
八重樫仙台タンス金具工房
八重樫 榮吉
八重樫 仁子
職人の傍らには、たいてい表立つことなく寄り添い、ともに歩んできた人の存在がある。仙台箪笥(たんす)の金具職人、八重樫榮吉さんが仕事に専念できるよう、日常のことから訪問客のもてなしまで心配りしてきたのが妻の仁子(としこ)さん。会社勤めの家庭に育ち、結婚後は家事と子育て、時に榮吉さんの仕事の補助も行ってきた。金具職人とともに過ごしてきたお話しを伺いたいという依頼に「当たり前のことをしてきただけ」と、困惑しつつ引き受けてくださった。仁子さんの歯切れのよい語り口と折々に見える毅然とした姿勢からは、榮吉さんの仕事への信頼と、互いに補い合いつつ裏方に徹してきた矜持(きょうじ)のようなものも伝わってくる。金具職人と60年近い日々を紡いできた家族の思いとは――。
音で、その日の調子がわかる
――榮吉さんとご家族の1日の生活は、どのような流れだったのでしょう。
仁子:
結婚して下飯田(仙台市若林区下飯田)に住み始めた昭和50年ごろから独立するまでの16年間、主人は工房があった南小泉の中倉(現・若林区中倉)の実家へ、自転車で片道40分かけて通っていました。うちはみんな朝が早くて、娘2人も子どものころから朝4時、5時には起きて、主人は朝7時に家を出て帰ってくるのは夜8時ごろ。遅いときは夜11時ごろまで仕事をしていたこともあったから、子どものお風呂も私が一人で入れていたんですよね。主人は仕事がら、鉄の粉がお風呂の底にたまるくらい体に付くから、お風呂は毎日欠かせないんですよ。
仕事は一応、月2回休みとはなっていたけど、職人の仕事はその時々の注文の入り具合によって変わるから。当時も今も、定休日は決めていないんです。予定を組んでも実現した試しがなくて。子どもたちが小さい頃、5月の連休の朝、急に主人が「今日は休む! ここに行こう」と言い出したこともあって、常にそんな感じ。だから、家族みんな臨機応変で動きが早いの。
――お子さんも素直に従うんですね。
仁子:
子どもたちは親に迷惑をかけちゃいけないと思っていたみたい。とにかく自立、自立という感じで、弱音も吐かないし、愚痴も言わない。
――それは、榮吉さん譲りですか。
仁子:
愚痴は言わないけど、お義母さんに「榮吉、グズグズ言わねっかあ?」って聞かれたことあるのね。ずっと後になって、これのことだなと思ったけど、もう忘れちゃった(笑)。
お義母さんとは、あまり長いこと話はしなかったけど、小柄で着物を着て、身なりもきちんとしていて。所作がきれいで、でんと落ち着いている感じだった。
榮吉:
おふくろから、よく言われたんだ。「職人で作業場だの汚くしてっとこは、いい仕事してない」って。だから、仕事が終われば、全部拭き掃除をするの。


――作業場の音は、母屋にいる仁子さんにも聞こえるのですか。
仁子:
聞こえる。主人が55歳で独立して、この自宅脇の作業場で仕事をするようになった時がね、一番気分がルンルンだったの。朝早く4時ごろから起きてね。トントントントンと、鏨を打つ音が弾んでいるの。それとリズムね。
調子が良いときも、逆に仕事が進まないときも、音やその調子からわかる。でも、なんとなく感じることはあっても、それは私からはあまり言わない。やっぱり人間だからね、その時の体の調子もあるから。
――仁子さんが榮吉さんの手伝いで、引手(ひきて)を押さえていたり、くぎを作っていたりしたこともあったと伺いました。
仁子:
私は不器用だから、どこに力を入れていいかコツがわからないのよ。最初は筋肉痛になるくらい力を入れていたのね。主人がもっと理論的に作り方を説明してくれればと思うんだけど、それが通用しないんです。でも、見て覚えるのが一番いいのかもしれないね。だんだんできるようになってくるのが、体で覚えられるから。時間はかかるけども、ちゃんと身につく。

あくまで「生業(なりわい)」
――榮吉さんも仕事が体にこたえることもあるでしょうね。
仁子:
整骨院に通っているの。昔は、子どもたちや私がマッサージしたこともあったけど、普通のもみ方では効かないらしくて。整骨院でも、かなり強くもんでいるみたい。
――もう仕事を辞めようかと思ったことはありましたか。
榮吉:
それは、思わなかった。
仁子:
東日本大震災の浸水被害を受けたとき、私は「もう辞めよう」って言ったの。あの時、主人は75歳だもんね。年のことを考えて、ここの後始末とかも考えて。でも、近所のみんなが泥掃きしたり、食べ物を持ち寄ったりしてくれたの。商工会議所の人も、いち早く飛んできてくれて。
榮吉:
「仕事やれ、やれ」って。そのおかげもあるけど、でも自分としては辞めるっていう考えは1回もなかった。この仕事を続けていくことは、自分の中でずっと決めていたんだよね。


