連載・コラム

翻刻『仙臺郷土句帖』
~よみがえる「郷土句」の世界~

『季刊 まちりょく』特集記事アーカイブ

『季刊 まちりょく』vol.14掲載記事(2014年3月14日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

 『仙臺郷土句帖』をご存じですか?

 『仙臺郷土句帖』は、仙台の文化人であり酒亭「炉ばた」の主人として親しまれた故・天江富彌(あまえとみや)(1899年~1984年)が、1941年、戦地に赴いている郷土出身の兵士の慰問のために発行しはじめた印刷物です。終戦後の1946年まで全部で14輯(しゅう)が出されました(※)。

※その後、復刊『仙台郷土句帖』が2001年、38号まで発行されています。

 同書に掲載されているのは、仙台・宮城ゆかりの文化人たちがふるさとの言葉で詠んだ1250余句。当時の暮らしや人々の姿がありのままにうたわれた句の数々は、仙台弁を耳にすることが少なくなった今日、郷土の文化・民俗・歴史などをたどる上で貴重な資料であると言えます。しかし残念ながら、同書の原本はそのほとんどが散逸し、これまで多くの人の目に触れることはありませんでした。

 その『仙臺郷土句帖』が、2013年11月、市内在住の出版文化研究家・渡邊愼也さんの手によって「翻刻」(写真製版により再刊すること)の形で刊行されました。約70年前の仙台の言葉、人々のふるさとへの思いが、現代に甦ったのです。

 温もりに満ちた詩情豊かな「郷土句」は、今を生きる仙台人にも何かを語りかけるはず。その世界を、ごいっしょに訪ねてみましょう。

翻刻『仙臺郷土句帖』
翻刻・略解 渡邊愼也 2013年11月発行
郷土句に詠み込まれた方言や当時の用語は、現在では難解なものが多いため、後半部分には渡邊さんによる「略解」が付けられています。仙台市内の書店・金港堂などで取り扱い中(定価1,800円+税)。

 郷土句でなければ表現出来ぬ領域がある筈だと思うのです。俳句の様な侘びや深さと別に、そして川柳の様な風刺も必要としない、それでいて方言の使駆によってのみ表現出来る懐郷と思母と心にしみ通る民族の暖かみを感得する新しい句の境地でもあります。

――天江富彌「郷土句ということ」
(復刊された『仙台郷土句帖』38号より)

『仙臺郷土句帖』の生みの親、天江富彌(あまえとみや)

 『仙臺郷土句帖』を発行した天江富彌は、大正期に童謡詩人のスズキヘキらとともに仙台の児童文化運動を担った人物です。文学者や芸術家との交友も広く、自身も多才な文化人であり、何より郷土への深い愛情をもっていました。

 太平洋戦争中、戦地にいる兵士たちにふるさとの言葉を届けたい。しかし物資不足の戦時下のこと、紙面を節約しつつ郷土の風物を多く盛り込むには短い句の形式がいい、という天江の発案により生まれたのが『仙臺郷土句帖』だったのです。

『仙臺郷土句帖』原本(鈴木楫吉氏蔵)。紙の種類、体裁は輯によってそれぞれ。表紙は当時活躍していた版画家・洋画家・日本画家が手がけています。

天江 富彌(あまえ・とみや)

1899(明治32)年~1984(昭和59)年
仙台の造り酒屋(天賞酒造)に生まれる。若い頃から文芸に興味を持ち、童謡を作る。1921(大正10)年、友人・スズキヘキらと童謡専門誌『おてんとさん』を創刊。昭和の初めに上京、酒場「勘兵衛酒屋」を開店し、詩人・彫刻家の高村光太郎や板画家の棟方志功など多くの文化人が集った。のち仙台に戻り、戦後は郷土酒亭「炉ばた」の店主(おんちゃん)として親しまれた。竹久夢二の絵やこけしの蒐集家としても知られている。昭和56年度「河北文化賞」受賞(受賞理由は「児童文化の育成と郷土史研究に貢献」)。(写真協力:仙台文学館)

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郷土句に見る70年前の仙台

 句帖に掲載された郷土句には、70年前の仙台やその近郊などでの人々の暮らしが生き生きと詠まれています。今ではなくなってしまった建物や、戦時中の世相が出ているものも。そんな作品をほんの少しご紹介します。

