連載・コラム

ブルーノ・タウトと仙台

『季刊 まちりょく』特集記事アーカイブ

『季刊 まちりょく』vol.16掲載記事(2014年9月12日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

 1933(昭和8)年11月10日。上野発の汽車から仙台駅のホームに降り立ったひとりのドイツ人がいました。彼の名前はブルーノ・タウト。世界的に著名な建築家で、桂離宮などの日本の建築や伝統美を評価したことで知られる人物です。

 祖国のナチス政権を逃れ日本に滞在していたタウトは、仙台に設置された国の機関「工芸指導所」()に招かれて来仙したのでした。以後タウトは工芸指導所で“ものづくり”を指導し、「見る工芸から使う工芸へ」の理念を根付かせました。その傍ら仙台のまちを歩き、風物や人々の様子、日々の暮らしを細かく日記に書きしるしました。その記述は、当時の仙台を知る上で資料的価値の高いものと言えます。約4か月間という短い滞在ではありましたが、タウトは大きな足跡を仙台に残したのです。

 タウトが仙台を離れてちょうど80年。今回の特集では、ブルーノ・タウトを通して、仙台を再発見する手がかりを探します。

※工芸指導所・・・日本の伝統工芸の近代化をはかり輸出を振興すること、また、東北の産業の開発を目的に、商工省(現・通商産業省)の機関として1928(昭和3)年に仙台に設置された。木工品と金属工品に関する実技の講習会や職人の養成、東北帝大との共同研究、玉虫塗や打込象嵌(うちこみぞうがん)といった技術の開発などを行った。1940(昭和15)年、東京に本所が新設され、以後度重なる組織改編を経て、現在その成果は独立行政法人産業技術総合研究所東北センターに引き継がれている。

ブルーノ・タウト(1880年~1938年)

ドイツ人建築家。ドイツ工作連盟のメンバーとして活躍。日本に関心をもち、1933(昭和8)年5月に来日。京都、大阪、東京などを経て、同年11月に来仙。翌1934年3月までの約4か月間仙台に滞在し、工芸指導所で指導を行った。その後は群馬県高崎市に移り、1936年離日。1938年、トルコのイスタンブールで死去。タウトが設計を手がけたベルリンのモダニズム集合住宅はユネスコの世界遺産に登録されている。


ブルーノ・タウトが見た仙台

 タウトは休日や仕事の休憩時間に仙台のまちを歩き、そこで見たもの、感じたことなどを日記にしるしています。異文化への飽くなき関心と独特の審美眼を通して見た80年前の仙台は、どのようなものだったのでしょうか? その一部をたどってみましょう。

※引用(太字部分)はすべて篠田英雄訳『日本 タウトの日記』1933年・1934年(岩波書店、1975年)に拠りました。

青木ホテル

 タウトが滞在した仙台駅前のホテル。現在の仙台ロフトのあたりにありました。

 タウトの部屋はこのホテルで一番大きな10畳の間。ホテルと称しているものの「万事日本風」で、畳の上に布団を敷いて寝、「朝キモノのままで階段を二つもくだり、洗面所のある湯殿に行かねばならない」のに閉口したようです。しかしホテルの「サーヴィスは上々だ」「実に行き届いたもてなしだ」と絶賛。仙台人の「おもてなし」はタウトを唸らせました。タウトの日記からは、ホテルの主人や従業員がタウトを慕っていた様子も読み取れます。

 ちなみに青木ホテルはのち「仙台セントラルホテル」と改称、1975(昭和50)年には移転して「ホテル仙台プラザ」となりました。

昭和初め頃、青木ホテルの七夕飾り。残念ながらタウトは七夕の前に仙台を去ってしまいましたが、目にしていたらどんな感想を残したでしょうか?(写真提供/仙台市歴史民俗資料館)

工芸指導所

 タウトの仕事場・工芸指導所は、現在の宮城野中学校(宮城野区五輪)のあたりにありました。「明るいすっきりした建物でなかなか広い」というのが第一印象。勤務は平日午前10時から午後6時まで。執務時間は平日が6時間(土曜日が3時間、日曜日は休み)と記していることから、2時間の休憩があったことがわかります。慌ただしい現代からすると何ともうらやましい限り! 勤務中に「小鳥が室のなかへ舞い込んで嬉々として囀(さえず)っている(中略)、それだから時間が実に愉快に過ぎていく」という微笑ましい光景も見られました。

