連載・コラム

能‐BOX開館記念 仙台と能楽  ―『季刊 まちりょく』特集記事アーカイブ

『季刊 まちりょく』vol.5掲載記事(2011年12月15日発行)※掲載情報は発行当時のものです。

倉庫を入ると…
なんと、能舞台が!

Q ここは一体どこでしょう…?
A 仙台市卸町にオープンした「能-BOX」です

開館式ではまずおごそかに素謡(舞や囃子を付けずに謡だけ演奏する形式)「神歌」が演じられました。

 仙台市若林区卸町にオープンした「能-BOX」は、イベント倉庫として親しまれてきた協同組合仙台卸商センター所有の倉庫を改修し、市民の方から仙台市に寄贈された能舞台を移築した施設です。

 この能舞台はもともと観世流同好家の方が青葉区小松島に稽古用として昭和51年に建造したもの。三間(5.4m)四方の正式な能舞台よりひとまわり小さい二間半(4.5m)四方の大きさですが、市内の能楽関係者の間で「小松島能舞台」の名で親しまれてきました。仙台市ではこの舞台の寄贈を受け、仙台卸商センターと共同で整備を進め、「橋掛り」「舞台屋根」を新たに設けたり、舞台上の「後座(あとざ)(正面奥、囃子方が座る場所)」「地謡座(じうたいざ)(客席から向かって右、地謡方が座る場所)」と呼ばれる部分も幅を広げるなどの改修工事を行いました。

 途中、東日本大震災の影響があったものの、無事8月25日に開館式が行われ、舞台ゆかりの観世流能楽師・津村禮次郎さんらによる素謡、仕舞や太鼓とのコラボレーションが披露されました。

続いて仕舞(面や装束を身に付けることなく、囃子も参加しないで行う舞と謡だけのパフォーマンス)が披露されました。(左から坂真太郎、山中 晶、津村禮次郎)
セレモニーの後半は、和太鼓ユニット「Atoa.」の演奏と津村さんの舞のコラボレーション。この舞台は津村さんが主宰する「緑泉会」の仙台での稽古場としても使用されていました。正面の鏡板に描かれた老松は津村さんの筆によるもの。
能「石橋」 シテ:津村禮次郎

 8月のセレモニーを経て、10月15日には能-BOX開館記念公演が行われました。題して「石橋(しゃっきょう)+Shakkyou—津村禮次郎×森山開次」。この能舞台ゆかりの津村さんによる古典作品「石橋」と、コンテンポラリーダンスの鬼才・森山開次さんが古典の「石橋」からインスピレーションを得て創作したというダンスのコラボレーションです。

「仏の力を称(たた)え烈しい獅子の舞。跳躍と頭(かしら)という赤い頭髪を烈しく振りつづける所作が見ものだが、実際に演じると吐き気を催すほどだ。こんな舞はこの『石橋』のほかにない」
(津村禮次郎著『能がわかる100のキーワード』(小学館)より)
創作作品「Shakkyou」
演出・振付・ダンス:森山開次 舞と謡:津村禮次郎
この舞台を稽古場として30年来使用していた津村さんは、「こんなふうに再生されて懐かしい。今回はこの舞台の再生であるとともに、震災からの復興を願う公演という思いで臨みました」。森山さんの感想は「こぢんまりとしていますが、すごく気持ちのいい空間です」。

舞台写真:佐々木隆二


 能「石橋」は、能の分類において「五番目物」と呼ばれる、鬼や獣の霊など人間ではない異類が登場する能の代表的な演目です。

 舞台は中国の聖地・清涼山(しょうりょうぜん)。仏跡を巡る旅の法師・寂昭が山の石橋にたどり着くと、樵(きこり)の少年(老人の場合もある)が現れ、橋の向こう側は文殊菩薩の浄土であり、この下は深い谷であるので容易に渡ることはできないと語り、姿を消します。その後、文殊菩薩の使いである霊獣・獅子が現れ、紅白の牡丹が咲き誇る石橋の前で豪壮な舞を舞った後、文殊菩薩のもとへ帰っていきます。

獅子舞が演じられる後半部分のみを上演する「半能」形式で演じられることも多く、演出によって獅子が2頭や4頭になる場合もあるなど、壮麗でダイナミックな舞が魅力の作品です。歌舞伎舞踊の「連獅子」はこの「石橋」を基にして創られました。

