インタビュー

まだらな記憶を
いそいそとマンガに。

マンガ家・宮崎夏次系

各界から注目を集める新進気鋭のマンガ家・宮崎夏次系(みやざき なつじけい)さんは、宮城で生まれ育ち、高校まで仙台で過ごしました。そして今も、地元で作家活動を続けています。
宮城でどのような幼少時代を過ごし、学生時代は仙台の街に何を感じてきたか、そして今は地元の環境がどのように創作活動につながっているのか。
この「まち」が宮崎さんの作家性に与えている影響などをメールインタビューでお聞きしました。

幼少の頃について

宮崎さんは宮城県出身ですよね。生まれ育った町は、どのようなところでしょうか。

私が生まれたのは田んぼの町です。カントリーエレベーターというお米の貯蔵庫みたいな建物がポツンと立っているのが宇宙船のようで好きでした。

幼少時代は、どのような子どもでしたか?好きだったことや、苦手だったことなどをお聞きしたいです。

テレビに出ている人を、近所の人が何役も分担してやっていると思い込んでいました。親戚の叔父さんがテレビに出るときだけ加山雄三役をやってるのかなぁなど。
苦手だったのはマラソン大会とマシュマロです。
小さい頃は、NHKの『つくってあそぼ』を観ながら工作をテレビの前で一緒によくやっていて、将来はワクワクさんになりたいと思っていました。

“絵を描くこと”には、いつごろから興味を持ち始めましたか?

小学校1年生の時の算数の教科書に載っているイラストカットが好きで、真似をしてプリントの脇などに描きました。絵本の『わかったさん』シリーズの永井郁子さんの絵や、友だちが貸してくれた下敷きの絵などを写して宝にしていました。

幼少時に描いた、公園の絵
幼少時に描いた、地獄の布絵

マンガとの出会いはいつごろでしょうか。

幼稚園児の頃、『クレヨンしんちゃん』のマンガを初めて買ってもらい、うれしすぎて、“ケツだけ星人”など人目をはばからずとにかく真似をしていて。大人に、しんちゃんの技を知ってほしくて、歯医者の待合室などで知らないおばあちゃんに『クレヨンしんちゃん』の話をしていました。家族にやめろと叱られていました。

中学・高校時代

学生のとき、仙台に足を運ぶことはありましたか?

中学生の頃、高校入試のために仙台美術予備校に通いました。お昼に友達とコンビニでおにぎりを選んでいる時、ここは都会だなぁと思いました。

宮崎さんは、宮城野高校美術科ご出身とお聞きしました。この学校を選んだのは、どういう理由からでしょうか。

美術棟があっていいな、通いたいと。素描室のある廊下の壁が真っ白できれいで。校庭には草がふわっと生えていていて、毎日たくさん走ったりする授業はなさそうなオーラでした。

高校ではどのような3年間を過ごされたのでしょうか。

あんなに空腹で早弁を繰り返す3年間になると思いませんでした。あっという間で、学年があがっていくと、皆だんだんアトリエに住み着く亡霊みたいになってくるんですよね。朝早くに学校に行って、夜は施錠されるまで居ることも多かったです。

高校時代について今もよく覚えていることがありましたら教えてください。

油画室の本棚にあった忘れられない一冊の画集があります。ゲルハルト・グリュックに似た作風で、カラーインクを使ったグラデーションの空色を描く作家さんの名前がどうしても思い出せなくて。覚えがある方おりませんでしょうか。

高校生時代に描いた絵

学んだこと、印象に残っていること、現在の作家活動に繋がっていることなどをお聞きしたいです。

「あんたが作ったものは簡単に誰かに蹴とばされる」と。私にそう言ってくる先生は笑わないゼペットおじいさん(※)みたいで最初は恐れていましたが、何年か後、地元の駅で偶然先生に会ってお互いぼちぼち元気でと握手して見送ったとき、先生がいてくれてよかったと思いました。目の前のことに煮詰まった時、一生懸命つくって「誰かに蹴とばされる」くらいがちょうどいいか、と思えます。

※ゼペットおじいさん:映画『ピノキオ』に登場するキャラクター。ピノキオの生みの親である人形職人。

通学時の思い出にはどのようなものがありますか?