工芸指導所の建物前にて。タウト(左から7人目)と所員たち。タウトの右隣がタウトを招聘した所長の国井喜太郎(くにいきたろう)、左から2人目がタウトの助手を務めた剣持勇(けんもちいさむ)。剣持はやがてインテリアデザイナーの草分け的存在となります。(写真提供/独立行政法人産業技術総合研究所)
工芸指導所の跡地(仙台市立宮城野中学校構内)に建つ記念碑。「工芸発祥」の文字が刻まれています。

番外編その1 タウトが買った仙台みやげ

 来仙して3日目に作並温泉を訪ねたタウト。そこで買ったのが「この地方に昔からあるという人形」。その人形とは作並系のこけしでした。

 また、仙台市内見物の途中で堤人形の工房に立ち寄り、女狐、鳩、馬、鐘、力士の谷風(江戸時代に活躍した仙台出身の横綱)などが詰まっている箱をお買い上げ。「非常に美しい型の人形で頗る多彩である、しかも驚くほど廉い」と気に入り、谷風の人形をドイツの友人に贈ったりもしています。


タウトの散歩コース ~ 宮城野、乳銀杏(ちちいちょう)、薬師堂

 タウトはしばしば休憩時間を利用して工芸指導所周辺を散歩しました。寒さをものともせず好奇心の赴くところに足を向けるタウトの姿が目に見えるようです。

 「宮城野」と呼ばれたこの一帯は、タウト曰く「広々とした平野。ところどころに紅葉した楓の大樹。(中略)この辺は万事が田舎風で簡素だ、ロシアとよく似ている」。「簡素」は褒め言葉。そんなふうに仙台のまちを形容されると新鮮に感じられてきませんか?

 「乳銀杏」として知られる「苦竹のイチョウ」を見物した際は、傍らの神社に奉納されている絵馬に注目し、また木ノ下の薬師堂(陸奥国分寺)では、絵馬、奉納された女性の髪の毛、狛犬、願掛けの草鞋(わらじ)などに目をとめています。日本人の信仰があらわれたモノに関心があったのかもしれません。薬師堂の仁王像については「MとA――つまり終止(死・暗)と始初(生誕・光)との象徴である」と描写しています。「阿吽(あうん)」をタウト風に表現するとそうなるのですね。

現在の薬師堂仁王門。タウトが訪れたのは11月20日。日記には「黄に染った公孫樹(いちょう)と真紅の楓、それから碧く澄んだ空」と記され、お寺と自然のあざやかな対比が印象的です。

タウトのひとこと in 仙台

寄せ鍋は実に珍味だ

(作並で)私も湯治をしてみたくなった

仙台ではいろいろな品物が驚くほど廉(やす)い

仙台の婦人のキモノは東京や京都より色が強い


七北田(ななきた)村、山の寺洞雲寺(どううんじ)

 真冬の2月11日、タウトは仙台市北部(現・泉区)を訪ねています。「生い茂った竹藪、藁葺屋根の家は可憐なほど簡素でかつ美しい、ドイツのすぐれた農民家屋に似たものをしばしば見かけた。(中略)この村のたたずまいは、実に驚嘆に値する」とした七北田村を経て、山の寺洞雲寺に向かったタウト。当時の洞雲寺は複数のお堂が建つ大きなお寺で、タウトはまず山門を「見事な釣合だ(中略)伊勢神宮と桂離宮とを一緒にしたような気味が無いでもない」、本堂に至っては「この見事な建物が雪の中に立っているのだ。(中略)初めてこれを見る人はその美しさに泣かんばかりの気持になるだろう」と最大級の賛辞を贈っています。雪の中、思わぬ美との出合いをしたタウトの興奮が伝わってくるようです。しかし残念ながら、タウトが見たこれらの建物は1943(昭和18)年に火災で焼失してしまいました。

タウトが「見事な釣合」と讃えた洞雲寺の山門。写真は昭和初め頃。(写真提供/仙台市歴史民俗資料館)

番外編その2 タウトは子ども好き?