初心者でも能の醍醐味を味わうことができる演目ですが、演じ手(シテ)にとっては表現力や体力を要求される重い作品です。


 能-BOXは今後、同じく卸町にある演劇系練習施設「せんだい演劇工房10-BOX」の別館として、能楽をはじめとする伝統芸能はもちろん、市民の方々の多様な文化活動にお使いいただくことを目的に運営を行っていきます。ご利用の方法などについての詳細は、せんだい演劇工房10-BOXにお問い合わせください。

◆せんだい演劇工房10-BOX
TEL.022-782-7510
ホームページ http://www.gekito.jp/

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仙台で能楽を受け継ぎ、伝える

仙台市能楽振興協会・萩原邦明会長に聞く

 藩政時代から能楽(能・狂言の総称)が盛んな街であると言われる仙台で、昭和25年から60年以上にわたり能楽の普及・振興を目的に活動を続けている仙台市能楽振興協会。現在、協会の会長を務める萩原邦明さんに、仙台の能楽についてのお話やご自身の思い出話をうかがいました。

流派を超えた活動

 仙台市能楽振興協会は、昭和25年9月に「仙台能楽協会」として発足しました。その後、「宮城県能楽協会」、「仙台市能楽協会」と改称し、平成21年5月に現在の名称となり今に至ります。会員は能の各流派(喜多・観世・宝生・金春・金剛)の方のほか、狂言や囃子(はやし)の方も含め、現在約500人ほど。能楽堂設置の働きかけを市に行ったり、毎年、「囃子と仕舞の会」や「市民能楽講座」、瑞鳳殿での「能楽の夕べ」といった公演を開催しています。

 協会ができたとき、会員は100人足らず。催し物をやろうにも財政的に厳しく、東京の能楽師の方が仙台に来て公演をするときなどは、会員達が「皆で応援しましょう」と流派を超えてまとまり、券を売ったりお手伝いをしたりしていました。その気風が今に続いていますが、各流派が一緒になって活動しているのは、他の地域の方々からみると珍しいようです。

藩政時代からの伝統

 かつて能楽は教養として武士階級にも嗜(たしな)まれていましたが、仙台藩では、初代藩主の伊達政宗公が太鼓が得意で、謡(うたい)もうたったし舞も舞ったということで、実際に数多くの能が演じられた記録が残っています。催能で将軍をおもてなしをする時など、時には藩主ご自身で出演されてご覧いただいたりしたようですね。とくに政宗公は、小姓の桜井小治郎(のちの桜井八右衛門安澄)を金春翁太夫のもとで学ばせています。その桜井八右衛門は仙台に戻ってきて名人クラスの能楽師として活躍しました。また政宗公が喜多流の能楽師を保護したことから、仙台藩では金春流と喜多流との結びつきが強くなり、二代忠宗公以後、ますます能楽が盛んになっていったようです。ちなみに桜井八右衛門のお墓は仙台市内の孝勝寺にあり、昨年10月、協会で金春の当代の家元をお呼びして法要を行ったんですよ。

家元、父の思い出

 私の親父は謡と仕舞と囃子をやっていたんです。戦前は遠藤善作先生が東京からお出でになって親父に教えてくれていました。私も7歳からお稽古をさせられたんですが、イヤでイヤでねぇ(笑)。戦争が激化し、先生が東京から来られないようになって、それで私は助かったんです(笑)。昭和22年、親父が木原康次師の取立によって師範の資格を取りまして、その披露のため9月14日に能の会を開いたんです。戦後間もない頃ですから能舞台も何もなくて、宮城学院の講堂をお借りしての演能となりました。そのときの出演者は観世流の家元をはじめ高名な能楽師で、今考えると錚々(そうそう)たるメンバーが出演してくださったのですね。打ち上げ会を自宅でしたのですが、お燗番をしたことを覚えています。当時の家元は25世・観世元正先生。そのとき18歳でお酒が飲めませんでしたから、「何か召し上がりたいものはありますか」と聞いたら、「アイスクリームが食べたい」とおっしゃった。ちょうど東京の精養軒に勤務していた叔父がいまして、そのとき手伝っていたので、すぐに作ってくれたんですよ。