森徳座火ばごかんます下足札

千田總兵衛

森徳座=森徳横丁(青葉区一番町、仙台第一生命タワービル南側の通り)にあった演劇場。暖房と煙草用の火箱の火を絶やさないよう、下足札でかんます(かき回す)様子

おすつまり「こさげァまな板お歳縄」

千田總兵衛

歳末のふり売りの声。「こさげァ」=小三蓋松(門松)

ゲエラゴを取つて帰つてごしやがれる

伊達南谷子

ゲエラゴ=おたまじゃくし ごしゃがれる=叱られる

ぐみもぎや早川牧場へ坂下りて

スズキヘキ

早川牧場=青葉区花壇にあった牧場

秋風や仙集館のヂンタツタ

スズキヘキ

仙集館=青葉区一番町にあった映画・演芸館。1933年に焼失。 ヂンタツタ=常時演奏の客寄せ音楽のひびき

見ろまづや今朝のたろ氷(ひ)の太いごど

岡 得多樓

たろ氷=つらら

いたましいいしよをたをして
もんぺぬい

木村琢二

いたましいいしょをたをして=大切な着物をほどいて

ござりせんでござりす
ユベスコウレン、カリントウ

上山草人

ござりせんでござりす=ございませんでございます(仙台城下の丁寧語) ユベス=ユベシ

萩昏(くら)き垣で別れぬ「お明日(みょうにち)」

天江富彌

「お明日」=「またあした」(仙台城下の挨拶語)

夏雲やトロペツ続く戦闘機

内ヶ崎作三郎

トロペツ=ひっきりなしに

おしよしがる子はメゴ盛り衣更(ころもがえ)

濱 眞砂

おしょしがる=恥ずかしがる

ドンがなるんままにすべや帰りすぺ

佐藤 實

ドン=正午の合図の空砲。1929年1月まで使われていた。 んまま=食事(ここでは昼食)

みちのくの冬はジープも寒がすぺ

伊達南谷子

終戦後の句。進駐軍のジープを詠んでいる

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投句者は個性豊かな顔ぶれ

 句帖には、宮城・仙台ゆかりの文化人、芸術家、軍人、学者など、さまざまな人たちが句を寄せました。天江富彌の交友から生まれた“郷土句の輪”が豊かに広がっていたのです。

(写真協力:仙台文学館)

上山 草人(かみやま・そうじん)

1884(明治17)年~1954(昭和29)年
俳優・文筆家
仙台生まれ。中学時代から句作を始める。のち演劇の道に進み、大正時代に渡米しハリウッド映画に出演。昭和初期に帰国後、舞台や映画で活躍。黒澤明監督の「七人の侍」にも出演した。

白鳥 省吾(しろとり・せいご)

1890(明治23)年~1973(昭和48)年
詩人
宮城県築館町(現・栗原市)生まれ。大学在学中から詩を発表、口語自由詩の創作に力をそそいだ。アメリカの詩人・ホイットマンの翻訳も手がけている。現在、故郷の築館には白鳥省吾記念館が建てられている。

〈写真提供:(株)中村屋〉

相馬 黒光(そうま・こっこう)

1876(明治9)年~1955(昭和30)年
実業家・文筆家
仙台生まれ。宮城女学校(現・宮城学院)を中退し、横浜のフェリス女学校、東京の明治女学校に学ぶ。結婚後、夫とともに新宿でパン屋・中村屋を開業。若い芸術家を支援し、その集まりは「中村屋サロン」として知られた。

〈写真右がヘキ、左は天江富彌〉

スズキ ヘキ

1899(明治32)年~1973(昭和48)年
童謡詩人
仙台生まれ。少年時代から文学に興味を持ち、勤務の傍ら童謡を創作し雑誌に投稿する。天江富彌と出会い、童謡専門誌『おてんとさん』を創刊したほか、仙台の児童文化運動を発展させた。

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ブックレビュー 翻刻『仙臺郷土句帖』を読む

 翻刻『仙臺郷土句帖』をブックレビュー(書評)でご紹介。筆者は、それぞれの分野で活躍する4人の方々です。

幻の名著『仙臺郷土句帖』の再生
早坂 信子(東北学院大学非常勤講師)

