大学旧片平学生ホール
スレート葺きの近代洋風建築は、枚挙に暇がない。国重要文化財としては法務省旧本館(エンデ&ベックマン設計、1895(明治28)年)、旧帝国京都博物館本館(片山東熊設計、1895(明治28)年)をはじめ、東北地方では岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館(辰野金吾・葛西萬司設計/1911(明治44)年)や文翔館(山形県旧庁舎および県会議事堂:田原新之助設計/1916(大正5)年)などがある。これらに共通するのは、おおむね1890年頃から1920年頃の30〜40年間に集中して建てられ、欧化こそ近代化であるという時代風潮のなかで、主に外国人らの指導を受けた最初期の日本人建築家らが設計にあたったことだ。
ちなみにスレート以前の擬洋風建築に遡ると、それらには和瓦が載っていた。仙台市歴史民俗資料館(旧歩兵第四連隊兵舎/1874(明治7)年)や宮城県会議事堂(現存せず/1881(明治14)年)などである。
仙台にあったスレート葺き建築の例として、青葉区片平・南六軒丁にあった東北大学旧片平学生ホール(旧宮城県中学校雨天体操場・現存せず:山添喜三郎ほか設計/1897(明治30)年)がある。これは2019(平成31)年初頭の解体にあたって行った資料調査により、当初は栗材を薄板に割ったものを葺き上げた「栗木端葺き」であったことが判明した。
だが1907(明治40)年、失火により、この雨天体操場を除いた他の校舎が全焼する。翌1908(明治41)年に宮城県第一中学校(のちの仙台一高)が若林区茶畑に移転する一方、この建物を含む敷地は仙台高等工業学校(SKK)に移管され、さらにSKKが東北帝国大学に編入されるなどの再編が続くが、大正時代や戦前・戦中をこえて建物は残り、戦後に至る。新制東北大学となったあとの1954(昭和29)年、雨天体操場は食堂や売店からなる「学生ホール」に内部改修された。以後も軽微な模様替えが重ねられ活用されたが、東日本大震災を経て使用中止となっていたのである。
保護シートをはがしてみると、その屋根材は、雄勝産のスレートだった。いったい、屋根の栗木端はいつスレートになったのか。早くからスレートが葺かれて延焼を逃れたと考える説と、火事ののちに屋根材の劣化や不燃化などのためにスレートに改修されたと考える説の両方があるが、例えば北四番丁にあった東北大学医学部校舎(現存せず/1912(明治45)年)もスレート葺きだったから、こうした学校建築でも洋風化とスレートの採用が一般化してきていたと考えられる。
雄勝産のスレートが
仙台を経て加美町の工藝藍學舎へ
学生ホールの解体は大変惜しまれるものであったが、東北大学施設部よりお話をいただき、解体前後の調査と、屋根スレートの回収をすることとなった。雄勝スレート生産の再開にも尽力する共同研究者の阿部正さん、佐々木信平さんらとともに、学生たちの助力を得て全体の約3分の1、すなわち2,000枚ほどのスレートを回収、保管することとなった。その時点で使用予定は無かったが、さまざまな記憶が刻まれた石材の価値を理解してくださる方に提供することを夢想していたのである。それが後に、加美(かみ)町で結実した。
元号は平成から令和に変わり、11月16日になると耳を疑うニュースが新聞に載る。宮城県美術館(以下「県美」)の移転集約問題である。それまで市民グループ「まち遺産ネット仙台」などで建物保存に連戦連敗を喫していた筆者がもっとも安心していた現代建築が県美であったから、これが失われるならばもう仙台から去ろう、と本気で考えたものである。そこですぐに日本建築学会東北支部としての保存意見書作成、友人らと手を携えての保存グループの立ち上げなどに奔走し、ちょうど1年後の同日に移転断念が報じられた(宮城県美ネット 編『みんなでまもった美術館―宮城県美術館の現地存続運動 全記録―』参照)。