 時間がたって平成元年、仙台市制100周年記念の催しに能を入れるというので、相談がありましたので、私の恩師の木原康夫師を通して、家元にご依頼し日程を調整していただきご承諾を得ました。公演前の打ち合わせ会の後、懇談の機会があり、家元と親父との関わりがあった当時のことを覚えていてくださってねぇ。「あのときのアイスクリームの味は忘れられません」と。それに「お父さんにずいぶん面倒を見てもらったから」と、親父が昭和22年に披露した「松風」という曲を想い出されて選定され、100周年の記念の舞台で演じてくださったと伺い感激しました。その後間もなく家元は福岡で急逝されてしまうのですが、仙台ではいい思い出を作ってくださったと思っています。

私が考える能楽の魅力

 私は学生時代はバスケットボール部に入って、「今日は部活だから」と言っては能楽のお稽古を休んでいました(笑)。親父は私が16歳のときに亡くなったのですが、その後社会人になって市役所に入ってから、そういえば外での親父がどんな人だったか全然わからないな、ということに気づいたんです。事業家だった親父はやがて政治面にも手を出して、稽古日以外は家に全然いない人でしたからね。能楽についての話は親父のお弟子さんに聞いたりしているうちに、「あなたもお稽古をしなさいよ」と言われ、ちょこちょこと勉強し始めました。

 でもそうやって稽古をしていくうちに、親父が能に心酔した理由が分かるような気がしてきました。謡は美しい日本の言葉で魅力的な文章がたくさんありますし、舞には型があってそのときにはどういう心情をどのように表現するのか。心情と型が合致したときの場面の表現は聴いていて本当に素晴らしいなぁと思います。

 私個人のことを申しますと、昭和35年から59年まで木原康次先生に師事しまして、昭和60年から平成18年までは、ご子息の木原康夫先生に師事いたし、能楽における品位とか優雅さを教えられ、その上曲目のそれぞれが持っている繊細な趣きを表すようご指導をいただきました。なかなか大変でしたよ。

 そのような経過によって、平成11年に観世流宗家・観世清和家元より名誉師範のお許しをいただいたわけです。

 平成16年、流派の振興・発展のためといわれて指導側になりましたが、ご教示いただいた万分の一でもお伝えできているかどうか疑問の状態が続いております。

仙台の能楽の現在

 今、仙台で能楽を教える資格を持っている方は各流派合わせて60人ぐらいはいますが、習いたいという方は震災のためかぐっと減りましたね。私はカルチャー教室やボランティア活動で謡を教えていますが、会員の中には経験年数が違う方と一緒になる場合もあって、まったくの初心者の方は最初なじめないこともあります。「腹から声を出せばいいんですよ」なんて言っても出しようがないのは当たり前(笑)。私は初心者の方には口伝えでお教えして、だんだんと習得していけば発声ができるようになっていくのではと思います。

 現在、市内のホールで能を公演する場合は「置き舞台」という形式の舞台をしつらえています。能楽堂の見所(けんじょ)(客席)はL字型ですので、演者の動きが平面的にそして立体的に見えるので一段と興味が深まります。仙台にも、私達の積年の夢である本格的な能楽堂をぜひ造っていただきたいとは思いますが、震災復旧が先ですね。オープンしたばかりの能-BOXは開館記念イベントもありましたが、協会でもさっそく「囃子と仕舞の会」で利用させていただく予定です。各流派の方々にも積極的に使っていただきたいというお話をしています。

 私達の使命は能楽の振興や普及です。そして、政宗公から続く仙台の能楽の伝統を、次の世代に受け継いで行くことです。2月には市民能楽講座を開催しますから、ぜひ多くの皆さまにご来場いただき、能楽に関心をもっていただきたいですね。

(2011年10月24日取材)

萩原 邦明(はぎわら くにあき)さん 

1933年仙台市生まれ。仙台市役所入庁後、教育局体育振興課長、市立病院総務課長、太白区福祉部長などを歴任。現在、仙台市能楽振興協会会長、仙台観世会会長、仙台木原康謡同門会代表などを務める。観世流名誉師範。