 タウトは日記にしばしば子どもの姿を記しています。それも、「どの村でも大勢の子供たちを見かけるが、たいてい静かな物判りのよい眼差をしているのは驚くべきことだ」「日本は子供の天国で、子供にはあらゆる自由が許されている。しかし小さい人達も、ひどく子供っぽい振舞をするようなことはない」と、日本の子どもの特性を強調しています。子どもたちが色とりどりのキモノを着て遊んでいる様子を見るのが楽しみだとも記し、そのような子どもたちを撮影した写真も残されています(『タウトが撮ったニッポン』に掲載されています)。世界的建築家は子ども好きだったのかもしれません。



レポート
―モノと暮らす―まち歩きイベント
「タウトが歩いた道を歩く(宮城野編)」を開催しました。

 2014年7月12日(土)、前日までの雨が上がり30℃を超す晴天のなか、タウトの日記に記された場所をめぐるまち歩きを実施しました。フリーライターの西大立目祥子(にしおおたちめしょうこ)さんと東北工業大学大学院生の尾形章(おがたあきら)さんの案内で、仙台市宮城野区の榴岡公園から若林区の陸奥国分寺薬師堂までを散策しました。

 西大立目さんの解説を聞きながら、タウトが見た風景はどんなだっただろうと思いをはせたり、その健脚ぶりや観察眼に感心したり、仙台にこんなところがあったのか! と驚いたり・・・・・・。充実の3時間でした。

ナビゲーターの西大立目祥子さんの説明に熱心に耳を傾ける参加者
約20人の市民の方々が参加しました

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この人に聞くタウトと仙台

 2013年、当財団は工芸指導所とそこから始まる仙台のものづくりについての展示「工芸Designの原点 仙台発・国立工藝指導所をめぐる物語」を開催しました。その企画の監修を務め、長年ブルーノ・タウトと工芸指導所に関する研究を行ってきた東北工業大学の庄子晃子名誉教授、また、今年7月のまち歩きイベント「タウトが歩いた道を歩く(宮城野編)」のガイドを務めたフリーライターの西大立目祥子さんに、タウトと仙台についてのお話をうかがいました。

ブルーノ・タウトが仙台に残したもの

庄子 晃子(しょうじあきこ)さん
(東北工業大学名誉教授)

□タウトが仙台に来るまで

 ブルーノ・タウトの来仙には、世界におけるデザインの動きが関係しています。タウトはドイツ工作連盟(※1)のメンバーでしたが、当時の日本のデザイン関係者は、そのドイツ工作連盟やバウハウス(※2)に関心をもっていました。タウトは建築家として著名でしたが、当時の日本の建築界では、ル・コルビュジエ(※3)という次に続く人の時代になっていました。日本のデザイン関係者たちは建築家としてではなくてドイツ工作連盟のタウトに関心を寄せたんです。今は、プロダクトデザイナーとか家具デザイナーなどと細分化されていますが、19世紀から20世紀初頭の建築家は家具やインテリア、庭なども含めて総合的にデザインしていました。タウトも椅子やアイロン台、食器棚などもデザインしています。そのタウトが日本に来たのですから、じかに会って情報を得たかったんですね。

 タウトが日本に来た1933(昭和8)年の9月に、工芸指導所創設5周年の成果を発表する展覧会が東京日本橋の三越本店で開かれました。そこにタウトを招待したのですが、その展覧会を見て、タウトはものすごく酷評しました。いいものはほとんどない、と。酷評された工芸指導所の所長、国井喜太郎(くにいきたろう)(※4)さんという方はそのとき海外視察から戻ってきたばかりでした。実は工芸指導所の目的のひとつは、ヨーロッパやアメリカに向けてものづくりをして買ってもらうという輸出振興。所長の国井さんはそれを指導していかなければいけない立場だったので、世界の最先端を走っていたドイツ工作連盟、そのメンバーであるタウトにアドバイスを受けようと決心したわけです。