 仙台の造り酒屋「天賞」の三男に生まれた天江富彌が、仙台方言による川柳、俳句を蒐集し東京で郷土句誌を創刊したのは、昭和16年12月8日の「対米英宣戦布告」を契機としている。『郷土将兵に贈る仙臺郷土句帖』と名付けられた句誌は終戦までの13輯が季刊で発行され、終戦翌年の第14輯をもってその役目を終えた。戦中発行された5万3千冊のほぼ全てが前線の郷土将兵、軍病院、満州開拓の県人会へ慰問のために送られたこともあって世に出ず、渡邊愼也氏による朱色鮮やかな本書翻刻本をもって初めて読むことができた。

 驚いたのはその内容である。戦意発揚や銃後の守り、翼賛体制などはまず見つけがたい。ひたすら日常の衣食住を仙台弁特有の言い回しで、詩心や童心あふれる郷土句に仕立てている句ばかりである。
昭和17年
「釈迦堂の花よりもまづ胡麻の餅」
「十粒ほどざらめかけたるテンヨ哉」
昭和18年
「たまげした久しぶりなるあづき餅」
「わらし達に先にかせろやずんだ餅」
昭和19年
「決戦の春はあんこもしょっぱがす」
「ごまもちも憶ひ出となり曼珠沙華」
昭和20年
「疎開してみぞれふる夜をドンコ汁」
「火がゴッツオウでがすと水洟すすりあげ」
と、句を並べてみれば戦時下の生活の変化が手に取るようにわかる。とりわけ巻末に用意された懇切な「略解」が有難く、生粋の仙台弁を話した祖母と寝起きした評者でも、渡邊夫妻の説明なしには味わい尽くせなかった。また「仙臺郷土句帖発刊」と「今次世界大戦」の2つの略年表は氏の近代出版史研究家としての矜持を感じさせる。渡邊愼也氏は東日本大地震の3年半前に、科学的根拠と学説を基に大津波の警告を新聞紙上で発し、評者はその後の事態との符合に震撼させられた。氏の慧眼と実行力の賜物である本書が、この時代に世に送り出されたことの意味をかみしめたい。

仙台弁で綴られた市井の人々の歴史
井上 康(季刊誌『みちのく春秋』発行人)

 今日の渾沌とした世情の思想的相克。その背景に、太平洋戦争をふり返った時の「歴史観の対立」があるのは間違いない。一方は相手を「歴史修正主義者」と呼び、非難されたもう一方は「自虐史観者」と罵る。

 だからこそ私たちは「歴史」を出来るだけ正確にとらえる必要があり、それには「事実を裏付ける客観的資料」の発掘が欠かせない。

 本書は、昭和16年から5年間にわたり、戦場におもむいた将兵に届けられた「郷土句」の翻刻集である。

 内容は、戦地で戦う将兵の心の癒しを目的に、銃後の市井の人々が仙台弁で仙台の日々の暮らしのありのままを詠んだものである。

かんねァきのごいだましそうに
わらすなげ  仙台 八島芳枝
炬燵からなつたら出ないかばねやみ
仙台 伊達南谷子

 「かんねァ」(食べられない)に食糧欠乏の心情を、「かばねやみ」(怠け者)に郷愁を覚えるのは私だけではないのではないか。

 本書は、大上段に構え一刀両断に歴史を切り捨てるものとは無縁であり、一般庶民の感情の発露であるだけに、貴重な資料である。

 そして翻刻の労を担った渡邊愼也氏の仕事ぶりにも通じるものである。

 巻末の「仙臺郷土句帖」発刊略年表・「郷土句関係」参考資料一覧・「仙台の方言」参考資料一覧・「著名な投句者」一覧など、実に丁寧な仕事ぶりに表れており、『百年後の人々に評価される出版物を創る』(『みちのく春秋』2012年秋号)という渡邊愼也氏の出版に対する姿勢はここにも見事に結実している。

土地の言葉のたくましさ、やさしさ
前野 久美子(book cafe 火星の庭 店主)

