連載・コラム

地域の人々の願いを背負い、今日も舞う
―2.生出森八幡神楽

 民俗芸能は地域に根ざすものだ。それぞれの土地の歴史や暮らしを背負い、舞い手はともに生きる人々の祈りや願いを、舞いや囃子に込めてきた。今、民俗芸能を担う人々は、活動の中で何を思い、どんなよろこびを感じているのだろう。仙台には「神楽」「田植踊」「鹿踊」「剣舞」の4種、23の民俗芸能がある。その中から、秋保(あきう)「馬場(ばば)の田植踊」と「生出森八幡(おいでもりはちまん)神楽」の稽古場を訪ね、保存会の方々に話を聞いた。

熊野神社から生出へ、神楽を伝承した人々

 取材にうかがった稽古の日は雨だった。夜7時。しとしと冷たい雨の降る生出森八幡神社里宮の境内は闇に沈んでいる。社務所には明かりが灯され、神楽長の嶺栄松(みね えいまつ)さんら数名の方がストーブをつけ、太鼓を用意してメンバーを待っていた。やがて、高校生、小学生の女の子を連れたお父さん、社会人…と次々に会の面々がやってきて、気がつけば異世代7名の輪に。いったいどんなふうに生出のお神楽は始まったのですか。そうたずねると、嶺さんからは「夜、名取熊野堂(熊野神社)の神楽師の方たちにお忍びで通って来ていただいて、教えてもらったんです」と返ってきて、思わず身を乗り出した。

神楽長の嶺栄松さん。活動を支え50年近く。「舞いながら、お囃子に酔いしれることがあるんですよ」

神楽長 嶺 栄松さん
「明治24(1891)年頃、ここ生出森八幡神社の高橋甚六宮司が、親しくしていた熊野神社(宮城県名取市)の宮司さんに、向こうのお神楽を伝授して欲しいと頼み込んだのが始まりです。でも門外不出のきびしい掟があって、夜が更けてからお忍びで通って来ていただいて教えてもらったというんだね。あとは向こうのお祭りに行って目に焼き付けて習得した、と。ほら、ここに8人の神楽師が並んでいる写真があるでしょう?これが、最初に伝授してもらった人たちですよ」

 社務所の欄間にはぐるりと表彰状や寄進者の芳名板が飾られ、その中に烏帽子をかぶった男性の集合写真があった。わきには、明治27(1894)年に、生出森八幡神社付属神楽の14の舞いを「試験の上認可ス」と書かれた宮城県神官取締所の墨文字の許可証が掛けられている。他社の神楽を凝視して習得したとは、ただならぬ熱意だ。当時、生出村の村民は、初代村長・長尾四郎右衞門のもと熱心に地域振興に取り組み「日本三模範村」に数えられるほどだった。よく働き余暇を楽しもうと、民俗芸能の導入を図ったのではないかと、そんな想像をしてしまう。「長尾村長と神楽とのつながりはわからないよ」と、嶺さんはおっしゃるのだが。

 そして、この神楽には伝承と継続に力を貸した2人の人物がいた。

最初に神楽を伝承した人々。130年の歴史を物語る資料が並ぶ社務所で稽古が続けられてきた。

神楽長 嶺 栄松さん
「当時の東北帝国大学の教授で、神楽の研究者でもあった小宮豊隆(※1)先生が昭和の初めにここを訪ね神楽を見て『これは大変貴重なものだから大切に伝承するように』と、おっしゃったという言い伝えがあるんです。戦争中も細々とつないでいたようですが、昭和50年前後に神楽師が3人になってしまった時期があって、そのとき、できたばかりの生出公民館に郷土史家の三原良吉(※2)先生がやってきて、『これは大切な神楽なんだ。いますぐここに氏子を集めて保存会をつくれ』とおっしゃった、と。私はその現場にはいなかったんですが、これを受けて動いた中学時代の恩師に誘われ、神楽の道に入りました。それから48年です。舞、笛、太鼓のすべてができるように、と指導を受けました。今は、舞を習得し一度舞台を踏めば“神楽師”と呼んでいます。一番若い神楽師は高校1年生ですよ」