※1 ドイツ工作連盟・・・略称DWB。1907年、ドイツ・ミュンヘンで結成された、産業製品を発達させることを目的とした団体。美術家・デザイナー・実業家などが参加し、タウトもその一員だった。
※2 バウハウス・・・1919年、ドイツ・ワイマールに設立された、美術と建築に関する総合的な教育機関。産業と芸術の統合を理念とし、現代デザインの基礎を築いた。
※3 ル・コルビュジエ(1887年~1965年)・・・スイス出身でフランスで活躍した建築家。新たなシステムや考え方を提案し、20世紀以降の建築界に大きな影響を与えた。
※4 国井喜太郎(1883年~1967年)・・・工芸指導所の初代所長。1928年から1943年まで所長を務め、工芸の大衆化、産業化を推進した。

□工芸指導所でのタウトの姿勢

 タウトが工芸指導所に着任したのは1933年の11月。タウトは正式に国から頼まれて赴任したので、真剣に提案やデザインの指導に取り組みます。しかし、年度途中での特別受け入れです。指導所側では前年度に立てた計画通りにやらなければいけない。それに対するタウトの批判もあり、またタウトは、外国に迎合したり、きちんとデザインのできていないものをつくるのは間違いで、それをすべて是正していかなければならないと厳しい。日記にもそうした批判が出てきます。

 そういうわけで、タウトは工芸指導所のあり方を嫌ってさっさと辞めてしまったと理解されているようですが、そう単純ではないんです。工芸指導所を辞めた後に、工芸指導所と国立陶磁器試験場の展覧会があるんですが、そのときタウトはいいものがあるとちゃんと評価しています。工芸指導所では、もっと長くタウトに指導をお願いするつもりだったし、タウトも最初は3か月という約束で来るわけですが、その後も工芸指導所の仕事をやってもいいと思っていました。タウトが怒っているということは、それだけ真剣に指導しようとしたということなんです。

□タウトの指導とその後

 工芸指導所でタウトの助手に指名されたのは、のちにインテリアデザイナーの草分け的存在となる剣持勇(けんもちいさむ)(※5)でした。その剣持たちは、タウトの指導のもとに日本人の身体に合った木製の仕事椅子の研究を続け、一緒にテストチェアをつくって実験を重ねました。タウトが去った後にその椅子を完成させています。また、他のチームは、照明についてのタウトの提案文書を絵にして、壁や天井、床などの照明器具とはどういうものかを示し、卓上照明器具を完成させました。タウトが指導所にいたのは出張などを挟んだので実質は2か月ほど。タウトの教えも深かったけれど、学ぶ側の意欲もすごかったと思います。

 タウトは工芸指導所にいる間、東京や京都、岩手の工房を訪ねる出張に出て、工芸品のなかで当時の日本で使えるもの、あるいは輸出できそうなものを探してきました。工芸指導所での最後の日(1934年3月6日)に、タウトは展覧会を文書で提案しています。展示会場の見取り図も添えられていますが、中心に一番いいもの、すなわちタウトが収集してきた日本の工房で古くからつくられてきた工芸品を置き、一番外側には従来工芸指導所でデザインしてきた試作品を展示し、その間に自分と所員たちが研究した成果を展示しなさいと記しています。タウトは決して自分が一番上などとは言っていなくて、古来日本はいいものをつくってきたということを教えてくれています。自分と工芸指導所の若者たちが取り組んだのは中間だと。非常に謙虚ですよね。

 また、タウトは指導所に対して、ものをつくる際、実物や関係資料を集めて研究し、デザインして原寸のモデルをつくり、その都度やり直しをして、最終的に自分たちがOKになったら、外部の人々からなる委員会にかけなさいと言っています。それでそこを通ったら製品化しなさいと。いわゆる外部評価というのをすでに言っているんです。ひとりよがりになるなと。ものづくりの姿勢として偉いなと思いましたね。

 ところでタウトの日記は、仙台のあの時代の市民の様子、まちなかの様子を懇切丁寧に書いた人は意外にいなかったわけですから、民俗学や地域史の資料になると思います。そのタウトの日記の1933年の巻を、昨年ドイツでマンフレド・シュパイデルさんという方が出版したんです。シュパイデルさんは建築の研究者で、日本にも留学していたことがあります。その本には、タウトが描いた絵や撮った写真はもちろんのこと、シュパイデルさんがつくったタウトの行動を示す地図が掲載されていて、今年、1934年の巻も出る予定です。タウトの日記を通して、現在のドイツで仙台を紹介してくれているわけです。タウトについては、そのようなエピソードも添えておきたいと思います。