――仕事を通して得難い出会いやご経験もあるでしょうね。
仁子:
取材を受けたり「立派だね」と言われたりすることもあるけど、みんなと一緒、生業よ。生活を支えるための仕事なの。お金をいただいて仕事をするのだから、どなたであろうと同じお客さま。いいかげんなことは、できない。お金は、あくまで自分たちが生活できればいいという考え方で、それよりも、お客さまの期待に恥じない、いいものを作ってきたということは言えると思う。

――榮吉さんの金具は、やはり違いますか。
仁子:
それは、テレビを通して見たとき、よくわかるの。手打ちと鋳物で、全然映りが違うのよ。
――お客さまからの電話は、仁子さんが対応されるのですか。
仁子:
お客さんから電話がかかってくると、必ず主人に代わるんです。お客さんが職人と話したいというのもあるし、主人も直接やりとりすると体で覚えるから。それと、主人の方が声もソフトだし、なるべく間を置いて話すから、スムーズに物事が成り立っていく。職人としての間合いが、染みついているのね。

仕事に専念できるように
――榮吉さんが作業場にいる間、仁子さんの日常は?
仁子:
父が遊びに来た時「なんで走って歩くんだ」なんて言われるくらい、うちの中を急いで走り回っていたの。コロナ前まで、常にお客さんが来ていたんだよね。お客さんが4組一斉に重なったこともあるの。電話も多くて、台所にちゃんと立つ時間もなかったくらい。県外から来たお客さんには、やっぱり仙台にいい印象を持ってもらいたいから、おすすめのお菓子を買いに行ったり。「かまぼこは、どこがおいしいの?」って聞かれたら「ここのは歯ごたえがいい」とか「味は、ここがいい」とか言えるようにして。
50歳を過ぎたとき、すごく忙しくてね。熱を出して1カ月ちょっと入院したの。主人は家事ができる人だから、私は全然心配していなかった。ただ、仕事だけね、ちゃんとしてもらうように「仕事に専念してちょうだい」って言っていたの。なのに、毎日お見舞いに来るから。
榮吉:
やっぱり落ち着かないんだよね、いないと。全然違うね。
――榮吉さんが仕事に専念するために、心がけてきたことはありますか。
仁子:
健康のことがあるから、食べ物だけは気をつけようって。とにかく筋肉を使うから、動物性たんぱく質と植物性たんぱく質をとるように。それと野菜。具をいっぱい入れて味噌汁を作って。朝はパンでも味噌汁を作るしね。
結婚して驚いたのは、八重樫家ではお昼にもきちんと味噌汁を作っていたこと。職人で汗をかくから、味は濃いめだったね。塩分に気をつけるようにしていたけど。でも、主人ももう90歳近いから、健康にいいとか悪いとか、あまりこだわりすぎないことにしたの。
――食事以外に、何か気をつけていることは?
仁子:
主人は何かあると、それを解決しないと仕事が進まないタイプなんです。雪が降れば、雪掃きしてから仕事に取り掛かるとか、料理も気が向くと急に作り始めるとか。金具の仕事をする前、ホテルのレストランに4年間勤めていたから、コンソメスープを作るとなると1日中鍋に張り付いているんだもん。ほかにも、その季節ごとに、植木屋さんになったり、金魚屋さんになったり。「何のために庭を一生懸命に作ってるの?」って聞いたら「庭もおもてなしだよ」って言うんだよ。なるべく仕事をしてもらわなきゃいけないので、ほかのことに時間を取られないように、雪が降ったら主人より早起きして雪掃きしておくとか、主人がいないときを見計らって草取りするとか。
あと、うちでは表彰式には必ず主人一人で行かせるの。というのは、ああいう場に行くと疲れて帰ってくるんだよ。だから、ちゃんとお風呂を沸かして、ごはんの用意をして、帰ってきたら、すぐくつろげるようにしている。それが職人の家庭です。

――榮吉さんご自身は、こういうふうにありたい、というのはあるんですか。
榮吉:
思いは、いろいろあっけどもね。ただ、年のことを考えたことないんだよ。まだ(気持ちは)60歳だから(笑)
仁子:
60歳だったら、もっとちゃっちゃっと仕事してください(笑)
