木口木版画(※)のアーティストであり、一番町にある絵画教室「アトリエJ」の主宰者であり、さらには、仙台の秋の風物詩「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」実行委員長の経験もある尾﨑行彦さん。「仙台の顔」の一人として知られる尾﨑さんだが、実は生まれは北海道。岩手大学で版画を学び、27歳のときに各種学校の教員として仙台の地を踏んだ。今回の取材で最初に訪れた定禅寺通りは、その学校があった場所。10年間教員を務め、閉校を機に独立してからも、東日本大震災の翌年までこの通りに自身の絵画教室を構えていた。「閉校が決まったとき、北海道に帰る選択肢もありましたが、すでに家庭を持っていたことや、学校の生徒さんが『引き続き先生のもとで絵の勉強がしたい』と言ってくれたこともあって、仙台人として生きる決心をしました」と当時を振り返る。
※木口木版画…硬く密な木(柘植・椿・桜など)を輪切りにした表面 (年輪の部分)の硬質な部分を、ビュラン(銅版や木口版を掘るための専用の彫刻刀)を用いて彫ることで、精密で繊細な表現ができる。
地域の人に受け入れてもらおうと、子どもが通う学校のPTA活動や、定禅寺通りの商店街活動に参加していた尾﨑さん。1991年の「第1回定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、子どもと一緒に観客で参加したが、2回目からは実行委員として運営に携わるようになった。「ジャズフェスは“イベント”ではなく“祭り”。祭りにはお酒が付きものでしょ。会場でビールを売るテナントをやりたくて実行委員になったんです。ジャズフェスは、地域の人が主体となって運営していて、年齢も職業も問わず誰でも実行委員になれます。みんないい祭りにしようという情熱があって、面白いアイデアもたくさん出ましたよ」。
「まちがステージになる」。これは、実行委員が考えたジャズフェスのコンセプト。市民のため、音楽を楽しむためのお祭りで、みんなが主役であることを表している。会場9ヶ所、来場者5000人の規模で始まったジャズフェスは、回を重ねるごとに大きくなり、今では40ヶ所以上の会場で延べ60万人超を動員する一大音楽フェスになった。
2002~2004年の3年間、尾﨑さんは実行委員長を務めている。「実行委員長の話が来たとき、最初は戸惑ったし、正直嫌だったけど(笑)、仙台人として受け入れてもらうために活動してきたから、“認めてもらえたんだな”と感じてうれしかったですね。それで、引き受けることにしたんです」。在任中は、定禅寺通りの一部区間を通行止めにし、車道の開放を実現させた。「通行止めは、当時の藤井黎仙台市長の英断で実現したのですが、道で人が立ち止まったり寝転んだりして音楽を聴く姿を見たとき、涙が出ました」と懐かしむ。
プライベートでは料理が趣味で、大学に合格しなければ料理人の修行をする予定だった尾﨑さん。次に訪れた仙台朝市は、アトリエにも近く週4日以上も通う常連だ。新鮮で安いだけでなく、スーパーマーケットではあまり見かけない食材に出会えるのも魅力。絵画教室の画材をここで調達することもある。「買い物のときは身の上話をすることもないから、私の仕事を知るお店の人はあまりいないけど、画材用にたくさん野菜を買ったりすると『こんなに買ってどうするの?』って言われることも。そんなことから雑談が始まって、今では『先生!』と声を掛けてくれる人もいますよ」。この日も、お店の人に「こんにちは!」と笑顔で挨拶を交わしながら歩いていた尾﨑さん。最近は観光客の姿も増え、平日午前中ながら通りは買い物客でいっぱいだ。「近頃は観光客向けのお店も増えて、少しずつ雰囲気も変わりつつありますね。若者が増えている印象もあります」。
さまざまな絵の具を合わせて色を作るように、食材を組み合わせて自分なりの味付けをする料理もまた、尾﨑さんにとっては日常のアートだ。
2002~2004年の3年間、尾﨑さんは実行委員長を務めている。「実行委員長の話が来たとき、最初は戸惑ったし、正直嫌だったけど(笑)、仙台人として受け入れてもらうために活動してきたから、“認めてもらえたんだな”と感じてうれしかったですね。それで、引き受けることにしたんです」。在任中は、定禅寺通りの一部区間を通行止めにし、車道の開放を実現させた。「通行止めは、当時の藤井黎仙台市長の英断で実現したのですが、道で人が立ち止まったり寝転んだりして音楽を聴く姿を見たとき、涙が出ました」と懐かしむ。