※5 剣持勇(1912年~1971年)・・・1932年から1955年まで工芸指導所に在籍し、その後独立。1964年、代表作「籐丸椅子」が日本の家具として初めてニューヨーク近代美術館の永久コレクションに選定された。

庄子晃子さん
東北工業大学名誉教授。北九州市生まれ。東北大学大学院修了(美術史学専攻)、ドイツ・ハイデルベルク大学美術史研究所留学。千葉大学大学院にて論文博士の学位取得。仙台でブルーノ・タウトが指導した照明器具の復元などに携わる。東北工業大学工学部工業意匠学科教授を務め、国井喜太郎産業工芸賞、日本デザイン学会賞、日本基礎造形学会功労賞をそれぞれ受賞。共著に『仙台市史特別編3 美術工芸』など。Webサイト「仙台デザイン史博物館」を開設。現在、宮城県教育委員会委員長。

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まちに残されたブルーノ・タウトの目――タウトの日記に思う

西大立目 祥子(にしおおたちめしょうこ)さん
(フリーライター)

□タウトと自分がつながる感覚

 昨年1月に開催された「工芸Designの原点」の展示にかかわったとき、タウトの日記を読んですごくおもしろいと思いました。今私たちが生活している仙台のまちをタウトも歩いて、何かを感じとったり考えたりしているのがダイレクトに響いてきたんです。

 私はまち歩きを続けるなかで、「自分が場所を介して誰かとつながっている感覚」を感じてきました。例えば、七郷堀は今はコンクリートで護岸されているけれど、流れとしては江戸時代からそう変わってはいない。そこを歩くと、夏にたっぷり水が流れているのを江戸時代の誰かも見ただろうとか、広瀬川でも、いろんな人がほとりを歩いて水や空を眺めたり、橋を渡ったりしたんだろうとか。辛いことも嬉しいこともかかえてこのまちに生きて死んでいった人に思いが至り、自分もそのひとりだという感覚が生まれてきたんですね。家族がいても友人がいても人はひとりで自分の生をかかえて生きるのだと思うけれど、それはこの心細さを幾分かやわらげてくれるものと言えるかもしれません。

 それと同じく、あのブルーノ・タウトもこの都市空間にいて野原を歩いたり風を感じたり、昼休みに農家の人と話をしたり薬師堂まで散歩をしたりしていた。薬師堂がいい例ですが、タウトが仁王門の前に大きな草鞋(わらじ)が下がっているのを見たのと同じように、今も草鞋があるんですよね。ああいうのを見ると、「タウトの目がそこに残っている」という感じがします。そういったことが、タウトと自分を近づけてくれると思いました。

 それでこれはタウトの日記でまち歩きができるなと思い、担当の方に話をしたらやってみましょうかということになり、7月にまち歩きを実施しました。

□今必要なタウトの視点

 タウトが来た1933(昭和8)年の仙台は、けっこうモダンな都市だったと思います。タウトはバス通勤していますが、まちにバスが走って市電や仙石線・仙山線が開通して、国の出先機関ができ都市の基盤が整い、図書館や陳列所など洋風の建築が建ち、洋装の人も行き交う。そんなところをタウトは歩きまわり、そのとき何を感じたのかを日記に具体的に記しています。

 タウトは建築家としてドイツを中心に活動してきて、その頃のヨーロッパは古い建築様式を否定してモダニズムを模索している時代だったと思うのですが、タウトは日本に来て西洋風の建築を「いかもの」って批判しているんですよね。厳格な様式の中でもがいてきた人の目には、日本の大工さんが外側を真似てつくった建築がおそらく気持ち悪かったんだろうなと(笑)。そういう感覚でもって仙台の洋館も眺めたんだろうなと思います。

 当時、外国のものを受容して一生懸命模倣しながら西洋に追いつこうという風潮がまちにも溢れていたと思うのですが、それをタウトは一蹴して、日本の昔ながらの農家が美しいと言っていたりする。なぜ日本のなかで磨かれてきた様式を捨てて西洋のものを形だけ真似るんだ、とタウトは思ったのでしょうが、その視点はもしかしたら今必要なものかもしれないとも思います。