 古書を扱っていてお客様から度々お名前を聞く人、天江富彌。皆さん、親しみと敬愛を込めて「あまえとみやさん」または「天江のおんちゃん」と呼ぶ。資力も知力も乏しい古本屋へもたまに関連資料が舞い込んでくることがあって、惜しみつつ並べているとすぐに売れていく。なぜ天江富彌がそれほど愛されるのか。それを解き明かす良書が出版史家の渡邊愼也さんの手で発行された。

 1920年代から1984年に亡くなるまで、仙台にて郷土文化の花を育て続けた天江さんは、大東亜戦争開戦と同時に戦地へ文芸の花束を届けれておられた。お国の訛りと情景を郷土句という俳句に込めて。戦地の兵隊さんは、まるで故郷のアルバムをめくるように読んだのではないだろうか。

 今、72年後に『仙臺郷土句帖』を読むと、詠われる情景の多彩さに驚く。それはとりもなおさず、仙台の自然の豊かさ、四季に添った行事や手仕事、遊びがいかに暮らしと密接であったかをあらわしている。幸い、本書の三分の一を割いて解説(労作!)が付してある。「ゲエラゴ」(おたまじゃくし)、「きりごみ」(塩辛)、「たろ氷」(つらら)、「アケヅ」(とんぼ)、「かめこにしゃぢこ」(小さな甕と竹のサジ)、「あじられす」(案じられる)、なんて愉快な言葉なのだろう。意味を知りたくて解説と本文を行ったり来たりする。

 当時の編集作業は戦時のほのかな灯りの下、集まった郷土句を並べ、ときに笑いがもれ、思い出話が次々に飛び出しただろう。完成した翻刻本を受け取りに伺った時、渡邊夫妻も編集の苦労を語りながら、方言に接する楽しさに顔をほころばせていた。政治や思想が激動のなかでも、文化とは、ゆるぎない風土に支えられた大衆の営みの上に培われるものという想いを強くする。それだからか、今より貧しくて、しかも戦争中だったというのに、読んでいるとなぜかその頃の仙台に行きたいと思ってしまう。

「郷土句」が伝える身近な文化の尊さ
佐藤 雅也(仙台市歴史民俗資料館 学芸室長)

 このたび天江富彌編集の『仙臺郷土句帖』第Ⅰ期全14輯が、出版文化史研究家の渡邊愼也さんによって翻刻されました。翻刻とは原本どおりに新たに版を起こし出版することで、昭和16(1941)年12月発行の第1輯から昭和21(1946)年2月発行の第14輯までの1250余句が収録されています。

 これは天江富彌が「郷土句」というものを発案して、戦地や内地の郷土将兵への慰問のために発行したものでした。天江のいう「郷土句」とは、「郷土のもつ独自の情緒なり方言なりを俳句にとり容れた」もので、郷土文化を郷土の人が自らの言葉で喜怒哀楽をこめて表現し、伝え、交流し、地位と世代と地域をこえて文化を育む仕掛けの役割も果していました。

 このような郷土句は、柳田国男が唱えた「郷土研究」や「郷土誌論」(民間伝承の学、民俗学)の考えとも同調するところがあり、市井の人々から見た生活文化の移り変わりを日本の歴史の中に位置づけていく文化史観と重なるものといえます。天江はまさに「郷土句」という、皆がわかりやすい、親しみやすい方法で、それを身近なところから発信、展開していった人物だといえます。

 このような郷土句からは、アジア太平洋戦争当時における戦争と庶民のかかわりについて考えることもできます。また時代をこえて伝わる民衆・常民の文化力を考えることもできます。あるいは、さまざまな方言や生活慣習、身の回りの道具(民具)などについて考えることもできます。多様なとらえ方が可能なのは、生の資料を丸ごと収録する翻刻という方法で発行されたことによります。それに加え、郷土句の簡単な解説や表紙絵作家、著名な投句者の紹介など、当時のことを初めて知る読者への配慮もなされています。

 発行者である渡邊愼也さんの並々ならぬ決意と情熱をもって成し遂げられたことに敬意を表すしだいです。

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渡邊愼也さんに聞く

 特集の最後は、翻刻を手がけた渡邊愼也さんへのインタビューです。出版史や郷土文化の研究と次代への継承をライフワークとしてきた渡邊さんに、『仙臺郷土句帖』翻刻・出版にまつわるお話をうかがいました。

