「閖上は、岩沼の親戚の家に行く途中によく通っていたんです。小学校低学年の頃は、閖上で家族とサイクリングしたり、釣りもしましたね」。閖上に向かう車中で、熊谷さんはそう話してくれた。しかし車が海に近づくにつれ、子どもの頃の楽しい記憶は、現実の風景に掻き消されるような感覚になる。
熊谷さんが震災後に閖上を訪ねるのは今回で2度目だという。1度目は2011年4月の初旬、まだ瓦礫があたり一面を覆っている頃だった。それから約9ヶ月がたち、家々の痕跡だけが、真っ青な空のもと、ただただ広がっている。
熊谷さんが震災後に閖上を訪ねるのは今回で2度目だという。1度目は2011年4月の初旬、まだ瓦礫があたり一面を覆っている頃だった。それから約9ヶ月がたち、家々の痕跡だけが、真っ青な空のもと、ただただ広がっている。
2007年、熊谷さんは仙台でタップダンスのワークショップ(WS)を開講した。故郷にタップの種を蒔きたい、という思いで始めたWSだ。それだけ自分が育った街に愛着をもつ熊谷さんは、震災後なかなか仙台に帰ることができず、その間「故郷から離れていることが非常に辛かった」と当時の心境を語る。
4月の初めに帰仙がかなうと、再開したWSで受講生とともにタップを踏み、避難所となっていた名取市文化会館(震災の一ヶ月前に熊谷さんが公演を行った場所)も訪ねた。その後に足を伸ばしたのが、この閖上だった。そのとき目にした瓦礫だけの道に夕日がおちていく風景は、この先ぜったいに忘れないだろう、と熊谷さんは自身のブログに綴っている。以来、人のいのち、それをつなぐ食べ物、エネルギー問題、政治や社会についてなど、さまざまなことを深く考え続けてきた。
真冬の海風は容赦なく強く、冷たい。それでも熊谷さんがこの場所に再び立ったのは、東北に生まれた人間として、ここから新しい歩みを進めていくという思いがあったからだ。
「震災後、東北人は謙虚で我慢強いと世界から評価されましたが、これからは一人ひとりが主張していく番だと思いますし、いま東北の人たちにはそういう権利があると思います。東北から原発に代わるエネルギー供給や環境保全、新しい文化の発信など世界のモデルとなることごとを提案していくチャンスがあるんじゃないか。この宮城にもたくさんの才能溢れる人たちがいるわけですから」
「震災後、東北人は謙虚で我慢強いと世界から評価されましたが、これからは一人ひとりが主張していく番だと思いますし、いま東北の人たちにはそういう権利があると思います。東北から原発に代わるエネルギー供給や環境保全、新しい文化の発信など世界のモデルとなることごとを提案していくチャンスがあるんじゃないか。この宮城にもたくさんの才能溢れる人たちがいるわけですから」
タップダンサーとしても、震災を機に自身の原点を見つめ直した。そして仙台のWSで気づくこともあった。
「震災があっても、WSの受講生たちはタップをやめなかった。それで、みんなが本気だということがわかりました。これからもっとタップダンスを広げていって、生活の中にあるアートにしていきたいです」。5年前に蒔いた種は確実に成長しているようだ。
「仙台でタップフェスティバルをやりたいんです。海外からダンサーを招待して、日本全国から大勢の人たちがタップをしに来たり見に来るような・・・・・・」
津波の跡地を踏みしめる熊谷さんの一歩一歩は、わたしたちの日々の歩みとも重なり合っていくように思えた。
「震災があっても、WSの受講生たちはタップをやめなかった。それで、みんなが本気だということがわかりました。これからもっとタップダンスを広げていって、生活の中にあるアートにしていきたいです」。5年前に蒔いた種は確実に成長しているようだ。
「仙台でタップフェスティバルをやりたいんです。海外からダンサーを招待して、日本全国から大勢の人たちがタップをしに来たり見に来るような・・・・・・」
津波の跡地を踏みしめる熊谷さんの一歩一歩は、わたしたちの日々の歩みとも重なり合っていくように思えた。
掲載:2012年3月15日
- 熊谷 和徳 くまがい・かずのり
- 1977年仙台市生まれ。高校卒業までを仙台で過ごす。15歳でタップダンスを始め、19歳で渡米。ニューヨーク大学で心理学を学ぶ傍ら、ブロードウェイミュージカル「ノイズ&ファンク」の養成学校でタップのトレーニングを受ける。7年間のアメリカ滞在中、ストリートやライブハウスで活動し、グレゴリー・ハインズ(アメリカのタップダンサー・俳優)に絶賛される。帰国後はソロ公演を展開するほか、日野皓正、上原ひろみ、金森穣、ハナレグミといった多彩なアーティストとも共演。現在は東京と仙台でワークショップを開講し、タップの魅力を広める活動も行っている。