□「記憶の目」を残すために

 私がまちを歩いて「誰かとつながっている」という感覚を持ち得るのは、やはり何かが残っているからだと思います。

 タウトが見たもの、例えば乳銀杏などは残っているので、それを今見るとタウトとダイレクトにつながる感じがするけれど、戦後、宮城野原には球場や貨物ヤードができて野原が失われてしまい、タウトがどのように歩いてここで何を思ったか、それに思いをはせるには距離を感じてしまいます。

 工芸指導所のあたりは丘になっていて、もともとX橋を越え狭い道を上がっていくと、そこに丘の森があらわれるという感じでした。タウトも、土地の高低差や上り詰めて丘が広がる感覚をきっと感じていただろうと思います。それが近年大きな都市計画道路が通り、下から丘が見通せるようになってしまった。工芸指導所のまわりをどのように歩こうか、7月のまち歩きの下見をしていたときに、その光景を見て、ついに丘も失われたのだなとあらためて思い、野の喪失と丘の喪失というものを強く感じました。

 タウトが見たものを残していかないと、タウトの目が失われる。タウトに限らず、いろいろなものが壊されることによって、誰かの「記憶の目」が失われてしまいます。壊されれば、誰ともつながりようがないのです。だから、さまざまな時代の痕跡をかすかなものでも残していきたいと思っています。

西大立目祥子さん
フリーライター。仙台市生まれ。宮城県内を中心に、住民による地域づくりや雑誌づくりに関わる。「地元学」の視点で、仙台市内のまち歩きを続けてきた。2006年、市民有志で「まち遺産ネット仙台」を結成、歴史的建造物の保存活動に取り組む。著書に『仙台とっておき散歩道』(無明舎出版)、『寄り道・道草 仙台まち歩き』(河北新報出版センター)、共著に『写真帖 仙台の記憶』(無明舎出版)。

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タウトとその周辺を知る① タウトと東北帝大の教授たち

 タウトは仙台で東北帝国大学(現・東北大学)の教授たちとも交流していました。タウトの招聘に協力した美学者の児島喜久雄(こじまきくお)をはじめ、医学者・太田正雄(おおたまさお)(詩人の木下杢太郎(きのしたもくたろう))、法学者の勝本正晃(かつもとまさあきら)など、その名前はタウトの日記にも登場します。それらの教授たちは風流の遊びに通じていたようで、仙台文学館の渡部直子学芸員によれば、「昭和初期の仙台には娯楽が少なかったこともあり、東北帝大の教授たちは市内の料亭や互いの家に集まって日本画や書を書いたり、松尾芭蕉や井原西鶴といった古典の研究会などを催し、楽しんでいました」。

 その集まりにタウトも招待されています。仙台を離れる直前の1934(昭和9)年3月、料亭「春日」(現在の青葉区本町にあった)で催された教授たちの酒宴に参加したタウトは、宴会の途中で筆をとって絵を描きはじめる彼らの様子を日記に記しています。

 そのような席で描かれた教授たちの書画作品が現在、仙台文学館に所蔵されています。「勝本教授のご遺族から寄贈されたもので、そのなかにはタウトの色紙も含まれていました」と渡部さん。タウトと教授たちの交流、昭和初期の教養人たちの集いをしのばせる貴重な資料となっています。

仙台文学館で所蔵するタウトの色紙。タウトの日記に「夜、色紙を六葉描く、先夜、私を招いてくれた教授たちに贈るもの」とあり、そのうちの2枚と思われる。
1枚の裏面には勝本教授による覚書(左)が記されている。その上部に鉛筆で書かれた「Herr prof.Katsumoto!」の字(右)はタウトによるものか?