渡邊 愼也 さん

1931年仙台市生まれ。勤務の傍ら出版史研究に携わり、“シリーズ宮城の教科書”(宮城県教育委員会刊行『教育宮城』)、“文部省蔵版教科書の地方における翻刻実態~宮城県を例として”(日本出版学会紀要『出版研究』20号、日本出版学会努力奨励賞受賞)、“シリーズ宮城の雑誌”(『仙臺郷土研究』)、“仙臺書林・伊勢屋半右衛門の出版実態”(『日本出版史料』7号)などの論文を発表。2005年、20世紀前半の郷土史料を引き継ぐ“杜の都の都市文化継承誌”『仙臺文化』を、同人13人と発刊。2010年、11号をもって終止符を打つが、引き続きライフワークの“地域情報の共有化とその継承”に取り組んでいる。

――なぜ今『仙臺郷土句帖』の翻刻を出そうと思ったのでしょうか?

 端的に言えば私自身の「信条」です。『仙臺郷土句帖』は、20年ぐらい前に古書店で8輯と14輯を手に入れ、非常に貴重な出版物だと思いました。私は価値のある希少な資料は、必要とする人たちに公平に行きわたるべきという信念で、研究や出版活動を行ってきました。この「句帖」の翻刻も、その必要性を痛感したからです。

 「句帖」が発刊された1941年~46年は、日本が世界を相手に戦争をしたという特別な期間。私の10代前半です。郷土句からはその頃の人々の日常の思いが読み取れます。しかし、句に使われている、その頃のふるさとの言葉を読みこなせる年齢層は、もう少なくなってきました。このことを考え時代の記憶を持つ人のいる今のうちに翻刻し、できるだけ疑問点を少なくして、次世代にバトンタッチしたかったのです。

 また、純然たる出版史の中身に入りますが、当時の出版物は内務省による検閲が必要でした。しかし、この句帖は奥付を見るとわかりますが、検閲を通っていないんです。あくまでも想像ですが、軍隊による内閲だけで世に出た極めて少ない例だと思っています。

 そのようなことから、この貴重な句帖を翻刻して、関心のある人たちにじっくり読んでいただきたいと思い、出版を考えました。

――「復刻」ではなく「翻刻」ですね。

 「復刻」は同じ言葉や絵画による作品の再現です。それに対し「翻刻」は、当時の印刷用活字(活版)をそのまま写し取り(写真製版)、活字の味が当時のまま伝わるようにするものです。それによって、当時の活字や印刷実態の仔細を確認することができ、当時の印刷文化の実態を読み取ることができます。私個人の、出版学会会員としてのこだわりでもあります。

――編集中に苦心したことはありますか?

 いろいろありましたね(笑)。句を解釈するために、さまざまな解説書に目を通しましたが載っていないケースがほとんど。多くの人々に質問を重ね、何とか正解にたどりついた例が少なくありませんでした。例えば「八八幡(やはちまん)かけたかへりは蕗の薹(ばっけあ)摘み」の「八八幡」という言葉が最初はわからず、いろいろと調べて、やっと『仙台あのころこのころ八十八年』(三原良吉監修、宝文堂1978年)に出ているのを見つけました。※「八八幡」とは、出征将兵の家族が近辺の八幡社を八カ所お参りし、無事を祈りその御札(おふだ)をまとめて戦地に送るというもの。

 また、作者の人名録については資料が乏しく、個人情報保護法の壁もあって、名簿の整備には長期間を要しました。松山(現・大崎市)の「桝形日草(喜夫)」という人の場合、私の妻の友人が松山の出身なので、多くの知人に尋ねてもらい、ようやく学校の先生とわかりました。それを受けて師範学校の名簿を調べ、確実な情報として確定できたという例もありました。

 幸い、私は勤労動員と疎開の経験から、農村の仕事がほとんどわかっていたので、その解釈には大いに役立ちました。言葉だけではわからないことも多々ありましたが、手探りで核心に近づいていきました。句の解釈にあたっては、富田博、今野てる、鈴木楫吉のお三人に、ご尽力を頂戴しております。

――「天江のおんちゃん」(天江富彌さん)の思い出は何かありますか?