(※1)小宮豊隆(1884~1966)文学者。東北大学名誉教授。夏目漱石の弟子。昭和9(1934)年12月の『旅と伝説』の中に「神楽研究資料」として小宮が、生出森八幡神社神楽の最初の伝承者の一人、石垣勘三郎に行った聞き書きがあり、熊野堂神楽の伝承の詳細が語られている。
(※2)三原良吉(1897~1982)河北新報社で論説委員などを務めるかたわら、郷土史家として活躍した。著書に『郷土史仙台耳ぶくろ』など多数。

女性も地区外の方も、ともに伝承者として

 高校1年の神楽師とは、笠松裕咲々(ゆらら)さんだ。少女が演じる「神子之舞(みこのまい)」の神子として就学前に活動に参加し、以来ずっと続けてきた。この日稽古に参加していた女性は、そのほか加藤和佳香(わかこ)さん、嶺岸祐子さん、そして小学3年の佐藤詩季(しき)さん。

神楽長 嶺 栄松さん
「2000年頃だったか、男性だけで伝承してきた私たちのところに、2人の女性がやってきて、『私たちは参加できないんですか?』と聞かれたんです。前例がないことなので役員で話し合い、『男女平等の時代なんだからいいんじゃないか』と。それが今では女性が6名になりました。男性は7名、総勢13名でやっています。それに、この渡辺さんのように年配になってから参加する方もいるんですよ。私としては、20代30代がもっと増えて欲しいんだけどさ(笑)」

 遠慮のない口ぶりに、信頼関係が見える。渡辺義嗣さんは70代。1年8カ月前にお囃子の笛の吹き手として加わった。

渡辺義嗣さん(笛)
「転勤族だったんですけどね、初めて生出森八幡神社の祭りの神輿渡御(みこしとぎょ)に参加したときに感動したんです。神輿が行く先々で地元の人がごちそうを用意して待っていてくれる。歓迎してお花代を手渡してくれる。人のつながりがあって、これこそ地域のアイデンティティ、地域の核になるものだ、と。私は雅楽をやっていたので、笛をやらせてもらうことにしたんです。うちの神楽はすばらしいですよ。難しいと思うけれど、残したいですね」

渡辺義嗣さん。「一般的に神楽のお囃子は物悲しいのが多いけれど、うちの神楽にはそれがない。そこもすばらしい」と話す。

 渡辺さんの提案で、それまで本番前に集中して行なっていた練習を週一回に切り替えた。嶺さんがいう。「本番前だけなんてまずい、定期的にやるべきだと、渡辺さんに発破かけられてね。本来は週2、3回は練習が必要なんです」。14の演目をすべて舞うと、時間は3時間に及ぶ。今は、ここ里宮と太白山中腹にある本宮での例祭、太白区内の多賀神社(西多賀)や舞台八幡神社(長町)の例祭などに出向き、年5回ほど披露している。

伝統とは何かを問いながら

 佐藤詩季さんが『神子之舞』を、父親の充基(みつもと)さんの大太鼓、嶺さんの締太鼓、嶺岸さんと渡辺さんの笛のお囃子に乗せて舞う。あでやかな扇を回し、鈴を振るたびに、腰までの黒髪が静かに揺れる。続けて、笠松裕咲々さんと加藤和佳香さんが、『神招之舞(かんまねきのまい)』の練習に入った。何と詩季さんが小さな体で太鼓を叩いている。御幣束(おへいそく)と鈴を持った2人は、畳の上を斜めに横切り、腰を落として鈴を振り、同期しながら動いていく。その様子を正座して見守っていた充基さんが、途中から立ち上がり2人のそばで舞い始めた。お囃子に合わせ動きを先導しながら、それは動きにどんな感情を込めていくのかを伝えようとしているように見えた。

佐藤詩季さん。練習中の真剣な表情は、休憩に入るとゆるむ。
笠松裕咲々さん(右)と加藤和佳香さん(左)、2人の舞い。「長いこと何度も見ているのに、自分が舞うときはなかなかうまくできなくて」と、加藤さん。