ここで紹介したタウトの色紙や、タウトと交流のあった東北帝大教授たちの書画が下記の日程で展示されます。期間限定ですので、お見逃しなく!
日程/2014年9月30日(火)~12月27日(土)
※休館日=月曜日(祝・休日は開館)、祝・休日の翌日(10/14は開館)、第4木曜日(12/25は開館)
開館時間/9:00~17:00(入館は16:30まで)
会場/仙台文学館常設展示室(仙台市青葉区北根2-7-1)
観覧料/一般400円、高校生200円、小・中学生100円(各種割引あり)
[お問い合わせ]仙台文学館 ☎022-271-3020

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タウトとその周辺を知る② 「モノと暮らす」~仙台のものづくりを見つめる

 タウトも在籍した仙台の工芸指導所では、地域に根差す手工芸の近代化を目指して研究・指導がなされました。仙台を代表する伝統工芸・玉虫塗の技法も、工芸指導所で発明されたものです。

 そのような、仙台で紡がれてきた多彩なものづくりの背景を紐解きながら、震災を経た今だからこそ問える「ものづくりの視点からの<暮らし>」について考えるプロジェクトが「モノと暮らす」です。

 これまでに、工芸指導所に関する企画展やトークイベント、タウトの足跡をたどるまち歩きなどを実施しました。

 今後も、仙台のものづくりの歴史と現在を知る、ものを通して暮らしを考える、さまざまなイベントを開催していく予定です。情報は随時ウェブサイトにアップしますので、チェックしてみてください!

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ブルーノ・タウト 略年譜

1880年 5月、東プロイセンのケーニヒスベルク(現・ロシア連邦カリーニングラード)で生まれる。
1897年~1908年 専門学校や大学で学びながら建築の実務に携わる。
1909年 ベルリンでタウト・ウント・ホフマン建築事務所を設立。アパート、事務所、レストラン、映画館等の建築を手がける。
1921年 ドイツ・マクデブルク市の建築部長となる。
1930年 ベルリンのシャルロッテンブルク工業大学(現・ベルリン工科大学)の教授となる。
1932年 4月、モスクワで建築設計に携わる(~33年2月)。
1933年 3月、ナチス政権を逃れベルリンを出発。欧州数か国を経てソ連に入国。モスクワからシベリア鉄道でウラジオストクへ。天草丸に乗船し、5月3日、福井県敦賀港に入港。11月、仙台の工芸指導所に勤務(~34年3月)。
1934年 5月、著書『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』出版。7月、群馬県高崎に移り、工芸品の設計と製作の指導に携わる(~36年10月)。
1935年 5月、北陸、東北を旅行。10月、『日本文化私観』出版。麻布大倉邸、熱海日向別邸を設計。
1936年 2月、秋田を旅行。10月、日本を発ちトルコへ向かう。国立芸術大学の教授を務めるかたわら、多くの建築を手がける。
1938年 12月、イスタンブールで死去(58歳)。

<主要参考文献>
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳『日本の家屋と生活』 岩波書店 1967年
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳『建築芸術論』 岩波書店 1970年
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳『日本 タウトの日記』1933年・1934年 岩波書店 1975年
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳『日本美の再発見』[増補改訂版] 岩波新書 1988年
ブルーノ・タウト著 森 郎訳『日本文化私観』 講談社学術文庫 1992年
ブルーノ・タウト著 篠田英雄訳『ニッポン ―ヨーロッパ人の眼で観た―』[新版] 春秋社 2008年
井上章一著 『つくられた桂離宮神話』 講談社学術文庫 1997年
酒井道夫・沢良子編 『タウトが撮ったニッポン』 武蔵野美術大学出版局 2007年
田中辰明著 『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』 中公新書 2012年
『ブルーノ・タウトの工芸 ニッポンに遺したデザイン』 LIXIL出版 2013年
『仙台市史』 特別編3 美術工芸 仙台市 1996年
『仙臺文化』 創刊号、第3号 『仙臺文化』編集室 2005年、2006年
企画展図録『なつかし仙台 3』 仙台市教育委員会・仙台市歴史民俗資料館 2013年
「工芸Designの原点 仙台発・国立工藝指導所をめぐる物語」パンフレット 仙台市市民文化事業団 2013年

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『季刊 まちりょく』は、(公財)仙台市市民文化事業団が2010~2021年に発行していた情報誌です。市民の方が自主的に企画・実施する文化イベント情報や、仙台の文化芸術に関する特集記事などを掲載してきました。『季刊 まちりょく』のバックナンバーは、財団ウェブサイトの下記URLからご覧いただけます。
https://ssbj.jp/publication/machiryoku/