 最初の出会いは1950年。東北電気通信局に勤めていた頃です。東京からお客さんが来ると、「炉ばた」で郷土料理を味わってもらうのが一番いい。ところが「炉ばた」は、電話で席の予約を受けていなかったので、上司から「陣取りして来い」と言われてました。2、3人で「炉ばた」に行き、ビールだけ注文し、飲みながら席を確保するのです。ほどなく天江さんが来て、「お前たちは陣取りだな。陣取りはだめだぞ」と言って、ジロリといちべつ。私たちは「あっ、これが気むずかしい亭主だな。でも、我慢しよう」と、そのままビールを舐め続けました(笑)。

 やがて招待客が席につき会社へ戻るのです。電話予約を認めぬ主人。苦肉の策である陣取りには、注意はしても目をつぶる。そのような「本音と建て前」の使いようには、味のある行為だと学びましたね。

――この本を通して、現代の仙台市民に感じてほしいことがあればお聞かせください。

 世界のどこでも、地域の言葉はそれぞれ大切にされていると聞きます。かつては仙台弁、東北弁はズーズー弁と言われて蔑視の対象にもなりましたが、その土地から生まれた言葉を使い、親しむのが、その土地で生きる人々の当たり前の幸せと思い、胸を張って語ってほしいです。「さようなら」より仙台弁の「おみょうにち」のほうが情が伝わるんですよね。そういう立派な言葉があるのに、それを使わない手はない。

 ただ仙台地方の方言は、城下、在郷、海岸地帯などさまざまで、まだ整理ができていないように思います。それを専門の研究者と市民の連帯で、新しい視点から整理し、継承していく必要があるのではないでしょうか。

 この『仙臺郷土句帖』も市内の学校において、仙台弁の教材として永く使ってもらえることを希望しています。

(2014年1月16日取材)

渡邊愼也さんお気に入りの郷土句

釈迦堂の胡麻餅恋し花こひし

多田 駿

 食べ物の味や有名な花どころというのは、いつまでたっても記憶が消え失せないものですね。(「釈迦堂」は旧宮城県図書館の場所にあった仏堂。その近辺に名物の胡麻餅屋があったという。)

お名月ッアン
あんちやんもドゴデガ見ですペネ

北村詠草

 戦地のお兄さんに思いをはせた句。感傷的にならずうまく詠んでいますね。

ホレホツチヤブグレツチヤ
アミココツチヤモテコ

片倉信光

 それ!(魚を)そっちに追いこめ!追い込んだから、早く網をもってこい!
 私たちの広瀬川の川遊びそのものを言葉とした句。広瀬川の名句選というのがあれば、第一位に選んでもいいような、素晴らしい郷土句です。

渡邊恒子さん(夫人)お気に入りの郷土句

夏雲のうつつて凉しガラスぱご

天江富彌

 夏の日の広瀬川の美しさ、子どもたちの様子が伝わってきます。
 「ガラスぱご」は「ガラス箱」。水中眼鏡のようにして、魚とりや川遊びに使った。

する臼(す)びき豊年唄でヨイコする

鈴木 保

 ヨイコ(結<ゆ>い)こ=共助仲間と作業すること。豊年唄を唄いながら、土製の摺臼で籾を挽いている。

 はじめは読み方もわからなかった句の一つです。歴史民俗資料館の佐藤室長に教えてもらい、「略解」に載せられました。なお、単語の下に「コ」のつく言葉は、句帖で60以上もあります。13輯には「江戸繪コ」なんていうのも目につきました。(江戸繪=江戸で作られた一枚摺りの錦絵)

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『季刊 まちりょく』は、(公財)仙台市市民文化事業団が2010~2021年に発行していた情報誌です。市民の方が自主的に企画・実施する文化イベント情報や、仙台の文化芸術に関する特集記事などを掲載してきました。『季刊 まちりょく』のバックナンバーは、財団ウェブサイトの下記URLからご覧いただけます。
https://ssbj.jp/publication/machiryoku/