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コラム

◎仙台城の能舞台

 江戸時代には、徳川幕府が能楽を「式楽」(儀式に用いられる音楽や舞踊)としたことから、武士にとって能楽は必須の教養でした。大名の居城やお屋敷には能舞台が設けられ、行事や饗応の際はそこで能楽が演じられたそうです。

 さてさて、われらが仙台城は? というと、もちろんありましたとも能舞台が! 仙台城本丸にあった大広間の前面に能舞台や楽屋が描かれた絵図が残されており、「入母屋造、杮ないし板葺の構造であった」(『仙台市史』特別編7より)と推測されるということです。また、二の丸殿舎にも能舞台があり、向かい側の小広間から観劇できる造りになっていました。大広間に至っては260畳もの広さ、小広間でも130畳というスケールの大きさ! そこから観る能楽はどんな感じだったのでしょう!?

◎「ランブシュウ」って?

 仙台藩では、能楽をもって藩主に仕える家臣を「乱舞衆」と称したそうです(この場合の「乱舞」は「狂喜乱舞」のランブではなく、猿楽の舞を指すようです)。

 前掲の萩原会長のお話に、政宗の小姓から名人級の能楽師になったという桜井八右衛門安澄の話がありましたが、この八右衛門を祖とする桜井家は代々、乱舞衆のトップ「乱舞頭」を務めました。

 10代藩主斉宗公の時代のこと。このとき乱舞頭だった桜井彼面安明は、藩主の命により「摺上(すりあげ)」という能を初演します。初代政宗公が会津の蘆名氏を破った「摺上原の戦い」をテーマにしたもので、藩主から桜井家の相伝とするようにとの下命を受けた曲でした。「青葉山茂り栄ふる宮城野の草木もなひく千代のはるめてたき御代とそなりにける」とはこの「摺上」のラスト部分。現代の仙台市民でもなじみのある地名が出てきていますね。

◎世界遺産・中尊寺にも……

 2011年、ユネスコの世界文化遺産に登録された中尊寺(岩手県平泉町)は、江戸時代には仙台藩領内にありました。そのため、歴代の藩主が境内の杉並木やお堂の整備をするなど、仙台藩と深い関わりをもっていたのですね。

 中尊寺といえば金色堂ですが、その北側に位置する鎮守社・白山神社をご存じですか? この神社の境内に現存する能舞台は、江戸時代末期の1853(嘉永6)年に仙台藩13代藩主・伊達慶邦公により再建されたもの。東日本においては近世に建造された本格的な能舞台の唯一の現存例とされ、2003年に国の重要文化財に指定されました。この能舞台では、今でも実際に神事能や薪能が演じられています。また、中尊寺には伊達家が奉納したといわれる能面や能装束などが残され、仙台藩における能楽の伝統を今に伝えています。

 仙台の皆さん、中尊寺に行かれた際は能舞台もお見逃しなく!

《参考文献》
『仙台市博物館調査研究報告』第6号[特集・仙台城館および周辺建築復元考](1986年、仙台市博物館)
仙台市博物館編、渡辺信夫監修『図説伊達政宗』(1986年、河出書房新社)
特別展図録『伊達の遺宝』(1988年、仙台市博物館)
『仙台の歴史』(1989、宝文堂出版)
『仙台市史』特別編7「城館」(2006年、仙台市)
『仙台市史』資料編9「仙台藩の文学芸能」(2008年、仙台市)

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インタビュー 津村禮次郎(能楽師)× 森山開次(ダンサー・振付家)

ーー能-BOXは当初2011年7月に開館する予定で、開館記念のステージは古典と創作の組み合わせというオーダーのもと、津村さんは能の「羽衣」、森山さんは「高砂」というお祝いの舞を準備されていたとうかがいました。そのタイミングで……。

森山 震災があり、津村先生が「石橋(しゃっきょう)」のほうが復興に向けた演目として合っているのではないか、と変更されるということで、じゃあ僕も「石橋」をぶつけるといいますか、掛け合わさせていただく形にしました。能の「石橋」は、文殊菩薩を出すことなく獅子の舞によって文殊菩薩の浄土を表現しているんですよね。僕は今年、曼荼羅(まんだら)の特集番組のナビゲーターをさせていただいて、仏教とダンスの共通点を感じていたところに今回の震災が起こり、人間の体で仏の世界を描きたいという思いで、能の「石橋」とは違う角度で観ていただけるような作品を創りました。