高校の最寄り駅の福田町駅から田んぼの向こうに小さく仙台駅前のビル群が見えるんです。たどり着けるかな?とビル群を目指して歩いてみましたが、苦竹あたりで道に迷い終了しました。

高校生の頃、仙台の街にはどのような印象を抱いていたのでしょうか。

「八木山ベニーランド」のゴーカート乗り場からも、山を隔てた向こうに仙台の街が見えるんですよね。思い出の遊園地のフレームに収まっているように見える街、山に囲まれながらある街が、市街の中にいるとぴかぴかしているけど、昔からある石像のようでもあり、しぶいなと。

高校生時代に描いた絵

現在の作家活動について

高校卒業後、作家としてのデビューのきっかけはどのようなものだったのでしょう。

大学で版画をしながら、ときどき同人誌を作っていました。大学4年生の時に「ちばてつや賞」という新人賞にマンガを投稿して、今の担当編集者さんにひろっていただきました。

マンガ家になると決めたのは、いつ頃だったのですか?

就職活動が始まり、現実から逃避する形で夏休みにマンガを描いて投稿しようと思いました。

宮城で作家活動を行うことにしたのは、どういう理由からでしょう。また、今の生活環境が、現在の作品づくりに影響していると思うことはありますか?

ひたし豆が大好きで、家族がいるので宮城に居させていただいています。多くの時間を過ごしているので、描ける季節感も街並みも自然にここのものになっていると思います。

アトリエから見える風景

仙台のまちに影響を受けて描いた作品や表現もあるのでしょうか。

『なくてもよくて絶え間なく光る』(小学館)という高校生が主人公のマンガは、宮城野高校、仙台を思い出しながら描きました。広瀬川や、よく通った喜久屋書店のあるイービーンズのテラスや、クリスロード商店街などです。

仙台・宮城にまつわるお仕事もお見かけします。そのようなオファーを受けるときはどのようなお気持ちでしょう。

宮城で過ごしているのにこの地域について知らないことだらけなので、お仕事をさせていただきながら知っていけることがありがたいです。今の繁華街がバラック小屋だった当時の写真などを絵に起こすのはとても面白かったです。

2019年 ウェブマガジン「BGM」〈連載第19回〉掲載

仙台の街で、最近気になったことや印象的だったことはありますか?

この間、北山を通ったときに大きなお寺の参道のすぐ横に『ツルハドラッグ』があって、お寺の山の杉の木と合体して巨大物体に見えたのが、最近の仙台の街の印象的な風景でした。

マンガを描く人にとって、仙台・宮城はどんな環境だと感じるでしょうか。

仙台はビル街からちょっと歩くとすぐ森に入れていいと、むかし仙台在住の作家さんのエッセイで読みました。マンガも長時間屋内の作業が多いので、窓から好きな景色が見えてるといいですよね。

現在の制作環境
作品制作中の様子

宮崎さんにとって、暮らす街、身近にある街とはどのような存在でしょう。

家が壊され更地になると、そのうちに、そんな家あったっけ?と人の記憶から無くなっても、あの赤い玄関扉は覚えている!とか、まだらに覚えてるものがあると思います。身近な街のそのまだらな記憶を今あるものと混ぜながらいそいそとマンガにできたらと思います。

好きな仙台の風景

掲載:2024年9月30日

取材:2024年7月

写真提供/宮崎夏次系

宮崎 夏次系 みやざき・なつじけい
マンガ家。1987年宮城県生まれ。多摩美術大学美術学絵画学部卒。著作に『僕は問題ありません』『あなたはブンちゃんの恋』『宮崎夏次系画集 変な夢を見た』(ともに講談社)
『と、ある日のすごくふしぎ』(早川書房)など。