佐藤充基さん(舞、太鼓)
「16歳のとき親戚のおじさんに誘われて活動に入って、25年です。同期で4人が入りましたが、地域を離れたり、病気で亡くなった人もいて今は2人になりました。一人舞いには25分かかるものもあります。お祭りでも時間が限られ全演目を舞うことは少なくなっています。
全演目舞えるのは私の世代では私だけですが、今も常に先輩に指導されていますね。長年やっていると少しずつ変わってくるからか「違う」といわれる。それが「無形」ということなんでしょうね。変えないで伝える中にも一人ひとり癖があって、この舞はこの人が踊るとスゴイというのがあるんですよ。例えば『翁之舞(おきなのまい)』なら神楽長の嶺さん。いかにもおじいちゃんという雰囲気が出るんです」

佐藤充基さん。「父親より上の世代の人たちに学んでいたのに、いつのまにか自分もそんな年になってしまいました」。

 こちらから質問を投げかけているわけではないのに、「無形」「伝統」「変えない」といったことばがそれぞれの口をついて出てくる。嶺さんは何度も「腰を落とすのが苦しいからといって、楽な方にいってはいけない。神楽は生きているものだけれど、改良はだめだ」と口にした。渡辺さんも「意識しなければ簡単な方へ流れ、別なものになってしまう」と警句を発する。何が大切か、どう伝えるか。そんな話を普段からひんぱんにしているのだろう。加藤さんによれば「練習に集まっても半分以上は神楽についての雑談」なのだそうだ。

子どもたちへ伝える活動をとおして

 加藤さんは、嶺さんが神楽の講師として出向いた生出中学校の音楽の授業で神楽に接点を持った。50分の授業を10回。初めは音も出せなかった生徒たちが笛を吹き、舞えるようになる。これには、嶺さんも毎年感動するという。そこから、本格的に活動に入る加藤さんのような人が育ってきたのだから本望だろう。そして、詩季さんも、もちろんお父さんの影響はあるのだろうが、小学校での学習発表会に向けたお神楽の時間ではリーダーを務めたという。その指導に当たったのが、嶺岸祐子さんだ。

嶺岸祐子さん(笛)
「3年生は2グループ、4年生は1グループをつくって舞を教えたんです。初めは難しくてやる気のない子もいました。でも説明して回を重ねていくと変わってくるんですよ。少しずつできるようになっていくと、頑張る子が出てきたりね。発表会では子どもたちが楽しかったと言ってくれ、保護者みんながよかった、感動したと話してくれました。新しく生出に来た人たちにとっては、神楽は初めて接するものだったでしょうし。こういう活動の中から将来リーダーになる子が出てくるかもしれませんよね」

嶺岸祐子さん。「初めて笛をに触ったときは、なかなか音が出なかった」と振り返る。

 舞の最中はきびしく凛とした表情の笠松さんは、ぽつりぽつり静かに話す高校生だ。「小さい時からだからもう日常になってて、最近は本番のときだって、家の人も『行ってくればー』みたいな感じ」と笑っている。そして、何の力みもない口ぶりで「『翁之舞』をやってみたい。難しい技の連続だから」と話す。10年以上の経験を積み、自分自身で神楽のおもしろさをつかんだのだろう。加藤さんは、舞いの難しさ、自分の技の未熟さを訴えながら「残せるものなら残したい。次の人に橋渡しできるつなぎ手になりたい」と話す。すかさず励ますのは嶺さんだ。「あせらなくていいんだ。ゆっくり覚えればいい」と。神楽の将来を案じる渡辺さんは、取材に行った私たちにまで「みなさん、神楽を見たことありますか?どうすれば残ると思いますか?」と水を向けてきた。

 ともに暮らす人々が伝統芸能の継承という一点で集い、つなぐとは何か、どうすれば伝わるのかを考え、問いかけ、答え、手を携えて修練を重ねる。これこそ、未来に大切なものを残そうとする村づくりそのものではないか。稽古と雑談で夜は更けていく。私には欄間の上から見下ろす130年前の人々が温かく、力強く見守っているように思えてならなかった。

掲載:2024年2月13日 取材:2023年11月・12月
取材・原稿/西大立目 祥子 写真/寺尾 佳修