この一連の活動の後半には、県内各地を行脚して県美の価値を話しあう「出前講座」を重ねたが、その初日に訪れたのが大崎市古川と加美町中新田(なかにいだ)である。中新田での勉強会場となったのは、宮城県指定無形民俗文化財「中新田の虎舞」の舞台となっている山和酒造の建物「寅や」であった。会場設営などに尽力頂いたのは、同町で染織家として活躍し、「工藝藍學舎」を主宰しながら若手工芸作家のネットワーク化などにも尽力する笠原博司さんである。建築と工芸のかかわりについて意気投合すると、「昭和初期の醤油蔵を改修した公営博物館の払い下げ建物に工藝藍學舎を移転する計画を進めているが、ついては一部でもよいからそこにスレートを使用したい」という。「1年半前に解体保管した石材で良ければ」と、東北大の学生ホールから回収したスレートを提供することとなった。具体的には、醤油蔵本屋の南と東にそれぞれ懸け下げられた3坪・20㎡ずつの下屋の屋根に用いることとした。
こうしてこのスレート材は、100年ほどの時を経て、採掘・加工された雄勝から、仙台の学校建築を経て、中新田に落ち着くこととなった。小さな石盤の小さな旅。そこには意外にも長くひろい物語が詰まっている。
スレートの盛衰を思い
仙台宮城の建築を考える
実は、スレート葺きの建築は難しい。形状は平板でしかないので、現在では見えない箇所に銅板などを用いて水切や防水の補強を施すなど、雨仕舞いには技術を要する。それでも、洋風の風が吹いた時代にはまちのあちこちに、それが終われば地元の民家・集落に浸透し、職人は巧みに葺き上げていった。地場石材が、この地方の建築造形に存分に活かされた一時代があったのである。それらも仙台ではほとんど見られなくなり、また東日本大震災とその後の公費解体によって沿岸部の多くの民家が失われたが、宮城県内、さらには岩手県南にかけては今なお、ひろく民家の屋根に残っていることを再び指摘したい。
その屋根も内実は様々である。明治後期以降に当初からスレート葺きで建設された「真正スレート民家」。柱・梁は江戸・明治のままだが茅葺き屋根を小屋組ごと降ろしてスレートに置き変えた「屋根替えスレート民家」。屋根材のみを近年になって金属葺きなどに変えた「元(もと)スレート民家」。屋根の石を降ろすこと無くトタンを張り付け、まだ中に石が残っている「中(なか)スレート民家」。そして、昭和戦後になっても新築ながら伝統的なスレート葺きの農家として建てられた「戦後真正スレート民家」もある。これらは屋根オタクである筆者らによる通称だが、こうしてみると、仙台以外の建築が実に面白い。
では、仙台の建築とはどういうものだろうか。国宝大崎八幡神社の名作は京都山城の名棟梁・梅村彦左衛門らの仕事と伝わる。宮城県美術館は前川國男設計。せんだいメディアテークは伊東豊雄設計。それらが美しいこと、私自身も憧れてきたことは事実であり、もちろん先々まで大切にすべき名作である。だが今後もずっと、スーパースターに頼った名作だけが仙台の建築なのだろうか。むしろそれらに学んで地元の力を磨くべきではないのか。「支店経済都市」仙台は、古いものを大切にすることができないことが多い。上述の例でもわかるように、建築がその土地に根づいた頃に施設移転となることが多く、どこへ行っても「跡地」の石碑がある。墓標だらけのまちというと揶揄しすぎだろうか。それを、このまちの変わらない特質とあきらめるのでは寂しい。かつて『東北の民家』を著した東北大学名誉教授の小倉強(つよし)は、村々を歩き、自ら設計の仕事も行い、仙台建築会を立ち上げた。そのような地道な仕事に光をあてるのも興味深い。
新旧の多様な建築を造り、守り、育てる。東京を追いかけるばかりでなく、むしろ宮城・東北の特質を活かす。そのようなことが実現されれば、仙台ももう少し、楽しく歩けるまちになるような気がする。その意味において、扱いが難しいが、地域の技-地技-が独特な味わいをつくるスレートは、見捨てるわけにいかない地域資源といえるだろう。