津村 芸能や芸術というのは個人の内面から出てくるものですけれども、(今回の震災のように)社会の大きな出来事から影響を受けて、それをがらっと変えたくなるということもあるんですね。今年8月に佐渡で「Shakkyou」を上演したときは躍動感や野獣性を感じさせる和太鼓と笛を使いましたが、仙台での公演ということで音楽を違うものにしたり、だんだんと透明感のあるものに変わっていきました。

ーー森山さんはコンテンポラリーダンス、一方、津村さんは伝統芸能である能と、異色のコラボレーションですね。

森山 僕は津村先生と出会ったことで能というものに出会い、舞人(まいびと)として時間を共有させていただいています。僕の踊りは伝統芸能ではないので“受け継がれたもの”ではないのですが、受け継いでいくことは素晴らしいことで、憧れがあります。僕は能を受け継ぐことはできませんが、表現者が時を超えて刺激しあいながら思いをつなげていくということが僕にとっての伝統だと思っています。

津村 「能」とはもともと「猿(申)楽の能」と言ったり「田楽の能」と言ったりして、パフォーマンスを表す一般的な名詞です。僕としては、広い意味で森山くんの作品やアート全体が能という大きなくくりの中にあると思うんです。僕は猿楽の能を勉強しているので、その技術的・内面的な表現のしかたで能をやり、森山くんはコンテンポラリーの能をやっている。出会って作品を創る中で自分のもっている能は何かということで競合し、お互いに響き合い、理解しあい、高めあっていくんですね。

ーー能は一般的に「難しい」「わかりにくい」というイメージがあって、公演を観に行くためには勉強が必要なのでは、と思ってしまうのですが……。

津村 能に限らず、舞台芸術では、意味はわからないけども「感動した」とか「涙が出た」とかっていうのが根本的に大事だと思うんですね。勉強してわかったというのと感動とは別の問題。お客様に感動していただけるように僕たちができるかどうか、作品がそれだけ力を持っているかどうかも大事です。しかし公演は生(ライブ)ですからね。日本人は時間をとってある程度の入場料を払ってライブに行くという習慣が身についていないと感じます。子どもの頃から親に連れられてオペラを観に行くとか、コンサートに行くとか演劇を観に行くとかいう習慣が身についていればいいのですが。

森山 演劇でも音楽でも何でもそうですけれども、ゾクゾクするとかドキッとするとか笑ってしまうとか、つまらない、わからないということも含めて、場を共有すること、その場にいるということがとても大事なことだと思います。能を勉強しなくても、能独特の時間の流れや、その空間を感じることはできると思うんです。アクションを起こして、何かに向かい合う、出会いに行くということがあってほしいですね。

ーーなるほど。難しそうと敬遠してしまって、せっかくの機会を逃しているかもしれません。まずは感じてみる、場を共有してみるという姿勢で、いろいろな「能」に出会うアクションを起こしてみようと思いました。本日はありがとうございました

(2011年10月15日 能-BOXにて)

津村 禮次郎  つむら れいじろう

能楽師・重要無形文化財総合指定保持者。1942年福岡県生まれ。一橋大学在学中より津村紀三子に師事、その後先代観世喜之に師事。主宰する緑泉会の定例公演のほか、小金井薪能を企画開催。古典能だけでなく創作能、ダンス、和太鼓など他ジャンルのアーティストとのコラボレーション作品も多数。

森山 開次  もりやま かいじ 

ダンサー・振付家。1973年神奈川県生まれ。和の素材を用いた独自の表現世界で知られ、津村禮次郎との作品『弱法師』『OKINA』などで高い評価を得る。国内外での公演活動のほか、演劇・映画・テレビ・写真作品への参加など、幅広い媒体での表現活動に積極的に挑戦している。

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『季刊 まちりょく』は、(公財)仙台市市民文化事業団が2010~2021年に発行していた情報誌です。市民の方が自主的に企画・実施する文化イベント情報や、仙台の文化芸術に関する特集記事などを掲載してきました。『季刊 まちりょく』のバックナンバーは、財団ウェブサイトの下記URLからご覧いただけます。
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