プライベートでは料理が趣味で、大学に合格しなければ料理人の修行をする予定だった尾﨑さん。次に訪れた仙台朝市は、アトリエにも近く週4日以上も通う常連だ。新鮮で安いだけでなく、スーパーマーケットではあまり見かけない食材に出会えるのも魅力。絵画教室の画材をここで調達することもある。「買い物のときは身の上話をすることもないから、私の仕事を知るお店の人はあまりいないけど、画材用にたくさん野菜を買ったりすると『こんなに買ってどうするの?』って言われることも。そんなことから雑談が始まって、今では『先生!』と声を掛けてくれる人もいますよ」。この日も、お店の人に「こんにちは!」と笑顔で挨拶を交わしながら歩いていた尾﨑さん。最近は観光客の姿も増え、平日午前中ながら通りは買い物客でいっぱいだ。「近頃は観光客向けのお店も増えて、少しずつ雰囲気も変わりつつありますね。若者が増えている印象もあります」。
さまざまな絵の具を合わせて色を作るように、食材を組み合わせて自分なりの味付けをする料理もまた、尾﨑さんにとっては日常のアートだ。
仙台朝市での買い物と同様、日課の一つになっているのが、市内を散策しながら梅や柿、イチジクなど季節の実を拾う「生り物」めぐり。住宅の庭木から道路に落ちている実を見つけたときは、家主の許可を得て拾っている。「家の人に声を掛けると、たいてい最初は驚いて、『拾ってどうするの?』と聞いてくるのですが、ジャムや梅漬けにすると伝えると、持て余している家も多くて快く了解してくれますよ」。この日は、道に落ちているオニグルミの果実から固い殻を取り出し、手際よく袋の中へ。それをしっかりと洗い、一晩水に漬けてから乾煎りし、空いた隙間に刃を入れると、きれいな実が現れる。砂糖がけや佃煮が仲間内に評判だ。
「絵画教室の生徒さんにデッサンを教えるときは、画材のフォルムなどをよく見ることと、ものが持つ本質を見る目を養うことを伝えています。デッサンをする目でまちを歩いていると、単なる道路でしかなかった通りにも生り物が多いことに気づいて、普段とは見ている景色が変わるんです」。
「絵画教室の生徒さんにデッサンを教えるときは、画材のフォルムなどをよく見ることと、ものが持つ本質を見る目を養うことを伝えています。デッサンをする目でまちを歩いていると、単なる道路でしかなかった通りにも生り物が多いことに気づいて、普段とは見ている景色が変わるんです」。
収穫したクルミの袋を抱え、尾﨑さんは南町通りにあるビルの一室に案内してくれた。室内の棚には、ジャムやコンポート、梅干しなどの瓶がずらりと並ぶ。
ここは、尾﨑さんの絵画教室であり木口木版画を創作するアトリエ。秋になると、専用の道具を取り出し、ひたすらクルミの実を取り出すのもこの場所だ。版画は奥にあるデスクで創作する。
ここは、尾﨑さんの絵画教室であり木口木版画を創作するアトリエ。秋になると、専用の道具を取り出し、ひたすらクルミの実を取り出すのもこの場所だ。版画は奥にあるデスクで創作する。
尾﨑さんのライフワークとも言える作品が、30年以上続く「25㎡との出会い」シリーズ。缶詰やきびだんご、地下足袋など、生活の身近にあるものを5cm四方で表現した木口木版画だ。温かみのある作風で、これまで800点以上の同シリーズを摺り上げた。
シリーズ化のきっかけは、娘さんのランドセルをモチーフにした版画だった。作品を見た人が次々と、ランドセルにまつわる自分のエピソードを話してくれたという。「本来、絵は作家のメッセージを伝えるものだけど、作者の意図よりも、自分の思い出と重ねて作品を見ているんだと感じたんです。もっといろんなモチーフを彫れば、誰かのかけがえのない思い出とつながれるのではないかと考えました。このテーマが見つかったときに、“自分は画家を名乗っていいんだ”と思いましたね」。
日常の風景一つひとつを大切にする尾﨑さんは、これからも仙台でアートと共に日々の暮らしを楽しむ。
日常の風景一つひとつを大切にする尾﨑さんは、これからも仙台でアートと共に日々の暮らしを楽しむ。
掲載:2025年12月12日
取材:2025年10月
取材・原稿/関東 博子 写真/寺尾 佳修
- 尾﨑 行彦 おざき・ゆきひこ
- 北海道札幌市生まれ。岩手大学教育学部特設美術科を卒業後、27歳で仙台へ。各種学校で絵画の教員を務めたのち、自身の絵画教室を立ち上げる。定禅寺ストリートジャズフェスティバルの実行委員に加わり、2002~2004年は実行委員長として活躍。現在も公益社団法人 定禅寺ストリートジャズフェスティバル協会理事として同フェスティバルに関わる。また、南町通りの「アトリエJ」にて絵画教室を主宰。

